武茂城(栃木県)完全ガイド:宇都宮氏一族の山城と大久保氏のルーツを探る
武茂城とは:下野国の名族が築いた戦国の山城
武茂城(むもじょう)は、栃木県那須郡那珂川町馬頭に所在する中世山城です。正応・永仁年間(1288年~1299年)頃に宇都宮氏の分家である武茂泰宗によって築かれたとされ、現在は栃木県指定史跡として保護されています。
下野国北東部の要衝に位置するこの城は、東西に並ぶ二つの尾根を利用した一城別郭という独特の構造を持ち、戦国時代の山城の様相を良好に保存している貴重な遺跡です。主城である西城には現在静神社が鎮座し、東側には東城(武茂東城)が配置されています。
武茂氏は宇都宮氏の有力な分家として、下野国北部で大きな影響力を持ち続けました。特筆すべきは、この武茂氏の子孫が三河に移住し、徳川家康に仕えた大久保氏の祖先となったという歴史的事実です。
武茂氏の歴史:宇都宮氏分家から大久保氏へ
武茂氏の成立と宇都宮氏との関係
武茂氏の祖である武茂泰宗は、宇都宮景綱の三男として生まれました。鎌倉時代中期に武茂の地を与えられ、武茂を名乗るようになったのが一族の始まりです。武茂という地名は、現在の那珂川町馬頭地区に相当し、那珂川沿いの交通の要衝でした。
武茂氏は宇都宮氏の分家でありながら、その勢力は侮れないものがありました。宇都宮本家が断絶した際には、何度か武茂氏から当主を出して本家を継いでおり、宇都宮氏一族の中でも特に重要な家柄であったことがうかがえます。
戦国時代の武茂氏:佐竹氏との関係
戦国時代に入ると、武茂氏は隣国常陸の佐竹氏と深い関係を持つようになります。下野国北部は宇都宮氏、那須氏、佐竹氏の勢力が交錯する地域であり、武茂氏は時に宇都宮氏の家臣として、時に佐竹氏に接近するなど、複雑な外交を展開しました。
特に16世紀後半には佐竹氏の影響下に入り、佐竹氏の下野進出の拠点として機能したとされています。この時期に武茂城は戦国期の山城として大規模に改修されたと考えられており、現在見られる土塁や空堀、堀切などの遺構の多くはこの時期に整備されたものと推定されています。
武茂氏の断絶と再興
武茂氏の歴史は、断絶と再興を繰り返す波乱に満ちたものでした。宇都宮本家との関係で当主が本家を継いだ際に武茂家が一時的に途絶えることがあり、その都度、宇都宮氏の一族から養子を迎えて再興されました。
こうした断絶と再興の歴史は、武茂氏が宇都宮氏一族の中で特別な地位にあったことを示しています。単なる分家ではなく、本家を支える重要な家系として認識されていたのです。
三河大久保氏との関係
武茂氏の歴史で最も興味深いのは、三河国の大久保氏との関係です。戦国時代末期、武茂氏の一族が三河に移住し、徳川家康に仕えた大久保氏の祖先となりました。
大久保氏は徳川家の重臣として知られ、大久保忠世、大久保忠隣など、江戸幕府の成立に重要な役割を果たした人物を輩出しています。その祖先が下野国の武茂氏であるという事実は、武茂城を歴史的に重要な城郭として位置づける大きな要素となっています。
豊臣・徳川時代と武茂氏の終焉
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、宇都宮氏は改易され、武茂氏もまた所領を失いました。佐竹氏が常陸54万石の大名として確立すると、下野北部の一部は佐竹氏の支配下に入りましたが、武茂氏自体は在地領主としての地位を失っていきました。
関ヶ原の戦い後、佐竹氏が秋田へ転封されると、武茂の地は幕府直轄領や旗本領となり、武茂城は完全に廃城となりました。しかし、城跡は地域の人々によって大切に守られ、現在に至るまで良好な保存状態を保っています。
武茂城の構造:一城別郭の山城
西城(主城)の構造
武茂城の主城である西城は、静神社が鎮座する丘陵上に築かれています。比高は約50メートルで、山城としては比較的登りやすい高さです。
本丸(主郭)は静神社の奥、さらに5分ほど登った位置にあり、周囲を土塁で囲まれています。本丸の規模は東西約40メートル、南北約30メートルで、中世の山城としては標準的な広さです。土塁は高さ2~3メートルほどが残存し、特に北側と西側の土塁が良好な状態で保存されています。
二郭(出丸)は静神社の拝殿が建つ場所で、本丸の南側に位置します。この二郭と本丸の間には土橋で結ばれた空堀があり、防御機能を高めています。空堀は深さ約4~5メートル、幅約6~8メートルで、薬研堀の形状をしています。
堀切は本丸の北側に明瞭に残っており、尾根を分断する形で設けられています。この堀切は深さ約5メートル、幅約10メートルに達し、武茂城の遺構の中でも最も見応えのあるものの一つです。
東城(武茂東城)の構造
西城の東側、谷を挟んだ対面の尾根上には東城が配置されています。東城は西城と比べるとやや小規模ですが、独立した城郭として機能していました。
東城の曲輪は複数段に分かれており、それぞれが土塁で区画されています。西城との間の谷部分は自然の堀として機能し、両城を結ぶ動線は限定されていました。この一城別郭の構造は、敵が一方の城を攻略しても、もう一方の城から反撃できるという戦術的利点があります。
古館との関係
武茂城が築かれる以前、武茂泰宗は現在の城跡の南西麓にある「古館」と呼ばれる場所に居館を構えていたとされています。この古館は平地の居館であり、戦国時代になって防御性を高めるために山上に城を移したと考えられています。
古館の遺構は現在ほとんど残っていませんが、地名として「馬場東」という名称が残り、かつての館の存在を示唆しています。
武茂城の見所:遺構の魅力
土塁と曲輪
武茂城の最大の見所は、良好に保存された土塁です。本丸を囲む土塁は高さ2~3メートルが残り、戦国時代の築城技術を今に伝えています。土塁の上を歩くことができる箇所もあり、当時の城の規模を体感できます。
曲輪は複数段に分かれており、それぞれが明確な段差で区画されています。各曲輪の平坦面は良好に保たれており、かつてここに建物が建ち並んでいた様子を想像することができます。
空堀と薬研堀
二郭と本丸の間にある空堀は、典型的な薬研堀の形状をしており、中世城郭の堀の技術を学ぶ上で貴重な遺構です。堀底はV字型に深く掘り込まれており、敵の侵入を防ぐ工夫が見て取れます。
堀を渡るための土橋も残されており、限定された動線によって防御力を高めるという城郭設計の基本が理解できます。
堀切
本丸北側の堀切は、武茂城で最も迫力のある遺構です。尾根を完全に分断する形で掘り込まれた堀切は、深さ約5メートルに達し、両側の切岸は急峻です。
この堀切を見ると、山城における防御の要が尾根の分断にあったことが実感できます。敵が尾根伝いに攻めてきても、この堀切で進軍を阻むことができたのです。
静神社
武茂城の二郭には静神社が鎮座しています。この神社は武茂氏の氏神として崇敬され、城の守護神としての役割も果たしていました。現在の社殿は江戸時代以降のものですが、長い石段を登って参拝する様式は、かつての城への登城路を思わせます。
静神社への石段は155段あり、やや急ですが、女坂と呼ばれる迂回路も整備されており、足腰に自信のない方でも参拝可能です。
乾徳寺:武茂氏の菩提寺
武茂城の南西、徒歩約10分の位置にある乾徳寺は、武茂氏の菩提寺として知られています。境内には武茂氏歴代の墓所があり、武茂氏の歴史を偲ぶことができます。
乾徳寺は曹洞宗の寺院で、武茂氏が滅亡した後も地域の人々によって守られてきました。武茂城を訪れる際には、ぜひ乾徳寺にも足を運び、武茂氏の歴史に思いを馳せることをお勧めします。
アクセスと見学情報
所在地
住所: 栃木県那須郡那珂川町馬頭
指定: 栃木県指定史跡
交通アクセス
車でのアクセス:
- 東北自動車道「矢板IC」から国道293号経由で約40分
- 常磐自動車道「那珂IC」から国道118号経由で約50分
公共交通機関:
- JR宇都宮駅から関東バス「馬頭車庫」行きで約90分、「馬頭役場前」下車、徒歩約10分
- 公共交通機関でのアクセスはやや不便なため、車での訪問を推奨します
駐車場
那珂川町馬頭広重美術館駐車場を無料で利用できます。駐車場から静神社までは徒歩約3分です。駐車場は広く、20台程度駐車可能です。
登城ルート
- 駐車場から静神社の鳥居へ向かいます
- 石段を登ります(155段、約5分)。女坂の迂回路もあります
- 静神社拝殿(二郭)に到着
- 拝殿の脇から登城口があり、そこから本丸へ向かいます(約5分)
- 本丸から北側へ進むと堀切が見られます
全体の所要時間は、ゆっくり見学して約40~60分です。
見学時の注意点
- 山城のため、歩きやすい靴と服装で訪れてください
- 夏季は虫除けスプレーがあると便利です
- 雨天時や雨上がりは足元が滑りやすいので注意が必要です
- 遺構保護のため、土塁や堀に無理に立ち入らないようにしましょう
- トイレは馬頭広重美術館にあります
見学可能時間
城跡自体は常時見学可能ですが、早朝や夜間の訪問は避けることをお勧めします。明るい時間帯(9:00~16:00頃)の見学が安全です。
周辺の観光スポット
那珂川町馬頭広重美術館
駐車場に隣接する美術館で、歌川広重の作品を中心に展示しています。武茂城見学の前後に立ち寄るのに最適です。
乾徳寺
前述の通り、武茂氏の菩提寺です。武茂城から徒歩約10分で、武茂氏の歴史をより深く知ることができます。
那珂川
武茂城の東側を流れる那珂川は、鮎釣りのメッカとして知られています。初夏から秋にかけては、多くの釣り人で賑わいます。
周辺の城郭
烏山城(那須烏山市): 武茂城から車で約30分。那須氏の居城として知られる山城です。
大田原城(大田原市): 武茂城から車で約40分。大田原氏の居城で、現在は龍城公園として整備されています。
武茂城の歴史的意義
武茂城は、下野国北部における中世から戦国時代の歴史を物語る重要な遺跡です。特に以下の点で歴史的価値が高いと評価されています。
宇都宮氏一族の勢力構造
武茂氏は宇都宮氏の分家として、下野国北部の支配において重要な役割を果たしました。武茂城の存在は、宇都宮氏が一族を各地に配置して領国支配を行っていた様子を示す具体例となっています。
一城別郭の城郭構造
東西二つの城を組み合わせた一城別郭という構造は、戦国時代の築城技術の発展を示す貴重な事例です。この構造は、防御力を高めるとともに、複数の部隊を効率的に配置できるという利点がありました。
三河大久保氏との系譜
武茂氏の子孫が三河に移住し、徳川家康に仕えた大久保氏の祖先となったという事実は、地方の中小領主が戦国時代の動乱を経て全国的な武家として発展していく過程を示す興味深い事例です。
良好な遺構保存
土塁、空堀、堀切、曲輪などの遺構が良好に保存されていることは、戦国時代の山城の実態を研究する上で非常に貴重です。開発を免れて現在まで残された武茂城は、栃木県における中世城郭研究の重要な資料となっています。
武茂城を訪れる意義
武茂城は、派手な天守や石垣はありませんが、土と木で築かれた中世の山城の姿を今に伝える貴重な史跡です。静かな山の中で、土塁や堀切を眺めながら、かつてここで生活し、戦った武茂氏の人々に思いを馳せることができます。
宇都宮氏の一族として下野国北部を支配し、やがて三河へ移って徳川家の重臣となった大久保氏の祖先を生んだ武茂氏。その居城である武茂城を訪れることは、地方の名族が時代の波に翻弄されながらも生き抜いた歴史を体感する貴重な機会となるでしょう。
城郭ファンはもちろん、日本史に興味のある方、静かな山歩きを楽しみたい方にとって、武茂城は訪れる価値のある史跡です。那珂川町の豊かな自然の中で、中世の歴史ロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。
