広島城完全ガイド|歴史・構造・見どころから最新情報まで徹底解説
広島城とは – 鯉城の概要と別称
広島城(ひろしまじょう)は、広島県広島市中区基町に位置する日本を代表する平城です。鯉城(りじょう)という別称で親しまれており、太田川デルタ地帯に築かれた壮大な城郭として知られています。
安土桃山時代の1589年(天正17年)に毛利輝元によって築城が開始され、大坂城や岡山城と並んで初期近世城郭の代表的な城として高く評価されています。また、松本城、元離宮二条城と共に日本三大平城に数えられる名城です。
現在の広島城は、本丸と二の丸を中心とした約12万平方メートルの範囲が国の史跡に指定されており、広島市中央公園の一部として市民や観光客に親しまれています。天守内部は博物館として広島の武家文化や城下町の歴史を紹介してきましたが、2027年3月22日をもって閉館となりました。
広島城の歴史 – 築城から現代まで
毛利輝元による築城
広島城の歴史は、中国地方の覇者であった毛利輝元が、それまでの居城であった郡山城(安芸高田市)から拠点を移すことを決断したことに始まります。
1589年(天正17年)、輝元は太田川河口のデルタ地帯という水陸交通の要衝に新たな城の建設を開始しました。築城にあたっては、豊臣秀吉の聚楽第や大坂城の影響を強く受けており、黒田官兵衛(黒田孝高)が築城の助言を行ったとされています。
当時のデルタ地帯は湿地が広がる土地であったため、「島普請」と呼ばれる大規模な土地造成工事が必要でした。1591年(天正19年)に輝元は入城しましたが、城郭全体の完成には約10年の歳月を要したといわれています。完成当時の広島城は、大坂城に匹敵する規模を誇る壮大な城郭でした。
福島氏・浅野氏の時代
関ヶ原の戦い後、毛利氏は西軍に属したため減封され、1600年(慶長5年)に東軍として活躍した福島正則が安芸・備後49万8千石の大名として広島城に入城しました。
福島正則は城の増築を行い、外堀までの範囲を拡大して城域を約90万平方メートルにまで広げました。しかし、1619年(元和5年)、幕府の許可なく城を修築したとして改易され、紀州から浅野長晟が入城します。
以後、明治維新まで約250年間にわたり、浅野氏12代が広島藩42万6千石の居城として広島城を治めました。この間、広島城は安芸国の政治・経済・文化の中心として繁栄し、城下町も大いに発展しました。
近代以降と原爆被災
明治維新後、廃藩置県により広島城は軍用地となり、明治時代には大日本帝国陸軍の施設が置かれました。天守や一部の櫓などは残されましたが、多くの建造物が取り壊されました。
1945年(昭和20年)8月6日、人類史上初めての原子爆弾投下により、広島城の天守をはじめとするすべての建造物が倒壊・焼失しました。爆心地から約1キロメートルの位置にあった広島城は、一瞬にしてその姿を失ったのです。
復元と現代
戦後の復興の象徴として、1958年(昭和33年)に開催された「広島復興大博覧会」に合わせて、鉄筋コンクリート造で天守が外観復元されました。多くの市民の支持と寄付により実現したこの復元は、広島市民の希望の象徴となりました。
その後、平成に入ってから二の丸の復元整備が進められ、1991年(平成3年)から1994年(平成6年)にかけて表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などが木造で復元されました。
2027年3月22日、昭和33年に復元された天守は、コンクリートの劣化や設備の老朽化などの問題から安全面を考慮し、約68年の歴史に幕を閉じました。今後、新たな天守の整備が検討されています。
広島城の構造 – 輪郭式平城の特徴
城郭の基本構造
広島城は輪郭式平城(りんかくしきひらじろ)という形式の城郭です。輪郭式とは、本丸を中心に二の丸、三の丸が同心円状に「回」の字型に配置される様式で、平城に多く見られる構造です。
太田川河口のデルタ地帯という平坦な土地に築かれたため、山城のような地形的な防御力はありませんが、その代わりに複雑な堀と櫓の配置により防御機能を高めていました。
城域は内堀、中堀、外堀の三重の堀で囲まれ、最盛期には外堀までの範囲が約90万平方メートルに及びました。現在は内堀内の本丸と二の丸を中心とした約12万平方メートルが史跡として保存されています。
天守の構造
広島城の天守は、五重五階の大天守に三重三階の小天守を渡り廊下で連結した連結式天守でした。この形式は、大坂城や名古屋城などにも見られる格式の高い構造です。
天守の外観は黒漆塗りの下見板張りで、屋根には鯱が載せられていました。内部は各階に部屋が設けられ、最上階は展望所として機能していました。
現在の復元天守は、外観は往時の姿を再現していますが、内部は博物館施設として活用されてきました。鉄筋コンクリート造5階建てで、各階には広島城の歴史や武家文化に関する展示がなされ、最上階は展望室として広島市街を一望できる空間となっていました。
櫓と門の配置
往時の広島城には、内堀に面して23基もの櫓が配置されていました。これらの櫓は防御施設であると同時に、城の威容を示す重要な建造物でした。
現在、二の丸には平成時代に木造復元された平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、表御門があり、江戸時代の姿を偲ぶことができます。特に太鼓櫓は、時を告げる太鼓が置かれていた櫓で、城下町の生活と密接に関わっていました。
本丸の見どころ
本丸は広島城の中核をなす区画で、天守を中心に本丸御殿などの重要施設が配置されていました。
天守(閉館)
2027年3月22日まで開館していた天守内部は、5層からなる博物館施設でした。
- 1階: 広島城の歴史と城下町の発展に関する展示
- 2階: 浅野家に伝わる武具や甲冑の展示
- 3階: 広島藩の政治と文化に関する資料
- 4階: 企画展示室
- 5階: 展望室(広島市街、原爆ドーム、瀬戸内海方面を一望)
天守からの眺望は、広島の都市景観を理解する上で貴重な視点を提供していました。
天守台と石垣
天守台の石垣は、原爆により崩壊しましたが、復元時に積み直されました。石垣の積み方は打込接(うちこみはぎ)という技法で、石の表面を加工して隙間を少なくする方法が用いられています。
本丸を囲む内堀の石垣も見どころのひとつで、水面に映る天守と石垣の姿は広島城を代表する景観となっています。
二の丸 – 木造復元建造物の魅力
二の丸は本丸の北側に位置し、藩主の居館や政務を行う施設が置かれていた重要な区画です。
表御門と御門橋
二の丸への正門である表御門は、1991年(平成3年)に木造で復元されました。高麗門形式の堂々とした門で、その前には御門橋が架けられています。
表御門をくぐると、往時の武家屋敷の雰囲気を感じることができ、広島城見学のハイライトのひとつとなっています。
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓
二の丸の東側には、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が連なっています。これらは1994年(平成6年)に木造復元されたもので、江戸時代の建築技術を用いて忠実に再現されています。
太鼓櫓は特に注目すべき建造物で、城内や城下町に時刻を知らせる太鼓が置かれていました。現在は特別公開イベントなどで内部が公開されることがあり、往時の櫓の機能や構造を学ぶことができます。
多聞櫓は細長い建物で、防御のための武器庫や兵士の詰所として使われていました。白壁と黒い瓦屋根のコントラストが美しく、撮影スポットとしても人気です。
二の丸の庭園と空間
二の丸には広場が整備されており、復元建造物を眺めながら散策を楽しむことができます。春には桜が咲き、秋には紅葉が美しく、四季折々の風景を楽しめる場所となっています。
また、二の丸ではイベントが開催されることも多く、「広島城メモリアルデー」などの特別イベントでは、太鼓櫓の特別公開や武者行列などが行われ、多くの来場者で賑わいます。
三の丸と外郭
三の丸は二の丸の外側に広がる区画で、家臣の屋敷や町人町が配置されていました。現在は広島市中央公園や市街地となっており、往時の面影はほとんど残っていませんが、一部に三の丸跡を示す史跡が残されています。
外堀の跡は現在の道路や河川となっており、広島城の城域がいかに広大であったかを物語っています。
広島城と原爆 – 被爆の記憶
広島城は、1945年8月6日の原爆投下により完全に破壊されました。爆心地から約1キロメートルの位置にあった天守は、爆風により一瞬にして倒壊し、その後の火災で焼失しました。
原爆投下時、広島城内には大本営が置かれており、多くの軍人や軍属が犠牲となりました。城内で被爆した人々の記憶は、広島の被爆の歴史を語る上で重要な証言となっています。
現在の広島城跡には、被爆樹木や被爆石垣の一部が残されており、原爆の威力と平和の尊さを伝える場所ともなっています。天守の展示でも、原爆による被災と復興の歴史が紹介されていました。
広島城のイベントと活用
広島城では年間を通じて様々なイベントが開催されています。
広島城メモリアルデー
毎年5月頃に開催される「広島城メモリアルデー」は、広島城の魅力を広く発信する特別イベントです。太鼓櫓の特別公開、武者行列、伝統芸能の披露、甲冑試着体験など、多彩なプログラムが用意され、家族連れから歴史愛好家まで幅広い層が楽しめる内容となっています。
企画展示とイベント
天守閉館前には、広島城の歴史や武家文化に関する企画展示が定期的に開催されていました。また、二の丸では撮影イベントや歴史講座なども行われ、広島城の魅力を多角的に伝える取り組みが続けられています。
桜の名所として
広島城は桜の名所としても知られており、春には約370本の桜が咲き誇ります。内堀沿いの桜並木や二の丸の桜は特に美しく、多くの花見客で賑わいます。夜間にはライトアップも行われ、幻想的な夜桜を楽しむことができます。
アクセス – 広島城への行き方
公共交通機関でのアクセス
路面電車(広島電鉄)
- 「紙屋町東」電停または「紙屋町西」電停下車、徒歩約15分
- 「縮景園前」電停下車、徒歩約10分
バス
- 広島バス「広島城(護国神社前)」バス停下車すぐ
- 広島バス「合同庁舎前」バス停下車、徒歩約8分
JR
- JR広島駅から徒歩約25分
- JR広島駅から路面電車またはバスで約15分
アストラムライン
- 「県庁前」駅下車、徒歩約10分
車でのアクセス
高速道路
- 山陽自動車道「広島IC」から約20分
- 広島高速道路「祇園新道北IC」から約10分
駐車場
- 広島市中央駐車場(有料)
- 周辺のコインパーキング
※広島城専用の駐車場はありませんので、公共交通機関の利用をおすすめします。
周辺施設との組み合わせ
広島城の周辺には、以下のような観光スポットがあります。
- 縮景園: 徒歩約10分。国の名勝に指定された美しい日本庭園
- 広島県立美術館: 縮景園に隣接
- 原爆ドーム: 徒歩約15分。世界遺産
- 平和記念公園: 徒歩約20分
- 広島市中央公園: 広島城に隣接。広大な都市公園
これらを組み合わせることで、充実した広島観光を楽しむことができます。
広島城天守の閉館と今後
2027年3月22日、昭和33年に復元された広島城天守は閉館しました。約68年にわたり広島市民や観光客に親しまれてきた天守ですが、鉄筋コンクリート造の劣化や設備の老朽化により、安全面を考慮した措置です。
閉館の理由
- コンクリートの経年劣化
- 耐震性能の不足
- 設備(電気、空調、防災など)の老朽化
- バリアフリー対応の困難さ
今後の展望
広島市は今後、新たな天守の整備について検討を進めています。木造復元も含めた様々な選択肢が議論されており、広島城の魅力向上のためのふるさと納税も受け付けられています。
また、天守に使われていた木材の活用についても情報を募集しており、市民参加型の取り組みが進められています。
二の丸の木造復元建造物は引き続き公開されており、広島城の歴史と魅力を伝える場として機能しています。
広島城と安芸国の歴史
広島城は安芸国(現在の広島県西部)の中心として、地域の歴史と深く結びついています。
毛利氏が中国地方の覇者として君臨した時代、広島城は毛利氏の権力の象徴でした。その後、福島氏、浅野氏と城主は変わりましたが、常に安芸国の政治・経済・文化の中心として機能してきました。
江戸時代の広島藩は、浅野氏のもとで42万6千石の大藩として繁栄し、城下町も大いに発展しました。広島の産業、特に海運業や醸造業が発達したのも、広島城を中心とした城下町の経済活動があったからです。
現在も広島城は、広島市のシンボルとして市民に愛され、広島の歴史と文化を伝える重要な文化財として保存・活用されています。
撮影スポットとしての広島城
広島城は、その美しい姿から撮影スポットとしても人気があります。
おすすめ撮影ポイント
内堀越しの天守
内堀の水面に映る天守の姿は、広島城を代表する景観です。特に早朝や夕暮れ時の光が美しく、四季折々の表情を見せます。
二の丸の復元建造物
表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が連なる姿は、江戸時代の城郭建築の美しさを伝えています。白壁と黒瓦のコントラストが映えます。
桜の季節
春には桜と天守のコラボレーションが楽しめます。内堀沿いの桜並木は特に人気の撮影スポットです。
夜間ライトアップ
夜間にはライトアップが行われ、幻想的な雰囲気を楽しめます。水面に映る光の姿も美しく、昼間とは異なる表情を見せます。
撮影の際は、他の来場者の迷惑にならないよう配慮し、三脚使用などのルールを守りましょう。
まとめ – 広島城の魅力と価値
広島城は、日本三大平城のひとつとして、また初期近世城郭の代表例として、高い歴史的価値を持つ名城です。
毛利輝元による築城から400年以上の歴史を持ち、福島氏、浅野氏と城主を変えながら、常に安芸国の中心として機能してきました。原爆により一度は完全に失われましたが、市民の熱意により復元され、広島復興の象徴となりました。
現在、昭和に復元された天守は閉館しましたが、二の丸の木造復元建造物は江戸時代の城郭建築の美しさを今に伝えています。広島城は単なる観光施設ではなく、広島の歴史、原爆の記憶、復興の歩みを伝える重要な文化遺産なのです。
今後の天守整備にも注目が集まる中、広島城は新たな時代に向けて進化を続けています。広島を訪れる際には、ぜひ広島城を訪れ、その歴史と魅力に触れてみてください。
