宇都宮城(栃木県)

宇都宮城(栃木県)
所在地 〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1−3520外
公式サイト http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/citypromotion/kanko/meisho/jyiousi/index.html

宇都宮城(栃木県)完全ガイド:関東七名城の歴史と復元された見どころを徹底解説

宇都宮城の概要

宇都宮城(うつのみやじょう)は、栃木県宇都宮市本丸町に位置する日本の城跡です。関東七名城の一つに数えられ、別名「亀ヶ岡城(かめがおかじょう)」とも呼ばれています。田川を望む段丘の上に築かれた平城で、江戸時代には宇都宮藩の藩庁として機能し、徳川将軍が日光東照宮へ参拝する際の重要な宿泊施設としても利用されました。

現在の宇都宮城は、戊辰戦争で焼失した後、平成に入ってから本丸の一部が復元され、宇都宮市の歴史的シンボルとして市民に親しまれています。復元された清明台櫓と富士見櫓は、往時の姿を偲ばせる貴重な建造物となっています。

宇都宮城の歴史・沿革

古代・中世:宇都宮氏の居城として

宇都宮城の起源は平安時代にまで遡ります。築城時期については諸説ありますが、11世紀頃に下野国一宮である宇都宮明神(現在の二荒山神社)の社家として下向した藤原宗円を祖とする宇都宮氏が、この地に居館を構えたことが始まりとされています。

宇都宮氏は代々この城を拠点として下野国における勢力を拡大し、鎌倉時代から室町時代にかけて関東の有力武将として活躍しました。城は徐々に拡張され、堀や土塁による防御施設が整備されていきました。

豊臣秀吉による宇都宮氏の改易

宇都宮氏による統治は500年近く続きましたが、1597年(慶長2年)、22代当主・宇都宮国綱の代に転機が訪れます。豊臣秀吉の命により宇都宮氏は改易され、長く続いた宇都宮氏の支配は終わりを告げました。改易の理由については、秀吉の朝鮮出兵における軍役不履行説など諸説ありますが、詳細は明らかになっていません。

江戸時代:将軍の宿泊施設として

江戸時代に入ると、宇都宮城は徳川将軍にとって特別な意味を持つ城となりました。徳川家康が日光東照宮に祀られて以降、歴代将軍が日光社参(日光東照宮への参拝)を行う際、宇都宮城は必ず宿泊する場所として位置づけられました。

このため、本丸には将軍専用の「御成御殿(おなりごてん)」が建てられ、城内は将軍を迎えるための豪華な設備が整えられました。将軍の宿泊施設としての役割は、宇都宮城の重要性を高め、城の維持管理にも大きな影響を与えました。

江戸時代を通じて、宇都宮城には様々な大名が城主として配置されました。蒲生氏、奥平氏、本多氏、戸田氏など、徳川家の譜代大名が中心でしたが、一時期は外様大名も配置されるなど、城主の変遷は複雑です。

戊辰戦争と城の焼失

1868年(明治元年)、宇都宮城は戊辰戦争の舞台となり、その歴史に大きな転換点を迎えます。同年4月、旧幕府軍と新政府軍の間で「宇都宮城の戦い」が勃発しました。

旧幕府軍の大鳥圭介率いる部隊が宇都宮城を一時占拠しましたが、新政府軍の反撃により激しい市街戦が展開されました。この戦闘により、城内の建物はほぼすべて焼失し、城下町も大きな被害を受けました。戊辰戦争後、宇都宮城は廃城となり、遺構の多くは失われることになりました。

明治以降:城跡の変遷

明治時代以降、宇都宮城跡は様々な用途に利用されました。本丸跡地には学校が建設され、二の丸や三の丸の跡地は市街地として開発が進みました。堀は埋め立てられ、土塁の多くも削平されるなど、城の面影は次第に失われていきました。

昭和時代には宇都宮市の都市化がさらに進み、城跡周辺も近代的な街並みへと変貌しました。しかし、一部の土塁や堀の痕跡は残され、地域の歴史的遺産として保存の機運が高まっていきました。

復元プロジェクトと現在の姿

平成の復元事業

1990年代後半から、宇都宮市は宇都宮城の復元プロジェクトに着手しました。これは、市の歴史的アイデンティティを取り戻し、観光資源としても活用する目的で始められた大規模な事業です。

復元にあたっては、江戸時代の絵図や古文書、発掘調査の成果などをもとに、できる限り史実に忠実な再現が目指されました。2007年(平成19年)には本丸の一部が「宇都宮城址公園」として整備され、清明台櫓と富士見櫓が復元されました。

復元された清明台櫓

清明台櫓(せいめいだいやぐら)は、本丸の南西角に位置していた櫓で、城内でも重要な防御拠点の一つでした。復元された清明台櫓は3層構造で、内部は展示施設として公開されています。

櫓内では宇都宮城の歴史に関する資料や模型、発掘調査で出土した遺物などが展示されており、城の歴史を学ぶことができます。最上階からは宇都宮市街を一望でき、往時の城主や将軍たちが眺めた景色を想像することができます。

復元された富士見櫓

富士見櫓(ふじみやぐら)は、その名の通り天気の良い日には富士山が見えたとされる櫓です。本丸の東側に位置し、清明台櫓とともに本丸の重要な防御施設でした。

復元された富士見櫓も内部が公開されており、宇都宮城や宇都宮の歴史に関する展示が行われています。櫓と櫓の間には土塀も復元され、江戸時代の本丸の雰囲気を感じることができます。

土塁と堀の復元

櫓の復元とともに、本丸を囲む土塁も一部が復元されました。土塁は城の基本的な防御施設であり、宇都宮城は特に土塁による防御を重視した城として知られていました。

復元された土塁は高さ約7メートルに達し、その規模の大きさから宇都宮城が堅固な城であったことを実感できます。また、堀の一部も復元され、往時の城の姿を偲ぶことができるようになっています。

歴代城主と宇都宮藩

宇都宮氏時代(平安時代~安土桃山時代)

宇都宮城の歴代城主は、平安時代の築城から数えて47人に及びます。そのうち22代までは宇都宮氏が代々城主を務めました。

宇都宮氏の初代は藤原宗円とされ、以降、朝綱、業綱、泰綱など、代々「綱」の字を通字として用いました。鎌倉時代には御家人として幕府に仕えながら下野国の有力武将として勢力を維持し、室町時代には関東管領上杉氏や古河公方との関係の中で存在感を示しました。

最後の宇都宮氏当主となった22代・宇都宮国綱は、豊臣秀吉による改易により宇都宮を去ることになりました。

江戸時代の城主たち

江戸時代の宇都宮城には、以下のような大名が城主として配置されました。

蒲生秀行・忠郷(1601年~1627年):会津から移封された蒲生氏が入城。秀行は豊臣秀吉の重臣・蒲生氏郷の子で、18万石の大名でした。

奥平忠昌(1627年~1633年):徳川家康の娘婿である奥平信昌の子。10万石で入封しました。

本多正純(1619年~1622年):一時期城主を務めましたが、宇都宮釣天井事件の嫌疑により改易されました。この事件は、本多正純が徳川秀忠を暗殺しようとしたとされるもので、真偽は定かではありませんが、正純失脚の原因となりました。

戸田氏(1681年~1868年):江戸時代後期は戸田氏が長く城主を務めました。戸田忠真から始まり、幕末の戊辰戦争まで宇都宮藩を統治しました。

宇都宮藩の石高は時期により変動しましたが、概ね7万石から15万石程度で推移しました。将軍の日光社参における宿泊地という重要な役割から、城主には信頼できる譜代大名が配置されることが多かったのが特徴です。

宇都宮城の構造と特徴

平城としての特徴

宇都宮城は平城でありながら、田川沿いの河岸段丘上に築かれたため、わずかながら高低差を利用した防御が可能でした。天守は築かれませんでしたが、複数の櫓と土塁、堀による重層的な防御システムが構築されていました。

城の縄張りは本丸を中心に、二の丸、三の丸が配置される輪郭式の構造でした。本丸の周囲には高さ7メートルにも達する土塁が巡らされ、その外側には幅の広い堀が掘られていました。

土塁を中心とした防御

宇都宮城の最大の特徴は、石垣ではなく土塁を主体とした防御構造です。関東地方の城は石垣を用いない土の城が多く、宇都宮城もその典型例でした。

土塁は版築工法により固く突き固められ、表面には芝が植えられていました。高さのある土塁は攻城軍にとって大きな障害となり、また大砲の砲撃にも石垣より強いという利点がありました。

御成御殿の存在

本丸には将軍専用の御成御殿が建てられていました。これは日光社参の際に将軍が宿泊するための施設で、豪華な書院造りの建物でした。

御成御殿には上段の間、中段の間、下段の間などが設けられ、将軍の接待にふさわしい格式を備えていました。また、御殿の周囲には庭園も造営され、将軍の滞在を快適にする配慮がなされていました。

現存する遺構と史跡

土塁の残存部分

戊辰戦争での焼失と明治以降の開発により、宇都宮城の遺構の多くは失われましたが、一部の土塁は現在も残されています。

本丸跡の周辺では、復元された部分以外にも、わずかながら往時の土塁が現存しており、その高さと規模から城の堅固さを実感することができます。また、発掘調査により、地下には堀の跡や建物の礎石なども確認されています。

移築された建造物

宇都宮城の建物の一部は、廃城後に市内の寺社などに移築されて現存しています。門や塀の一部が移築先で保存されており、宇都宮城の建築様式を知る貴重な資料となっています。

二荒山神社との関係

宇都宮城の歴史を語る上で欠かせないのが、二荒山神社との関係です。宇都宮氏はもともと二荒山神社の社家として下向した一族であり、城と神社は密接な関係にありました。

二荒山神社は現在も宇都宮市の中心部に鎮座し、初詣などで多くの参拝者を集めています。神社の境内には宇都宮氏ゆかりの史跡も残されており、城跡とあわせて訪れることで、宇都宮の歴史をより深く理解することができます。

宇都宮城址公園の見どころ

公園としての整備

現在の宇都宮城址公園は、市民の憩いの場として整備されています。復元された櫓や土塁だけでなく、広場や休憩施設も設けられ、歴史を学びながらゆっくりと過ごせる空間となっています。

公園内には案内板や説明パネルが設置されており、城の歴史や構造について詳しく知ることができます。また、ボランティアガイドによる案内も行われており、より深く宇都宮城について学ぶことが可能です。

イベントと活用

宇都宮城址公園では、年間を通じて様々なイベントが開催されています。桜の季節には花見客で賑わい、秋には紅葉を楽しむことができます。また、歴史イベントや甲冑体験なども定期的に開催され、子どもから大人まで楽しめる施設となっています。

アクセスと周辺施設

宇都宮城址公園へのアクセスは、JR宇都宮駅から徒歩約20分、またはバスで約10分です。駐車場も完備されているため、車でのアクセスも便利です。

周辺には宇都宮市役所や栃木県庁などの官公庁施設があり、宇都宮の行政の中心地となっています。また、徒歩圏内には二荒山神社や宇都宮の繁華街もあり、城址公園を起点に宇都宮観光を楽しむことができます。

関東七名城としての位置づけ

宇都宮城は関東七名城の一つに数えられています。関東七名城とは、関東地方の代表的な名城を選んだもので、宇都宮城の他には、川越城(埼玉県)、前橋城(群馬県)、金山城(群馬県)、唐沢山城(栃木県)、忍城(埼玉県)、太田城(茨城県)などが挙げられます(選定には諸説あります)。

これらの城の中でも、宇都宮城は江戸時代を通じて将軍の宿泊施設として機能した点で特別な位置を占めています。また、平城でありながら大規模な土塁による防御を備えていた点も、関東の城郭史において重要な意義を持っています。

宇都宮城と地域文化

宇都宮の歴史における役割

宇都宮城は単なる軍事施設ではなく、宇都宮の政治・経済・文化の中心として機能してきました。城下町として発展した宇都宮は、日光街道の宿場町としても栄え、江戸と日光を結ぶ交通の要衝でした。

城主や藩士たちは地域の文化振興にも貢献し、茶道、華道、武道などの文化が城下町に根付きました。また、商工業の発展も城の存在と密接に関係しており、宇都宮の都市としての基盤は城を中心に形成されたといえます。

現代における宇都宮城

現代の宇都宮市において、宇都宮城は市の歴史的アイデンティティの象徴として重要な役割を果たしています。復元された城址公園は、市民が歴史を身近に感じられる場所として親しまれており、教育の場としても活用されています。

小中学校の郷土学習では宇都宮城の歴史が取り上げられ、子どもたちが地域の歴史を学ぶ機会となっています。また、観光資源としても注目されており、宇都宮を訪れる観光客の多くが城址公園を訪問しています。

今後の整備計画

宇都宮市は、宇都宮城址公園のさらなる整備を計画しています。現在復元されているのは本丸の一部のみですが、将来的には他の櫓や門の復元、堀の拡張なども検討されています。

また、周辺地域との連携も重視されており、二荒山神社や旧城下町エリアを含めた歴史ゾーンとしての整備も進められています。これにより、宇都宮城を中心とした歴史観光の充実が期待されています。

デジタル技術を活用した取り組みも始まっており、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)を使って往時の城の姿を体験できるシステムの導入も検討されています。

まとめ

宇都宮城は、平安時代から続く長い歴史を持ち、関東七名城の一つとして重要な位置を占める城です。宇都宮氏による500年近い統治、江戸時代における将軍の宿泊施設としての役割、戊辰戦争での焼失、そして平成における復元と、その歴史は栃木県、ひいては日本の歴史そのものを反映しています。

現在、宇都宮城址公園として整備された城跡は、復元された清明台櫓と富士見櫓、土塁や堀などにより、往時の姿を偲ぶことができます。宇都宮市の中心部という立地の良さも魅力で、宇都宮を訪れた際にはぜひ立ち寄りたいスポットです。

天守こそありませんでしたが、土塁を中心とした堅固な防御施設と、将軍を迎えるための豪華な御成御殿を備えた宇都宮城は、関東の城郭史において独自の価値を持っています。その歴史と文化を学ぶことは、日本の城郭文化、そして地域の歴史を理解する上で貴重な機会となるでしょう。

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