葛尾城 埴科郡 長野県 – 村上義清の居城と武田信玄との攻防の全貌
葛尾城の概要
葛尾城(かつらおじょう)は、長野県埴科郡坂城町に所在する戦国時代の山城です。千曲川北岸に聳える葛尾山(標高805m)の山頂部に築かれ、麓からの比高差は約400mにも及ぶ、戦国時代の山城のなかでも特に堅固な要塞として知られています。
北信濃で最大の勢力を誇った信濃源氏村上氏の本拠地であり、特に村上義清の時代には、甲斐から侵攻してきた武田晴信(後の信玄)を二度にわたって撃退した名城として歴史に名を刻んでいます。現在は長野県指定史跡として保護され、土塁や堀切などの遺構が良好な状態で残されています。
葛尾城の立地と地理的重要性
葛尾城は千曲川流域の要衝に位置し、北信濃から東信濃、そして上州(群馬県)へと続く交通の要所を押さえる戦略的な立地にあります。葛尾山からは千曲川沿いの街道を一望でき、敵の動向を早期に察知できる監視機能を有していました。
山城としての防御力は極めて高く、急峻な山容と複雑な縄張りにより、攻城側に多大な困難を強いる設計となっています。この地理的優位性こそが、村上義清が武田軍を撃退できた大きな要因の一つです。
葛尾城の歴史
築城と村上氏の台頭
葛尾城の築城時期については諸説ありますが、南北朝時代末期(14世紀後半)に村上氏によって築かれたと考えられています。村上氏は清和源氏の流れを汲む名門で、信濃国における有力な武家として古くから勢力を保持していました。
室町時代から戦国時代にかけて、村上氏は葛尾城を本拠として北信濃一帯に勢力を拡大し、埴科郡、更級郡、高井郡などを支配下に置く地域大名へと成長しました。葛尾城を中心に、周辺には多くの支城を配置し、強固な防衛網を構築していました。
村上義清と武田信玄の激闘
葛尾城が歴史の表舞台に登場するのは、村上義清の時代です。義清は北信濃を統一し、最盛期には信濃国内でも屈指の勢力を誇りました。
上田原の戦い(天文17年・1548年)
天文17年(1548年)2月、武田晴信(信玄)は信濃侵攻の一環として村上領へ侵入しました。上田原(現在の上田市)で両軍は激突し、村上義清は武田軍を撃破します。この戦いで武田方は板垣信方、甘利虎泰といった重臣を失い、晴信自身も負傷するという大敗を喫しました。
これは武田信玄が生涯で味わった数少ない敗北の一つであり、村上義清の武将としての力量を天下に知らしめる戦いとなりました。
砥石崩れ(天文19年・1550年)
天文19年(1550年)9月、武田晴信は再び信濃侵攻を開始し、村上方の支城である砥石城(現在の上田市)を攻撃しました。しかし、村上義清の巧みな戦術により武田軍は大敗を喫します。この「砥石崩れ」と呼ばれる戦いでも、武田方は多くの将兵を失う結果となりました。
二度にわたる勝利により、村上義清は「信玄を二度破った名将」として不動の評価を確立しました。
真田幸隆の調略と葛尾城落城
しかし、武田信玄は正面攻撃を諦め、戦略を転換します。真田幸隆(幸綱)を登用し、調略による村上氏の弱体化を図りました。真田幸隆はもともと村上氏の配下でしたが、武田方に転じて調略の名手として活躍します。
天文20年(1551年)から天文22年(1553年)にかけて、真田幸隆の調略により村上方の支城が次々と武田方に寝返ります。特に砥石城の奪取は大きな痛手となりました。
天文22年(1553年)4月、ついに葛尾城は武田軍の包囲を受けます。支城網の崩壊により孤立した村上義清は、葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとへ落ち延びることを余儀なくされました。
武田氏支配下の葛尾城
葛尾城を手に入れた武田信玄は、この城を北信濃支配の拠点として重視しました。城代を置いて統治にあたらせ、さらに上杉謙信との川中島の戦いにおいても重要な役割を果たしました。
武田氏の支配下で葛尾城は改修が加えられ、防御機能がさらに強化されたと考えられています。
上杉氏の時代と廃城
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、北信濃は上杉景勝の支配下に入りました。葛尾城も上杉氏の城となりますが、この頃には既に山城の時代は終わりを迎えつつありました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、上杉氏が会津へ移封されると、葛尾城はその役割を終えて廃城となりました。以後、城は歴史の舞台から姿を消し、山中に静かに遺構を残すこととなります。
葛尾城の縄張りと遺構
主郭(本丸)
葛尾城の主郭は標高805mの葛尾山山頂に位置します。東西約50m、南北約30mの規模を持ち、周囲には土塁が巡らされています。主郭からは千曲川流域を一望でき、優れた展望と監視機能を備えていました。
現在も土塁の痕跡が明瞭に残り、戦国時代の山城の構造を知る上で貴重な遺構となっています。
二の郭・三の郭
主郭の周囲には二の郭、三の郭が配置され、階段状の曲輪配置となっています。各曲輪は堀切や土塁によって区画され、防御性を高める工夫が随所に見られます。
堀切
葛尾城の最大の特徴は、尾根筋を遮断する巨大な堀切です。特に主郭の南側と北側には深さ10m以上の大規模な堀切が設けられ、敵の侵入を阻む強固な防御線を形成しています。
これらの堀切は現在も良好に残存しており、山城の防御システムを体感できる貴重な遺構です。
竪堀と横堀
斜面には竪堀が多数設けられ、敵の側面攻撃を防ぐ工夫がなされています。また、尾根の中腹には横堀も確認でき、複雑な防御ラインが構築されていたことが分かります。
土塁
各曲輪の周囲には土塁が築かれ、防御力を高めています。特に主郭の土塁は高さ2m以上の部分も残り、当時の築城技術の高さを物語っています。
村上氏居館跡(満泉寺)
葛尾城の麓、現在の坂城町坂城には村上氏の居館がありました。平時には領主がこの居館で政務を執り、戦時には山上の葛尾城に籠城するという使い分けがなされていました。
現在、居館跡の一部は満泉寺の境内となっており、石垣や土塁の痕跡が残されています。満泉寺は村上氏ゆかりの寺院として知られ、境内には村上義清に関する資料も展示されています。
居館跡周辺には堀や土塁の遺構が点在し、中世の居館の様子を今に伝えています。葛尾城を訪れる際には、この居館跡も併せて見学することで、村上氏の支配体制をより深く理解できるでしょう。
笄の渡しと千曲川の防衛線
葛尾城の防衛システムを語る上で欠かせないのが、千曲川の存在です。城の南側を流れる千曲川は天然の堀として機能し、敵の接近を阻む重要な防御線でした。
「笄の渡し(こうがいのわたし)」は、千曲川を渡る重要な渡河点の一つで、村上氏はこの渡し場を厳重に管理していました。武田軍が北信濃へ侵攻する際も、この渡河点の確保が重要な戦略目標となりました。
現在も千曲川沿いには笄の渡し跡の碑が立ち、当時の交通の要衝としての重要性を示しています。
葛尾城の訪問ガイド
アクセス方法
電車利用の場合
- しなの鉄道「坂城駅」下車、徒歩約20分で登山口
- 駅前から坂城町循環バスも利用可能
車利用の場合
- 上信越自動車道「坂城IC」から約10分
- 登山口付近に駐車場あり(無料)
登城ルート
葛尾城への登城ルートは複数ありますが、最も一般的なのは「坂城神社コース」です。
- 坂城神社コース(所要時間:約50分)
- 坂城神社から登山道を進む標準ルート
- 比較的整備された登山道
- 中級者向け
- 満泉寺コース(所要時間:約60分)
- 村上氏居館跡の満泉寺から登るルート
- 歴史的な経路を辿ることができる
- やや急峻な箇所あり
見学のポイント
- 所要時間:登城から下山まで約2〜3時間
- 難易度:中級(標高差400m、急峻な山道あり)
- 服装:登山に適した服装、トレッキングシューズ推奨
- 持ち物:飲料水、タオル、虫除けスプレー(夏季)
- ベストシーズン:4月〜11月(冬季は積雪により困難)
見学時の注意事項
- 山城のため、足元が不安定な箇所があります
- 夏季はマムシやスズメバチに注意
- 単独登山は避け、複数人での登城を推奨
- 天候不良時は登城を控えましょう
- ゴミは必ず持ち帰りましょう
周辺の関連史跡
坂城町立博物館(葛尾城跡資料館)
葛尾城や村上氏に関する詳細な資料を展示しています。登城前に訪問すると、より深く歴史を理解できます。
- 住所:長野県埴科郡坂城町坂城6313-2
- 開館時間:9:00〜17:00
- 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
村上義清公墓所
坂城町内には村上義清ゆかりの史跡が点在しています。義清の墓所とされる場所もあり、歴史ファンには必見です。
砥石城跡
「砥石崩れ」の舞台となった砥石城は、上田市にあります。葛尾城と併せて訪問すると、村上義清と武田信玄の攻防をより立体的に理解できます。
葛尾城の文化財指定
葛尾城跡は昭和48年(1973年)に長野県史跡に指定されました。戦国時代の山城の遺構が良好に保存されている貴重な事例として評価されています。
近年、坂城町では葛尾城跡の保存と活用に力を入れており、定期的な草刈りや案内板の整備などが行われています。また、地元のボランティアガイドによる案内サービスも提供されており、より詳しい解説を聞きながら見学することも可能です。
葛尾城と戦国時代の信濃
葛尾城の歴史は、戦国時代の信濃国の複雑な情勢を象徴しています。武田信玄の信濃侵攻、上杉謙信との川中島の戦い、真田氏の台頭など、日本史上の重要な出来事と深く関わっています。
村上義清が武田信玄を二度破ったという事実は、武田軍の強さが絶対的なものではなかったことを示しています。地の利を活かした防御戦術、地域の支持を得た統治、そして優れた武将としての資質が、義清の勝利を可能にしました。
しかし、最終的には調略という別の手段によって葛尾城は陥落します。この経緯は、戦国時代の戦いが単なる武力だけでなく、外交、調略、経済力など総合的な力の競争であったことを物語っています。
葛尾城の現在と保存活動
現在、葛尾城跡は地域の貴重な歴史遺産として大切に保存されています。坂城町教育委員会を中心に、遺構の保存と活用が進められており、登山道の整備や案内板の設置が行われています。
毎年、地元の歴史愛好家や城郭ファンが訪れ、戦国時代の息吹を感じています。また、春と秋には「葛尾城まつり」などのイベントも開催され、地域の歴史文化の発信拠点としての役割も果たしています。
近年の城ブームにより、全国から多くの歴史ファンが訪れるようになり、坂城町の観光資源としても注目されています。
まとめ
長野県埴科郡坂城町の葛尾城は、戦国時代の山城の傑作として、また村上義清という名将の居城として、日本の城郭史において重要な位置を占めています。武田信玄を二度撃退したという輝かしい戦歴、そして最終的には調略により陥落したという劇的な歴史は、多くの歴史ファンを魅了し続けています。
標高805mの山頂に残る堀切や土塁などの遺構は、当時の築城技術の高さを今に伝え、訪れる者に戦国時代の緊張感を体感させてくれます。千曲川を見下ろす絶景と共に、歴史のロマンを感じられる葛尾城は、信濃の戦国史を学ぶ上で欠かせない史跡と言えるでしょう。
城郭ファンはもちろん、登山やハイキングを楽しみたい方にとっても、葛尾城は魅力的な目的地です。長野県を訪れた際には、ぜひこの歴史ある山城を訪ねてみてください。
