羽床城(香川県綾歌郡綾川町)

羽床城(香川県綾歌郡綾川町)
所在地 〒761-2308 香川県綾歌郡綾川町羽床下480−1
公式サイト https://www.hb.pei.jp/shiro/sanuki/hayuka-jyo/

羽床城(香川県綾歌郡綾川町)の歴史と遺構|讃岐藤家の嫡流・羽床氏の居城を徹底解説

香川県綾歌郡綾川町羽床下に位置する羽床城(はゆかじょう)は、讃岐国における有力武士団・羽床氏が代々居城とした平山城です。讃岐藤家の嫡流として栄えた羽床氏の本拠地として、中世讃岐の歴史において重要な役割を果たしました。本記事では、羽床城の歴史的背景から現存する遺構、アクセス情報まで、詳細に解説します。

羽床城の基本情報

羽床城は標高82メートル、比高21メートルの丘陵上に築かれた平山城です。現在の香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下に所在し、讃岐平野を見渡す戦略的要地に位置しています。

城郭データ

  • 所在地: 香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下
  • 築城主: 羽床資高(はゆかすけたか)
  • 築城年: 治承年間(1177年~1181年)
  • 城郭構造: 平山城
  • 標高: 82メートル
  • 比高: 21メートル
  • 主な城主: 羽床氏代々
  • 廃城年: 天正14年(1586年)
  • 現存遺構: 曲輪、土塁、堀切、井戸

羽床氏の起源と讃岐藤家

羽床氏は讃岐藤家の嫡流として、讃岐国における藤原氏系武士団の中核を担った一族です。その起源は平安時代末期にまで遡ります。

藤原家成と讃岐藤家の成立

羽床氏の祖は、中御門中納言藤原家成(ふじわらのいえなり)です。藤原家成は平安時代後期の公卿で、その子孫が讃岐国に下向し、在庁官人として土着しました。讃岐藤家の祖とされる綾大夫章隆(あやのたいふあきたか)は、家成の子とも孫ともいわれ、讃岐国綾郡を本拠としました。

羽床氏の成立

章隆の子である資高(すけたか)が羽床荘の荘官に任じられ、地名を取って「羽床」姓を名乗ったことが羽床氏の始まりです。資高は治承年間(1177年~1181年)に羽床城を築城し、一族の本拠としました。その子・重高(しげたか)の代には城郭が整備され、羽床氏は讃岐藤家六十三家の惣領として、讃岐国における藤原氏系武士団の筆頭的地位を確立しました。

羽床城の歴史

承久の乱と羽床氏の没落

羽床氏の歴史において最大の転機となったのが、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱です。後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために挙兵したこの戦いにおいて、羽床氏は上皇方に与しました。

しかし、承久の乱は幕府方の圧倒的勝利に終わり、上皇方に組した武士たちは厳しい処罰を受けました。羽床氏も例外ではなく、讃岐藤家の嫡流としての地位を失い、その権力基盤は大きく揺らぎました。この結果、讃岐藤家の実権は勝賀城を本拠とする香西氏(こうざいし)に移り、羽床氏は以後、香西氏の影響下に置かれることとなりました。

南北朝時代から戦国時代へ

承久の乱以降、羽床氏は讃岐藤家の一門として存続しましたが、その勢力は往時に及びませんでした。南北朝時代には細川氏の讃岐支配が確立され、羽床氏も細川氏の傘下に入ったと考えられます。

戦国時代に入ると、讃岐国は三好氏の勢力圏となり、さらに織田信長の死後は、四国統一を目指す長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の侵攻を受けることになります。

羽床資載と羽床氏の最期

羽床城最後の城主は羽床資載(はゆかすけとし、生年不詳~1582年)でした。資載の時代、羽床氏は内部対立に悩まされていました。

天正6年(1578年)、資載は娘婿である香西佳清(こうざいよしきよ)と不仲となり、娘を離縁させるという事態が発生しました。この一族内の不和は、羽床氏の勢力をさらに弱体化させる要因となりました。

天正10年(1582年)、長宗我部元親の讃岐侵攻が本格化すると、羽床氏は抵抗を試みましたが、圧倒的な軍事力の前に降伏を余儀なくされました。資載はこの年に没したとされ、羽床氏は長宗我部氏の支配下に入りました。

羽床城の廃城

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定が行われ、長宗我部元親は土佐一国に減封されました。讃岐国には仙石秀久(せんごくひでひさ)が入封しましたが、翌天正14年(1586年)、秀久は豊後国の戸次川の戦いで大敗し、讃岐国を没収されました。

この混乱の中で、羽床氏は完全に滅亡し、羽床城も廃城となりました。天正14年(1586年)が羽床城の廃城年とされています。約400年間にわたって羽床氏の居城として機能した羽床城は、こうして歴史の舞台から姿を消しました。

羽床城の縄張りと遺構

羽床城は比高21メートルという低い丘陵上に築かれていますが、中世城郭として典型的な遺構が良好に残されています。

曲輪(くるわ)の配置

羽床城の中心部は本丸を中心とした連郭式の縄張りとなっています。本丸は城の最高所に位置し、周囲を土塁で囲まれた構造です。本丸の規模はそれほど大きくありませんが、居館としての機能を十分に果たせる広さを持っています。

本丸の周囲には複数の曲輪が配置され、段々に連なる形で防御ラインを形成しています。これらの曲輪は、敵の侵入を段階的に防ぐための工夫であり、中世山城の典型的な構造です。各曲輪の間には明瞭な切岸(きりぎし)が設けられ、高低差を利用した防御が意図されています。

土塁と堀切

羽床城の防御施設として特筆すべきは、良好に残る土塁です。本丸を取り囲む土塁は現在でも明瞭に確認でき、高さは最大で2メートル程度残っています。土塁の外側には堀の痕跡も認められ、二重の防御ラインを形成していたことがわかります。

城の背後(山側)には堀切が設けられ、尾根続きからの敵の侵入を防ぐ構造となっています。この堀切は現在も深さ3メートル程度が残り、当時の防御機能を偲ばせます。

井戸と生活遺構

城内には井戸の跡が残されており、籠城時の水源確保が考慮されていたことがわかります。この井戸は本丸近くに位置し、現在も窪地として確認できます。

また、城内各所からは中世の土器片が採集されており、長期にわたって居住が行われていたことが裏付けられています。

遺構の保存状態

羽床城の遺構は、廃城から400年以上が経過した現在でも比較的良好な状態で残されています。特に土塁と曲輪の配置は明瞭で、中世城郭の構造を理解する上で貴重な史跡となっています。ただし、一部は後世の開発や風化により失われた部分もあり、保存対策が課題となっています。

羽床城周辺の関連史跡

羽床上城

羽床城から北東約700メートルの位置には、羽床上城(はゆかかみじょう)が存在します。香川県綾歌郡綾川町羽床上今滝の八坂神社付近に所在したとされるこの城は、羽床氏の支城または一族の居館跡と考えられています。羽床城との関係性については詳細が不明ですが、羽床氏の勢力範囲を示す重要な遺跡です。

讃岐藤家関連城郭

讃岐藤家六十三家の各家は、讃岐国各地に城館を構えていました。羽床氏と並ぶ有力家である香西氏の勝賀城(しょうがじょう)は、高松市鬼無町に所在し、承久の乱以降の讃岐藤家の中心となりました。また、綾川町内には他にも複数の中世城館跡が確認されており、当時の武士団の勢力分布を知る手がかりとなっています。

羽床城へのアクセスと見学情報

所在地と交通アクセス

所在地: 香川県綾歌郡綾川町羽床下字城下

公共交通機関:

  • JR高松駅から車で約30分
  • ことでんバス「羽床」バス停下車、徒歩約15分

自動車:

  • 高松自動車道「府中湖スマートIC」から約10分
  • 県道17号線から町道経由でアクセス可能

駐車場と登城路

羽床城には専用の駐車場は整備されていません。見学の際は、周辺の路上駐車スペース(迷惑にならない場所)を利用するか、徒歩でのアクセスとなります。地元の方々の生活道路でもあるため、マナーを守った見学が求められます。

登城路は城の南側から比較的緩やかな斜面を登るルートが一般的です。比高21メートルと低いため、体力に自信のない方でも15分程度で本丸まで到達できます。ただし、整備された登山道ではないため、動きやすい服装と靴での訪問をおすすめします。

見学時の注意点

  • 私有地を含む可能性があるため、立入禁止の表示がある場所には入らないこと
  • 遺構を傷つけないよう注意すること
  • ゴミは必ず持ち帰ること
  • 夏季は草木が繁茂するため、春秋の見学が適しています
  • 単独での見学は避け、複数人での訪問が安全です

羽床城の歴史的意義

羽床城は、讃岐国における中世武士団の盛衰を物語る重要な史跡です。讃岐藤家の嫡流として栄えた羽床氏の居城として、約400年間にわたって機能し続けたこの城は、以下の点で歴史的意義を持ちます。

讃岐藤家の歴史を伝える遺産

羽床城は、京都から下向した藤原氏系貴族が在地領主化していく過程を示す貴重な事例です。中央貴族の子孫が地方に土着し、武士団を形成していった中世社会の特徴を具体的に示しています。

承久の乱の影響

承久の乱における敗北とその後の地位低下は、鎌倉幕府の全国支配確立という歴史的転換点を、地方武士の視点から示しています。羽床氏の没落と香西氏の台頭は、承久の乱が地方社会に与えた影響の大きさを物語っています。

四国の戦国史

天正期における長宗我部氏の侵攻と羽床氏の滅亡は、四国統一戦争の一側面を示しています。小規模ながら羽床城の歴史は、戦国時代末期の四国情勢を理解する上で重要な要素となっています。

中世城郭の典型例

遺構面では、羽床城は讃岐国における典型的な中世平山城の構造を示しています。土塁、曲輪、堀切といった基本的な防御施設が良好に残り、中世城郭研究の貴重な資料となっています。

綾歌郡と周辺地域の歴史

羽床城が所在する綾歌郡は、明治32年(1899年)に阿野郡(あやぐん)と鵜足郡(うたぐん)が合併して成立した郡です。「綾歌」という名称は、両郡の頭文字を取って名付けられました。

中世においては、この地域は讃岐藤家の勢力圏であり、羽床氏をはじめとする藤原氏系武士団が各地に城館を構えていました。綾川町周辺には、羽床城のほかにも多数の中世城館跡が確認されており、当時の武士社会の様相を今に伝えています。

現在の綾川町は、平成18年(2006年)に綾上町と綾南町が合併して成立しました。町内には羽床城をはじめとする歴史遺産が点在し、讃岐の中世史を学ぶ上で重要な地域となっています。

まとめ

香川県綾歌郡綾川町に残る羽床城は、讃岐藤家の嫡流・羽床氏が代々居城とした平山城です。治承年間の築城から天正14年の廃城まで、約400年間にわたって羽床氏の本拠地として機能しました。

承久の乱での敗北、戦国時代の内部対立、長宗我部元親の侵攻と滅亡という歴史は、中世讃岐における地方武士団の盛衰を象徴しています。現在も残る土塁、曲輪、堀切などの遺構は、中世城郭の構造を理解する上で貴重な史料となっています。

標高82メートル、比高21メートルという小規模な城郭ながら、羽床城は讃岐国の歴史において重要な役割を果たしました。綾川町を訪れる際には、ぜひこの歴史ある城跡に足を運び、中世讃岐の武士たちの息吹を感じてみてください。

地図

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