富長城(鳥取県東伯郡)

富長城(鳥取県東伯郡)
所在地 〒689-3221 鳥取県西伯郡大山町富長

富長城(鳥取県東伯郡)完全ガイド|伯耆国の戦国山城の歴史と見どころ

富長城とは|鳥取県東伯郡大山町に残る伯耆国の戦国山城

富長城(とみながじょう)は、鳥取県西伯郡大山町富長に位置する戦国時代の山城跡です。現在の富長神社周辺に築かれたこの城は、伯耆国(ほうきのくに)における重要な軍事拠点として機能していました。

平城として分類される富長城は、標高約26メートルの低地に築かれ、比高差約20メートルという比較的平坦な地形を利用した城郭です。戦国時代の伯耆国では、因幡国との境界地帯や交通の要衝に多くの城が築かれましたが、富長城もその一つとして地域支配の中核を担いました。

現在は町史跡として指定されており、土塁、郭、堀などの遺構が良好な状態で残されています。鳥取県内には鳥取城や米子城といった著名な城跡が存在しますが、富長城のような地方豪族の居城跡は、戦国時代の地域社会を理解する上で極めて貴重な史跡といえます。

富長城の歴史|荒松氏と福頼氏の居城として

築城の背景と戦国時代の伯耆国

富長城が築かれた時期については明確な記録が残されていませんが、戦国時代中期から後期にかけて、この地域を支配した地方豪族によって築城されたと考えられています。伯耆国は山陰地方の要衝として、古くから軍事的に重要な地域でした。

戦国時代の伯耆国は、尼子氏、毛利氏、織田氏といった大勢力の影響下にあり、地域の小豪族たちはこれらの勢力との関係を保ちながら、自らの領地を守る必要がありました。富長城もこうした時代背景の中で、地域防衛の拠点として機能していたのです。

荒松氏と福頼氏の支配

富長城の城主として記録されているのが、荒松氏(あらまつし)と福頼氏(ふくよりし)です。これらの一族は伯耆国における地方豪族として、この地域を治めていました。

荒松氏は伯耆国内で一定の勢力を持つ国人領主であり、富長を中心とした地域の支配を確立していました。その後、福頼氏が城主となり、戦国時代末期まで富長城を拠点としていたと考えられています。

福頼氏は、戦国時代の混乱期において、時には尼子氏に、時には毛利氏に従属しながら、領地の保全を図りました。こうした地方豪族の動向は、大勢力の狭間で生き残りを図った戦国時代の地域社会の実態を物語っています。

天正年間以降の変遷

天正年間(1573-1593年)に入ると、織田信長の勢力が山陰地方にも及び始めます。特に天正8年(1580年)の羽柴秀吉による鳥取城攻め、いわゆる「鳥取の飢え殺し」は、伯耆国・因幡国全体に大きな影響を与えました。

この時期、富長城がどのような役割を果たしたかについては明確な記録がありませんが、伯耆国内の多くの小規模城郭と同様に、戦国時代の終焉とともにその軍事的機能を失っていったと考えられます。

江戸時代に入ると、元和の一国一城令により多くの城が廃城となりました。富長城もこの時期に廃城となり、以後は富長神社の境内地として現在に至っています。

富長城の縄張りと構造|平城としての特徴

城郭の基本構造

富長城は平城として分類されますが、完全な平地ではなく、わずかな高低差を利用して築かれた平山城的な要素も持っています。標高26メートル、比高差20メートルという立地は、防御性と居住性のバランスを考慮したものといえます。

城の中心となる主郭を中心に、複数の郭(くるわ)が配置されていました。各郭は土塁で囲まれ、堀によって区画されるという、戦国時代の典型的な縄張りを持っています。

土塁の構造と特徴

富長城の最大の特徴は、良好に残存する土塁です。土塁は城郭の防御施設として、敵の侵入を防ぐとともに、郭内部を外部から遮蔽する役割を果たしていました。

現存する土塁は高さ約2~3メートル、基底部の幅は約5~7メートル程度で、戦国時代の地方城郭としては標準的な規模です。土塁の上部はやや平坦になっており、柵や塀が設けられていた可能性があります。

土塁の構築方法は、地山を削り出した土と、周辺から運び込んだ土を交互に積み上げる「版築」の技法が用いられていたと考えられます。この工法により、土塁の強度と耐久性が高められていました。

堀と虎口の配置

富長城には、郭を区画する堀が複数確認されています。主に空堀として構築されたこれらの堀は、幅約3~5メートル、深さ約2~3メートル程度で、敵の侵入を物理的に阻む役割を果たしていました。

特に注目されるのは横堀の存在です。横堀は城の側面を防御するために設けられた堀で、敵が城の周囲を迂回することを困難にする効果がありました。富長城の横堀は、地形を巧みに利用して配置されており、築城者の高い技術力を示しています。

虎口(こぐち)は城郭への出入り口であり、最も防御を固める必要がある場所です。富長城では、虎口を土塁で挟み込む「土塁虎口」の形式が採用されていたと考えられます。これにより、侵入しようとする敵を側面から攻撃することが可能でした。

曲輪(郭)の配置と機能

富長城には複数の曲輪が確認されており、それぞれが異なる機能を持っていたと推測されます。主郭は城主の居館や指揮所が置かれた中心的な空間で、最も高い防御性を持っていました。

主郭の周囲には二の郭、三の郭といった副次的な曲輪が配置され、家臣の屋敷や兵士の詰所、武器庫などが置かれていたと考えられます。各曲輪は土塁と堀によって区画され、独立した防御単位として機能していました。

曲輪の規模は、主郭で約50メートル四方程度と推定されます。戦国時代の地方豪族の居城としては標準的な規模であり、数十人から百人程度の兵力を収容できる規模だったと考えられます。

富長城の遺構|現在見ることができる戦国時代の痕跡

土塁の現状

現在の富長城跡では、土塁が最も良好に残存している遺構です。富長神社の境内地となっている部分では、高さ2メートル前後の土塁が明瞭に確認でき、戦国時代の城郭の面影を今に伝えています。

土塁の表面は長年の風雨により浸食を受けていますが、基本的な形状は良く保たれています。土塁上を歩くことで、当時の城郭の規模感や構造を体感することができます。

特に注目すべきは、土塁の屈曲部分です。直線的ではなく、適度に折れ曲がった土塁の配置は、死角を減らし、側面攻撃を可能にするという戦国時代の築城技術を示しています。

堀跡の確認

堀跡は土塁ほど明瞭ではありませんが、地形の観察により、かつて堀が存在した場所を特定することができます。特に郭と郭の境界部分では、わずかな窪地として堀の痕跡が残されています。

空堀として構築されていた堀は、長年の土砂の堆積により埋まってしまった部分も多いですが、断面観察により、かつての深さや幅を推定することが可能です。

横堀の痕跡は、城の東側と西側に比較的明瞭に残されており、城郭全体の防御ラインを理解する上で重要な手がかりとなっています。

郭の地形

主郭とされる平坦地は、現在富長神社の社殿が建っている場所と重なります。この平坦地は明らかに人工的に造成されたもので、周囲より一段高くなっています。

二の郭、三の郭にあたる部分も、わずかな段差として地形に残されており、往時の城郭構造を想像することができます。これらの郭は、現在は畑地や宅地となっている部分もありますが、微地形の観察により、その範囲を推定することが可能です。

虎口の痕跡

虎口の正確な位置については、発掘調査が行われていないため断定できませんが、地形の観察から推定される場所がいくつかあります。特に主郭への進入路と考えられる部分では、土塁の切れ目が確認でき、ここが虎口であった可能性が高いと考えられます。

富長神社と富長城の関係|城跡に建つ神社

富長神社の由緒

富長城跡の中心部には、現在富長神社が鎮座しています。富長神社は地域の氏神として古くから信仰を集めてきた神社で、城跡の保存にも重要な役割を果たしています。

神社の創建年代については明確ではありませんが、富長城が廃城となった後、城跡を神域として保護するために神社が建立された可能性があります。このように城跡に神社が建てられることは、日本各地でよく見られる現象で、結果的に城跡の保存に貢献しています。

境内に残る城郭遺構

富長神社の境内には、城郭遺構が良好に残されています。社殿の周囲を取り囲む土塁は、かつての城郭の土塁をそのまま利用したものと考えられます。

参道の配置も、かつての城への進入路を踏襲している可能性があり、神社参拝と城跡探訪を同時に楽しむことができます。

境内の地形をよく観察すると、平坦な主郭部分と、その周囲を囲む土塁、さらに外側の一段低い郭といった、城郭の基本構造を読み取ることができます。

富長城へのアクセスと見学情報

所在地と交通アクセス

所在地:
鳥取県西伯郡大山町富長(富長神社)

車でのアクセス:

  • 米子自動車道「溝口IC」から約15分
  • 国道9号線から県道を経由してアクセス可能
  • 富長神社周辺に駐車スペースあり(数台程度)

公共交通機関でのアクセス:

  • JR山陰本線「名和駅」からタクシーで約10分
  • 路線バスの便は少ないため、車でのアクセスが推奨されます

見学時の注意点

富長城跡は富長神社の境内地となっているため、見学の際は神社参拝のマナーを守ることが重要です。以下の点に注意してください:

  1. 神社への敬意: 境内地であることを忘れず、参拝者の妨げにならないよう配慮する
  2. 遺構の保護: 土塁や堀跡を損傷しないよう、慎重に行動する
  3. 私有地への配慮: 神社境内以外の部分は私有地である可能性があるため、無断で立ち入らない
  4. 安全確保: 土塁の上など、足場が不安定な場所では十分注意する
  5. ゴミの持ち帰り: 史跡の美観を保つため、ゴミは必ず持ち帰る

見学所要時間

富長城跡の見学には、30分から1時間程度を見込んでおくとよいでしょう。主要な遺構を一通り観察し、写真撮影を行う場合は、1時間程度が適当です。

詳細に遺構を観察したい場合や、周辺の地形も含めて調査したい場合は、2時間程度の時間を確保することをお勧めします。

見学に適した時期と服装

見学に適した時期:

  • 春(4月~5月)と秋(10月~11月)が最も快適
  • 夏季は草木が茂り、遺構が見づらくなる可能性がある
  • 冬季は積雪により見学が困難になることがある

推奨される服装:

  • 歩きやすい靴(スニーカーやトレッキングシューズ)
  • 長袖・長ズボン(草木や虫から身を守るため)
  • 帽子(日差し対策)
  • 雨具(天候の変化に備えて)

富長城周辺の城跡|伯耆国の城郭ネットワーク

久古の御牧城

富長城の近隣には、久古の御牧城(くこのみまきじょう)があります。鳥取県西伯郡伯耆町久古に位置するこの城は、標高125メートル、比高差20メートルの丘城で、土塁と郭の遺構が残されています。

久古の御牧城は、富長城と同じく伯耆国における地方豪族の居城であり、両城は地域の防衛ネットワークの一部を構成していたと考えられます。

伯耆国の主要城郭

伯耆国には、富長城以外にも多くの城跡が存在します:

  • 米子城: 伯耆国の中心的な城郭で、江戸時代には米子藩の居城
  • 羽衣石城: 戦国時代の山城で、南条氏の居城として知られる
  • 尾高城: 戦国時代の重要拠点の一つ

これらの城郭を巡ることで、伯耆国における戦国時代から江戸時代にかけての城郭発展の歴史を理解することができます。

鳥取県の城郭文化|因幡・伯耆の名城群

鳥取城と因幡国の城郭

鳥取県東部の因幡国には、県を代表する名城・鳥取城があります。久松山(標高263メートル)に築かれた鳥取城は、戦国時代の山城を起源とし、「日本にかくれなき名山」と評された堅固な城でした。

天正8年(1580年)、羽柴秀吉による「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる兵糧攻めの舞台となったことで歴史的に著名です。織田信長も「堅固な名城」と讃えた鳥取城は、山頂の山城部分と山麓の居館部分からなる複合城郭で、石垣や天守台などの遺構が良好に残されています。

江戸時代には鳥取藩三十二万石の居城となり、国内12番目の石高を誇る大藩の中心として栄えました。現在は国史跡「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」として指定され、日本100名城にも選定されています。

伯耆国の城郭の特徴

伯耆国の城郭は、因幡国の城郭と比較すると、以下のような特徴があります:

  1. 地方豪族の居城が多い: 富長城のように、地域を支配した中小規模の豪族による城が多数存在
  2. 山城と平城の混在: 地形に応じて、山城、丘城、平城など多様な形態の城が築かれた
  3. 土造りの城郭: 石垣を用いた城は少なく、土塁と堀を主体とした構造が一般的
  4. 防御性重視: 戦国時代の混乱期に築かれた城が多く、防御性を重視した縄張りが特徴

城郭から見る戦国時代の山陰地方

鳥取県の城郭群は、戦国時代の山陰地方の複雑な政治状況を反映しています。尼子氏、毛利氏、織田氏という大勢力の狭間で、地方豪族たちは生き残りをかけて城を築き、時には同盟し、時には対立しました。

富長城のような地方豪族の居城は、こうした時代の「草の根レベル」での戦国史を物語る貴重な史跡といえます。大規模な石垣や天守を持つ名城とは異なる魅力が、これらの城跡にはあります。

富長城の保存と今後の課題

町史跡としての指定

富長城は大山町の町史跡として指定されており、地域の重要な文化財として認識されています。この指定により、遺構の保護と適切な管理が行われています。

町史跡指定は、国指定や県指定の史跡と比較すると知名度は低いものの、地域の歴史を理解する上で重要な史跡を保護する制度です。富長城の場合、地域住民による保存活動も行われており、草刈りや清掃などの維持管理に貢献しています。

遺構保存の現状と課題

富長城の遺構は比較的良好に保存されていますが、以下のような課題も存在します:

  1. 自然侵食: 土塁や堀跡は自然の風雨により徐々に侵食されている
  2. 植生の管理: 草木の繁茂により遺構が見えにくくなる時期がある
  3. 周辺開発: 宅地化や農地整備により、城跡の一部が改変される可能性
  4. 認知度の向上: 地域住民や城郭ファン以外への認知度が低い

今後の活用と整備

富長城のような地方城郭の活用には、以下のような可能性があります:

教育活用:
地域の学校教育において、郷土史学習の教材として活用することで、子どもたちが地域の歴史に関心を持つきっかけとなります。

観光資源化:
鳥取城や米子城といった主要城郭と組み合わせた「城郭巡りルート」を設定することで、歴史愛好家の訪問を促進できます。

学術調査:
詳細な測量調査や部分的な発掘調査により、城郭の構造や歴史をより明確にすることができます。

案内板の整備:
現地に詳細な解説板を設置することで、訪問者の理解を深めることができます。

富長城を訪れる城郭ファンへのアドバイス

城跡探訪の楽しみ方

富長城のような地方城郭を訪れる際は、以下のポイントを意識すると、より深く楽しむことができます:

事前学習:
訪問前に戦国時代の伯耆国の歴史や、荒松氏・福頼氏について調べておくと、現地での理解が深まります。

地形観察:
城跡では、土塁や堀だけでなく、全体の地形を観察することが重要です。どのように地形を利用して防御性を高めていたかを考えながら歩くと、築城者の意図が見えてきます。

写真撮影:
遺構の写真を撮影する際は、スケール感がわかるよう人や物を入れて撮影すると、後で見返したときに理解しやすくなります。

記録を残す:
訪問日時、天候、観察した遺構などを記録しておくと、他の城跡と比較する際に役立ちます。

周辺の見どころ

富長城を訪れた際は、周辺の観光スポットも合わせて巡ることをお勧めします:

大山:
中国地方最高峰の大山(標高1,729メートル)は、富長城から車で約30分の距離にあります。登山やハイキングを楽しむことができます。

大山寺:
奈良時代創建の古刹で、大山信仰の中心地として栄えました。歴史的建造物や仏像を見学できます。

名和神社:
南北朝時代の武将・名和長年を祀る神社で、歴史ファンにとって興味深いスポットです。

海岸エリア:
日本海に面した海岸線では、新鮮な海産物を味わうことができます。

城郭巡りのモデルコース

1日コース:
午前:富長城見学(1時間) → 久古の御牧城見学(1時間)
昼食:地元の食堂で郷土料理
午後:大山寺参拝 → 大山周辺散策

2日コース:
1日目:伯耆国の城郭巡り(富長城、久古の御牧城、羽衣石城など)
2日目:因幡国の城郭巡り(鳥取城、若桜鬼ヶ城など)

まとめ|富長城が語る戦国時代の伯耆国

富長城は、鳥取県西伯郡大山町富長に残る戦国時代の貴重な城郭遺跡です。荒松氏、福頼氏という地方豪族の居城として機能したこの城は、土塁、郭、堀、虎口、横堀といった遺構を良好に残しており、戦国時代の地方城郭の実態を今に伝えています。

標高26メートル、比高差20メートルという立地は、防御性と居住性のバランスを考慮したものであり、平城としての特徴を持ちながらも、地形を巧みに利用した縄張りが施されています。現在は富長神社の境内地となっており、神社参拝と城跡探訪を同時に楽しむことができます。

鳥取城のような著名な名城と比較すると規模は小さいものの、富長城のような地方城郭こそが、戦国時代の地域社会の実態を物語る重要な史跡です。大勢力の狭間で生き抜いた地方豪族の姿を、土塁や堀の遺構から感じ取ることができます。

町史跡として保護されている富長城は、今後も地域の貴重な文化財として保存・活用されていくことが期待されます。城郭ファンや歴史愛好家の皆さんには、ぜひ一度足を運んでいただき、戦国時代の伯耆国に思いを馳せていただきたいと思います。

伯耆国の山々に囲まれた静かな環境の中で、富長城の土塁に立ち、かつてこの地を治めた武将たちの息吹を感じてみてください。それは、歴史の教科書には載らない、しかし確かに存在した戦国時代の物語との出会いとなるはずです。

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