市来鶴丸城(鹿児島県)

市来鶴丸城(鹿児島県)
所在地 〒899-2202 鹿児島県日置市東市来町長里360
公式サイト https://www.city.hioki.kagoshima.jp/bunkazai/kurashi/kosodate-kyoiku/shakaikyoiku/bunkazai/higashiichiki/ichikitsurumarujoato.html

市来鶴丸城(鹿児島県)完全ガイド:歴史・見どころ・アクセス徹底解説

市来鶴丸城は、鹿児島県日置市東市来町に位置する中世から近世にかけて重要な役割を果たした山城です。標高約100メートルの丘陵に築かれたこの城は、薩摩国における島津氏の勢力拡大と、キリスト教伝来の歴史において重要な舞台となりました。本記事では、市来鶴丸城の詳細な歴史、現存する遺構、見どころ、そしてアクセス方法まで、城郭ファン必見の情報を網羅的にお届けします。

市来鶴丸城の基本情報

市来鶴丸城は、地元では単に「鶴丸城」とも呼ばれる山城で、鹿児島県日置市東市来町長里に所在します。現在の鶴丸小学校の裏山に位置し、周囲約3キロメートル、山上の面積は約4,000平方メートルに及ぶ規模を誇ります。

城郭の基本データ

  • 所在地: 鹿児島県日置市東市来町長里
  • 標高: 約100メートル
  • 城郭構造: 山城(本城と5~7の支城で構成)
  • 築城年代: 寛元2年(1244年)と伝わる
  • 築城者: 市来氏
  • 主要城主: 市来氏、島津氏、新納康久ほか
  • 廃城年: 江戸時代末期
  • 遺構: 曲輪、石垣、土塁、堀切
  • 指定文化財: 日置市指定史跡

市来鶴丸城の歴史

市来氏による築城と初期の歴史

市来鶴丸城の歴史は、寛元2年(1244年)に市来院を領有していた市来氏によって築かれたことに始まります。市来氏は市来町から東市来一帯を治める在地領主として勢力を持ち、この地に堅固な山城を構えました。

市来氏は市来郡司大蔵氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代から室町時代にかけてこの地域で独自の勢力を保持していました。城は本城を中心に、5から7つの支城を配置する複合的な防御システムを構築しており、当時としては相当な規模の城郭でした。

南北朝時代の攻防

建武4年・延元2年(1337年)、南北朝の動乱期において、島津貞久は川上頼久に兵を与えて鶴丸城を攻撃させました。この時期、薩摩国内でも南朝方と北朝方の勢力争いが激しく、市来鶴丸城もその戦火に巻き込まれることとなります。

この攻防戦は市来氏の勢力を弱める契機となり、以降、島津氏の影響力が徐々に強まっていくこととなります。

島津氏による支配の確立

室町時代中期、10代当主・島津立久の時代に、市来氏は最終的に島津氏によって攻め滅ぼされます。市来家親の代にこの悲劇が起こり、市来鶴丸城は島津氏の直轄地となりました。寛正年間(1460年~1466年)頃には島津宗家が市来を支配していましたが、その後、出水の島津実久(薩州家)に占領されるという複雑な経緯をたどります。

戦国時代の島津家内紛と鶴丸城

戦国時代に入ると、島津家内部で深刻な内紛が発生します。島津宗家と薩州家の対立において、市来鶴丸城は重要な戦略拠点となりました。薩州家の島津実久が城を占拠していましたが、天文8年(1539年)、島津忠良・貴久父子が平城(伊集院)を落とした勢いで鶴丸城に押し寄せます。

この攻城戦は持久戦となりましたが、最終的に島津忠良・貴久側が勝利し、鶴丸城を奪取します。この勝利により、島津貴久の薩摩統一への道が大きく開かれることとなりました。

城主には伊集院忠朗が任じられ、その後、新納康久が地頭として配置されました。山田有徳なども歴代の地頭として名を連ねています。

フランシスコ・ザビエルの訪問

市来鶴丸城の歴史で特筆すべきは、天文19年(1550年)のフランシスコ・ザビエルの訪問です。日本にキリスト教を伝えた宣教師ザビエルは、薩摩での布教活動の後、平戸に向かう途中で市来鶴丸城に立ち寄りました。

当時の城主・新納康久の治世下で、ザビエルは鶴丸城において布教活動を行いました。この訪問は、日本におけるキリスト教伝来史において重要な出来事であり、市来の地がいかに交通の要衝であったかを物語っています。

後には宣教師アルメイダもこの地を訪れており、市来鶴丸城は一時期、薩摩におけるキリスト教布教の拠点の一つとなっていました。

江戸時代の外城制度と鶴丸城

江戸時代に入ると、市来鶴丸城は薩摩藩の外城(とじょう)制度の一つとして機能しました。外城制度とは、薩摩藩独特の統治システムで、領内各地に地頭を配置し、武士を農村に分散居住させる制度です。

鶴丸城の麓、現在の鶴丸小学校がある場所には平地の館があり、藩政時代には地頭仮屋が置かれました。地頭は軍事・行政の両面でこの地域を統治し、薩摩藩の重要な防衛拠点として機能し続けました。

明治維新まで、市来鶴丸城は薩摩藩の外城の一つとして存続し、廃藩置県後に廃城となりました。

市来鶴丸城の縄張りと構造

本城の構造

市来鶴丸城の本城は、標高約100メートルの丘陵頂部に位置し、山上は階段状の平地(曲輪)で構成されています。総面積は約4,000平方メートルに及び、中世山城としては中規模の城郭です。

主郭を中心に、複数の曲輪が段々状に配置されており、それぞれが堅固な防御機能を持っていました。曲輪間には土塁や堀切が設けられ、敵の侵入を防ぐ工夫が随所に見られます。

支城群の配置

市来鶴丸城の特徴は、本城を中心に5~7つの支城を配置した複合的な城郭システムにあります。これらの支城は本城を取り囲むように配置され、相互に連携して防御を固める構造となっていました。

支城の正確な位置や規模については、現在も研究が続けられていますが、周囲約3キロメートルの範囲に分散配置されていたと考えられています。

石垣と土塁

市来鶴丸城には、中世から近世にかけての石垣が残されています。薩摩の城郭に特徴的な野面積みの石垣が、曲輪の縁部や虎口(出入口)周辺に見られます。

土塁も良好な状態で残されており、特に主郭周辺の土塁は高さ2~3メートルに達する部分もあり、当時の防御力の高さを物語っています。

堀切と竪堀

尾根筋を遮断する堀切が複数箇所に設けられており、敵の侵入経路を限定する工夫が見られます。また、斜面には竪堀も確認でき、横移動を困難にする防御施設として機能していました。

市来鶴丸城の見どころ

主郭(本丸)

城の最高所に位置する主郭は、市来鶴丸城の中心部です。ここからは東シナ海や市来の町並みを一望でき、戦国時代には見張り台としても機能していたと考えられます。

主郭の平坦面は比較的広く、建物があったと推定される礎石の痕跡も確認できます。周囲を巡る土塁は保存状態が良好で、当時の姿を偲ぶことができます。

石垣遺構

城内各所に残る石垣は、市来鶴丸城の見どころの一つです。特に虎口周辺の石垣は、戦国時代から江戸時代初期にかけての積み方の変遷を観察できる貴重な遺構となっています。

薩摩の石垣は、シラス台地特有の地質条件に対応した独特の技法が用いられており、城郭建築史の観点からも興味深い資料です。

曲輪群

階段状に配置された曲輪群は、中世山城の典型的な構造を示しています。各曲輪は明確な切岸(削り落とした崖)で区切られており、防御性の高さを実感できます。

二の曲輪、三の曲輪と下りるにつれて、それぞれの曲輪の役割や規模の違いを観察することができ、城の構造を立体的に理解する上で貴重な学習の場となっています。

堀切

尾根を断ち切る堀切は、市来鶴丸城の防御システムの要です。深さ数メートルに及ぶ堀切は、現在も明瞭に残されており、中世山城の防御技術の高さを示しています。

特に主郭背後の大堀切は、最も重要な防御ラインとして機能していたと考えられ、見応えのある遺構です。

登城道と虎口

現在の登城道は、かつての大手道の一部を利用していると考えられます。途中には虎口の痕跡が残されており、枡形虎口のような複雑な構造も確認できます。

登城道を歩くことで、攻城する側の困難さと、守る側の工夫を体感することができます。

鶴丸小学校と地頭仮屋跡

現在の鶴丸小学校は、市来鶴丸城の平地部分、すなわち平時の居館があった場所に建てられています。江戸時代には、ここに地頭仮屋が置かれ、薩摩藩の外城制度における行政・軍事の中心地として機能していました。

校庭や周辺には、当時の遺構が埋もれている可能性が高く、発掘調査が待たれる場所でもあります。学校の敷地内には、城跡であることを示す説明板も設置されており、地域の歴史教育の場としても活用されています。

春日神社と城の関係

市来鶴丸城の登城口近くには春日神社があります。この神社は、城の鎮守として機能していたと考えられ、城主や武士たちの信仰を集めていました。

春日神社から城への登城道が整備されており、現在の主要なアクセスルートとなっています。神社の境内からは、城の全体像を把握することができ、訪問の際の起点として最適です。

市来鶴丸城へのアクセス

車でのアクセス

鹿児島市内から

  • 国道3号線を北上し、約40分
  • 旧東市来町役場を目印に、県道305号線へ
  • 鶴丸小学校を目指す(駐車場は春日神社付近を利用)

九州自動車道から

  • 伊集院ICから国道3号線経由で約15分

公共交通機関でのアクセス

JR利用

  • JR鹿児島本線「東市来駅」下車、徒歩約15分
  • 駅から鶴丸小学校方面へ、県道305号線沿いを歩く

バス利用

  • 鹿児島交通バス「東市来」バス停下車、徒歩約10分

登城口と所要時間

主な登城口は春日神社からのルートです。登城道は比較的整備されていますが、山城のため、動きやすい服装と靴が推奨されます。

  • 登城時間: 春日神社から主郭まで約20~30分
  • 見学所要時間: 城内を一通り見学するには1~2時間程度
  • 難易度: 中級(一部急な斜面あり)

訪問時の注意点

  • 夏季は草木が茂るため、春・秋・冬の訪問がおすすめ
  • 雨天時は足元が滑りやすいので注意
  • 虫除けスプレーの持参を推奨
  • 飲料水を持参すること
  • 携帯電話の電波状況を事前確認

周辺の見どころ

東市来町の歴史的建造物

市来鶴丸城の周辺には、江戸時代から明治時代にかけての歴史的建造物が点在しています。武家屋敷の痕跡や、古い街道の雰囲気を残す町並みを散策することで、城下町の面影を感じることができます。

美山地区の焼酎蔵

日置市は薩摩焼酎の名産地として知られています。特に美山地区には複数の焼酎蔵があり、見学や試飲が可能な施設もあります。城攻めの後に、薩摩の伝統文化に触れるのも一興です。

吹上浜

市来鶴丸城から車で約15分の距離にある吹上浜は、日本三大砂丘の一つに数えられる美しい海岸です。全長約47キロメートルに及ぶ白砂青松の景観は、訪れる価値があります。

市来鶴丸城の保存と活用

市来鶴丸城跡は、日置市の指定史跡として保護されています。地元の歴史愛好家や城郭研究者による調査・研究が続けられており、新たな発見も期待されています。

近年では、地域の歴史遺産として観光資源化する動きもあり、案内板の整備や登城道の維持管理が行われています。地元の小学校では、郷土史教育の一環として鶴丸城の学習が取り入れられており、次世代への歴史継承も進められています。

市来鶴丸城と鹿児島城(鶴丸城)の違い

「鶴丸城」という名称は、鹿児島市にある鹿児島城の別名としても使われるため、混同されることがあります。ここで両者の違いを明確にしておきましょう。

市来鶴丸城(日置市)

  • 中世山城、寛元2年(1244年)築城
  • 市来氏、後に島津氏の支配
  • 標高約100メートルの山城
  • 戦国時代の攻防の舞台

鹿児島城(鹿児島市)

  • 近世平山城、慶長6年(1601年)頃築城
  • 島津家久が築城、島津氏の居城
  • 城山を背後にした平山城
  • 江戸時代を通じて薩摩藩の政治中心地

両城とも「鶴丸城」と呼ばれますが、所在地、時代、規模、役割が大きく異なります。市来鶴丸城は戦国時代の山城、鹿児島城は江戸時代の居城という違いを理解しておくことが重要です。

市来鶴丸城の魅力と訪問の意義

市来鶴丸城は、薩摩における中世から近世への移行期を象徴する城郭です。市来氏の築城から島津氏の統一戦争、フランシスコ・ザビエルの訪問、そして江戸時代の外城制度まで、多層的な歴史を持つこの城は、鹿児島県の歴史を理解する上で欠かせない史跡です。

現地を訪れることで、文献だけでは分からない地形の妙や、石垣・土塁などの遺構から当時の技術を体感することができます。また、主郭からの眺望は、なぜこの地に城が築かれたのか、その戦略的重要性を実感させてくれます。

城郭ファンはもちろん、戦国時代の薩摩の歴史に興味がある方、キリスト教伝来史に関心がある方にとって、市来鶴丸城は必見の史跡と言えるでしょう。

まとめ:市来鶴丸城を訪ねて

市来鶴丸城は、鹿児島県日置市に残る貴重な中世山城です。市来氏による築城から始まり、島津氏の薩摩統一における重要な舞台となり、フランシスコ・ザビエルが訪れた歴史的な場所でもあります。

現在も良好に残る曲輪、石垣、土塁、堀切などの遺構は、戦国時代の城郭建築技術を今に伝えています。鶴丸小学校の裏山という身近な場所にありながら、訪れる人は少なく、静かに歴史を感じることができる穴場的な史跡です。

JR東市来駅から徒歩圏内というアクセスの良さも魅力の一つです。鹿児島観光の際には、ぜひ市来鶴丸城を訪れて、薩摩の歴史と文化に触れてみてください。春日神社から登城道を登り、主郭に立って周囲を見渡すとき、戦国時代の武士たちの息吹を感じることができるはずです。

地図

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