造田城(香川県仲多度郡)

造田城(香川県仲多度郡)
所在地 〒766-0201 香川県仲多度郡まんのう町造田

造田城(香川県仲多度郡)の歴史と見どころ完全ガイド|戦国時代の悲劇を秘めた山城

造田城とは

造田城(ぞうだじょう)は、香川県仲多度郡まんのう町造田と綾歌郡綾川町西分の境界に位置する標高428.1mの城山に築かれた戦国時代の山城です。讃岐国(現在の香川県)における中世の重要な山城の一つとして知られ、羽床七人衆に数えられた造田氏の居城として機能していました。

城跡は現在のまんのう町と綾川町の境界にそびえる険しい山頂部に位置し、比高差約250mの要害の地に築かれています。香川県道17号線が通る首切峠の南側に位置し、この峠の名前自体が城の悲劇的な歴史を今に伝えています。

造田城の歴史

造田氏の出自と成立

造田氏の出自については諸説あり、明確な史料が乏しいため確定的なことは言えません。主な説としては以下のようなものがあります。

在地豪族説: 古くからこの地域に根付いていた在地豪族が、戦国時代の動乱期に勢力を拡大して城を築いたとする説です。讃岐国の中讃地域は古代から交通の要衝であり、有力な土豪が存在していたことは十分に考えられます。

中央勢力説: 中央政権や讃岐の守護職を得た一族の支流が、この地に入部して造田氏を名乗ったとする説もあります。戦国時代には各地で同様の事例が見られます。

いずれにせよ、造田氏は戦国時代には讃岐国西部において一定の勢力を持つ国人領主として確立していました。

羽床七人衆としての造田氏

造田氏は「羽床七人衆」の一人に数えられていました。羽床七人衆とは、讃岐国中讃地域において羽床氏を中心に結束した国人領主たちの連合体です。この地域の国人たちは、より大きな勢力に対抗するため、相互に協力関係を築いていました。

造田城の城主として知られる造田備中守宗俊は、この羽床七人衆の一員として、地域の政治的・軍事的バランスの中で重要な役割を果たしていたと考えられます。

天正7年の悲劇

造田城の歴史で最も重要な出来事は、天正7年(1579年)11月26日に起きた長宗我部元親による攻撃です。

長宗我部元親の讃岐侵攻: 土佐国(現在の高知県)を統一した長宗我部元親は、四国統一を目指して讃岐国への侵攻を開始しました。天正7年の時点で、長宗我部軍は讃岐国西部に向けて進軍を続けていました。

造田城の攻防: 長宗我部軍の大軍が造田城を包囲した際、造田備中守宗俊率いる城方は圧倒的な兵力差に直面しました。史料によれば、城を守る家来たちのほとんどが討死し、城主の造田備中守宗俊は最期を悟って城に火を放ち、自害して果てたと伝えられています。

この戦いの凄惨さは、現在も残る「首切峠」という地名に象徴されています。戦死者の首が多数この峠で切られたことから、この名が付けられたと言われています。

落城後の造田城

造田城落城後、この地域は長宗我部氏の支配下に入りましたが、その支配も長くは続きませんでした。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国平定が行われ、讃岐国は生駒氏の領国となりました。この時点で造田城は既に廃城となっていたと考えられ、以後、城として機能することはありませんでした。

造田城の縄張りと構造

立地と地形

造田城は標高428.1mの城山山頂部に築かれた典型的な山城です。比高差約250mという険しい立地は、敵の攻撃を防ぐ天然の要害となっていました。

城の位置は讃岐平野を見渡せる絶好の場所にあり、軍事的な監視拠点としても機能していたと考えられます。また、まんのう町と綾川町の境界に位置することから、複数の地域を結ぶ交通路の監視という役割も担っていた可能性があります。

遺構の特徴

現在、造田城跡には以下のような遺構が確認されています。

郭(くるわ): 城の中心となる平坦地である郭が複数確認されています。主郭を中心に、段状に配置された複数の郭が山頂部から斜面にかけて展開していたと推定されます。

土塁: 一部の郭では土塁の痕跡が確認されており、防御施設としての機能を持っていたことがわかります。

切岸: 山城特有の急峻な切岸(人工的に削られた急斜面)が各所に見られ、敵の侵入を困難にする工夫が施されていました。

山城としての基本的な構造を持ちながらも、大規模な石垣などは確認されておらず、土を主体とした中世山城の典型的な形態を示しています。これは、造田城が戦国時代前期から中期にかけての築城技術で造られたことを示唆しています。

首切峠と関連史跡

首切峠の由来

香川県道17号線が通る首切峠は、造田城の悲劇を今に伝える重要な場所です。天正7年の戦いで多くの戦死者が出たこの峠では、討ち取られた兵士たちの首がこの場所で切られたと伝えられています。

峠には現在も戦没者を弔うお地蔵様が祀られており、地域の人々によって大切に守られています。このお地蔵様は、戦国時代の激しい戦いの記憶を今に伝える貴重な存在となっています。

造田備中守の墓

首切峠には城主・造田備中守宗俊の墓も残されています。自害して果てた城主を弔うため、後世の人々によって建立されたと考えられます。

墓所は「造田大明神」として祀られており、造田備中守宗俊の埋葬地とされています。地域の歴史を伝える重要な史跡として、現在も訪れる人が絶えません。

備中地城との関係

造田城の近隣には「備中地城」という別の山城も存在します。香川県仲多度郡まんのう町造田備中地に位置する標高240m、比高差約60mの山城です。

備中地城は土塁や郭などの遺構が確認されており、造田城の支城または関連施設であった可能性が指摘されています。城主の名前である「備中守」と地名の「備中地」の関連性も興味深い点です。

造田城へのアクセスと見学情報

所在地

  • 住所: 香川県仲多度郡まんのう町造田(綾歌郡綾川町西分との境界)
  • 旧国名: 讃岐国

アクセス方法

車でのアクセス:

  • 高松自動車道「善通寺IC」から約15km、車で約25分
  • 香川県道17号線の首切峠付近が登山口となります

公共交通機関:

  • JR土讃線「琴平駅」からタクシーで約20分
  • 公共交通機関でのアクセスは不便なため、車の利用をおすすめします

登城の注意点

造田城は本格的な山城であり、登城には以下の準備と注意が必要です。

  1. 登山装備: 標高428m、比高差250mの登山となるため、登山靴や動きやすい服装が必須です
  2. 所要時間: 往復で2〜3時間程度を見込んでください
  3. 季節: 夏季は草木が繁茂し、冬季は積雪の可能性があります。春秋の登城がおすすめです
  4. 水分補給: 山中に水場はありませんので、十分な飲料水を持参してください
  5. 単独行動の回避: できるだけ複数人での登城をおすすめします

周辺の観光スポット

造田城を訪れた際には、周辺の観光スポットも併せて訪問することができます。

まんのう町の見どころ:

  • 満濃池: 日本最大級の灌漑用ため池で、弘法大師空海が改修したことで知られます
  • 国営讃岐まんのう公園: 四季折々の花が楽しめる広大な公園

琴平・丸亀・坂出方面:

  • 金刀比羅宮: 「こんぴらさん」として親しまれる讃岐国の名社
  • 丸亀城: 現存天守を持つ名城
  • 善通寺: 弘法大師空海の生誕地

讃岐国の城郭文化における造田城の位置づけ

香川県の山城の特徴

香川県(旧讃岐国)は比較的平野部が多い地形ですが、山城も数多く存在します。高松市、坂出市、丸亀市、善通寺市、三豊市など、各地域に戦国時代の山城が点在しており、それぞれが地域の歴史を物語っています。

仲多度郡には造田城のほか、多くの山城が確認されており、戦国時代にこの地域が軍事的に重要な位置を占めていたことがわかります。

長宗我部元親の讃岐侵攻と山城

長宗我部元親の讃岐侵攻は、讃岐国の多くの山城にとって運命の分岐点となりました。造田城のように激しい攻防の末に落城した城もあれば、戦わずして降伏した城もありました。

造田城の戦いは、地方の国人領主たちが大勢力の前にどのように対応したかを示す典型的な事例と言えます。圧倒的な兵力差にもかかわらず、最後まで抵抗した造田備中守宗俊の姿勢は、武士の意地と誇りを示すものとして語り継がれています。

城郭研究における価値

造田城は、文化財指定こそ受けていないものの、讃岐国における中世山城の典型例として、城郭研究者から注目されています。

縄張図の作成や遺構の調査が進められており、戦国時代の山城がどのような構造を持ち、どのように機能していたかを知る上で貴重な資料となっています。特に、比較的遺構の残存状態が良好な部分もあり、今後の詳細な調査が期待されています。

造田城を訪れる意義

歴史ロマンを感じる

造田城を訪れることは、単なる山登りではなく、戦国時代の激動の歴史に触れる体験です。首切峠に立ち、造田備中守宗俊の墓に手を合わせるとき、440年以上前にこの地で繰り広げられた壮絶な戦いに思いを馳せることができます。

山頂からの眺望は素晴らしく、讃岐平野を一望できます。この景色を眺めながら、城主たちがこの地をどのように守ろうとしたのか、想像を巡らせるのも城跡めぐりの醍醐味です。

地域の歴史を学ぶ

造田城の歴史を学ぶことは、香川県仲多度郡、そして讃岐国全体の歴史を理解することにつながります。まんのう町や綾川町の地域史において、造田城は重要な位置を占めており、地域のアイデンティティの一部となっています。

地元の人々によって大切に守られてきた史跡を訪れることで、歴史が単なる過去の出来事ではなく、現在に生きる人々の記憶と誇りとして継承されていることを実感できます。

山城の魅力を体感する

日本の城というと、天守閣のある近世城郭をイメージする人が多いかもしれません。しかし、戦国時代の山城には、石垣や天守とは異なる独特の魅力があります。

自然の地形を巧みに利用した縄張り、急峻な切岸、尾根を削平して作られた郭など、山城特有の構造を実際に歩いて体験することで、中世の築城技術や戦術の巧みさを理解することができます。

造田城の保存と今後の課題

現状と課題

造田城跡は現在、特に積極的な整備は行われておらず、自然の中に遺構が残されている状態です。これは遺構の保存という観点からは望ましい面もありますが、一方で以下のような課題も存在します。

  1. 遺構の風化: 土塁や郭などの遺構は、年月とともに風化が進んでいます
  2. アクセスの困難さ: 整備された登山道がないため、一般の訪問者にとってはアクセスが難しい状況です
  3. 認知度の低さ: 地域外での認知度が低く、貴重な歴史遺産であることが十分に知られていません

保存への取り組み

地域の歴史愛好家や城郭研究者によって、造田城の価値を伝える活動が続けられています。写真撮影や測量調査、縄張図の作成などが行われており、少しずつではありますが、造田城の実態が明らかになってきています。

また、首切峠の造田大明神(造田備中守宗俊埋葬之地)は地域の人々によって守られており、定期的にお参りする人の姿も見られます。こうした地道な活動が、歴史の記憶を次世代に伝えることにつながっています。

今後の展望

造田城が今後、より多くの人に知られ、訪れられる場所となるためには、以下のような取り組みが期待されます。

  • 詳細な学術調査の実施と報告書の作成
  • 案内板や説明板の設置
  • 安全な登城ルートの整備
  • 地域の観光資源としての活用
  • デジタル技術を活用した情報発信(VR・ARによる復元など)

ただし、過度な開発は遺構の破壊につながる恐れもあるため、保存と活用のバランスを取ることが重要です。

まとめ

造田城は、香川県仲多度郡まんのう町と綾川町の境界にそびえる標高428mの山城で、戦国時代の讃岐国における国人領主の居城として重要な役割を果たしました。

天正7年(1579年)に長宗我部元親の攻撃を受けて落城し、城主の造田備中守宗俊が自害して果てるという悲劇的な最期を遂げましたが、その歴史は首切峠の地名や造田大明神として今も地域に語り継がれています。

現在も山頂には郭や土塁などの遺構が残されており、讃岐国の山城の典型例として城郭研究の対象となっています。登城には本格的な山登りの装備が必要ですが、山頂からの眺望と歴史ロマンは、訪れる価値のあるものです。

高松市、坂出市、丸亀市、善通寺市、三豊市など香川県各地には多くの城跡が残されていますが、造田城はその中でも戦国時代の激動を今に伝える貴重な史跡と言えるでしょう。歴史に興味のある方、山城ファンの方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

地図

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近隣の城郭