高田城

所在地 〒943-0835 新潟県上越市本城町6−1
公式サイト https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/takada-castle.html

高田城の歴史と魅力を徹底解説|石垣がない理由や天下普請の舞台裏

新潟県上越市本城町に位置する高田城は、江戸時代初期の慶長19年(1614年)に築城された平城です。徳川家康の六男・松平忠輝の居城として天下普請によって建設され、別名「鮫ヶ城」「関城」「螺城」「高陽城」とも呼ばれています。現在は高田城址公園として整備され、新潟県指定史跡であり、2017年(平成29年)には続日本100名城にも選定されました。

本記事では、高田城の築城から現代に至るまでの歴史、石垣を持たない独特の構造、天下普請の舞台裏、現存する遺構や復元施設、そして観光スポットとしての魅力まで、あらゆる角度から高田城の全貌を解説します。

高田城の概要と基本情報

高田城は高田平野の菩提ヶ原に築かれた平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸を配した輪郭式の縄張りを持ちます。城域は南北約1キロメートル、東西約600メートルにわたる大規模なもので、関川や青田川などの自然河川を外堀として巧みに利用した設計となっています。

本丸は約230メートルから220メートル四方の規模を誇り、その周囲を二の丸が取り囲み、さらに南側に三の丸、北側に北の丸が配置されています。この構造は、防御力を高めるとともに、城下町の発展を見据えた都市計画的な視点も含まれていました。

高田城の別名とその由来

高田城には複数の別名が存在します。最も市民に親しまれているのが「鮫ヶ城」という呼び名です。これは城の形状が鮫に似ていたという説や、城の守護として鮫を象徴的に用いたという説があります。また「関城」は関川に近い立地から、「螺城」は螺旋状の縄張りから、「高陽城」は高田の地名と太陽の意味を込めた雅称として用いられました。

これらの別名は、高田城が地域の人々にとって単なる軍事施設ではなく、文化的・精神的なシンボルとして認識されていたことを物語っています。

高田城の歴史・沿革

築城の背景と徳川家康の戦略

高田城の築城は、徳川家康の政治戦略と深く結びついています。慶長19年(1614年)、家康は六男の松平忠輝を越後高田に配置することを決定しました。この背景には、豊臣方との緊張が高まる中で、北陸・越後地方における徳川勢力の強化という目的がありました。

忠輝は家康の実子でありながら、容貌や性格が家康に気に入られず、長らく冷遇されていました。しかし、伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)との政略結婚により、伊達家との関係強化という重要な役割を担うことになります。高田城の築城は、この政治的文脈の中で実現したのです。

天下普請による短期間での築城

高田城の築城は「天下普請」として行われました。天下普請とは、幕府が全国の大名に命じて行わせる大規模な土木工事のことです。高田城の築城には13の大名が動員され、わずか4ヶ月という驚異的な速さで完成しました。

参加した大名には、伊達政宗、上杉景勝、前田利光、堀直寄、本多康俊など、東日本の有力大名が名を連ねています。特筆すべきは、城の縄張り(設計)を忠輝の舅である伊達政宗が担当したことです。政宗は築城の名手として知られており、その技術と経験が高田城の設計に活かされました。

工事は慶長19年(1614年)3月から7月にかけて行われ、延べ数十万人の人夫が動員されたと伝えられています。この短期間での築城は、大坂冬の陣を控えた時期であり、徳川家康の軍事的緊張感の表れでもありました。

松平忠輝の治世と改易

高田城に入城した松平忠輝は、75万石という大大名として越後を治めることになりました。しかし、忠輝の治世は長くは続きませんでした。大坂夏の陣(1615年)での軍令違反や、家康死後の振る舞いが問題視され、元和2年(1616年)、わずか2年で改易(領地没収)の処分を受けます。

忠輝は信濃国諏訪に流され、その後、飛騨高山に移されました。92歳まで生きた忠輝ですが、生涯赦免されることはありませんでした。この改易により、高田城は徳川家康の直系の居城という性格を失い、以降は譜代大名が入れ替わる城となります。

歴代城主の変遷

松平忠輝の改易後、高田城には様々な大名が入封しました。主な城主の変遷は以下の通りです。

  • 酒井家忠(元和2年/1616年):10万石で入封
  • 松平光長(寛永元年/1624年):26万石、後に改易
  • 松平光長改易後の幕府直轄期
  • 稲葉正通(延宝7年/1679年):10万石
  • 戸田忠真(貞享3年/1686年):5万石
  • 松平定重(宝永3年/1706年):10万石
  • 榊原政邦(享保2年/1717年):15万石

この中で最も長く高田城を居城としたのが榊原家です。榊原政邦が入封してから明治維新まで、約150年間にわたって榊原家が高田藩を治めました。榊原家は徳川四天王の一人・榊原康政を祖とする名門で、高田の地に深く根を下ろし、城下町の発展に貢献しました。

明治以降の変遷

明治維新後、高田城は廃城となり、明治3年(1870年)には城内の建造物の多くが取り壊されました。明治6年(1873年)の廃城令により、正式に城としての機能を失います。

その後、城跡は旧陸軍第13師団の駐屯地として利用されることになります。明治40年(1907年)には師団司令部が置かれ、軍事施設として大きく改変されました。この時期に、本丸や二の丸の一部が兵舎や練兵場として整備され、城の原形は大きく損なわれました。

昭和時代に入ると、戦後の昭和24年(1949年)に高田城址公園として整備が始まります。昭和45年(1970年)には新潟県の史跡に指定され、歴史的価値が再認識されました。平成5年(1993年)には上越市発足20周年記念事業として三重櫓が復元され、現在の姿に至っています。

高田城に石垣がない理由

高田城の最大の特徴の一つが、天守や石垣を持たないことです。一般的に近世城郭では石垣が防御の要として重視されますが、高田城ではなぜ石垣が築かれなかったのでしょうか。

短期築城による時間的制約

最も大きな理由は、わずか4ヶ月という短期間での築城だったことです。石垣の構築には、適切な石材の調達、加工、運搬、そして高度な技術を持つ石工の確保が必要で、多大な時間と労力を要します。大坂冬の陣を控えた緊迫した状況下で、徳川家康は高田城の早期完成を優先したため、石垣の構築は見送られたと考えられています。

地盤と気候の影響

高田平野の地盤は軟弱な沖積層であり、重量のある石垣を支えるには不向きでした。石垣を築くには強固な地盤が必要ですが、高田の地質条件ではその基礎工事に膨大な手間がかかります。

また、高田地方は日本有数の豪雪地帯です。冬季には数メートルの積雪があり、石垣は雪の重みや凍結による損傷を受けやすくなります。維持管理の面でも、石垣を持たない構造の方が合理的だったと考えられます。

土塁と堀による防御システム

石垣の代わりに、高田城では土塁と水堀による防御システムが採用されました。本丸を囲む内堀、二の丸を囲む中堀、そして関川や青田川を利用した外堀という三重の堀が城を守ります。

土塁は高さ約5〜6メートルに築かれ、その上に塀や櫓が設けられました。土塁は石垣に比べて構築が容易で、短期間での築城に適していました。また、豪雪地帯では雪の重みにも耐えやすく、地盤の沈下にも柔軟に対応できるという利点がありました。

水堀は幅が広く、深さも十分に確保されており、敵の接近を効果的に防ぐことができました。高田の豊富な水資源を活かした堀は、石垣に劣らない防御力を発揮したのです。

天守を持たない理由

高田城には天守も築かれませんでした。これは武家諸法度による「一国一城令」や天守建造の制限とは時期が異なるため、別の理由があったと考えられます。

一説には、短期築城のため天守まで建造する余裕がなかったこと、また伊達政宗の設計思想として実用性を重視し、象徴的な天守よりも防御機能を優先したという説があります。代わりに三重櫓が本丸に建てられ、実質的な天守の役割を果たしました。

遺構・復元施設

現存する遺構

高田城では、明治以降の開発により多くの建造物が失われましたが、城の基本的な構造である堀や土塁の一部は現在も残っています。

内堀は本丸を囲む堀で、現在も水を湛えており、当時の姿をよく残しています。堀の幅は約30〜40メートル、深さは約3〜4メートルで、春には堀端の桜が水面に映り、美しい景観を作り出します。

土塁も部分的に現存しており、特に本丸北側の土塁は比較的良好な状態で保存されています。土塁の上を歩くことができる箇所もあり、当時の城の規模を実感することができます。

極楽橋は内堀にかかる橋で、本丸への主要な入口でした。現在の橋は近代に架け替えられたものですが、位置は当時のままです。

復元された三重櫓

平成5年(1993年)、上越市発足20周年記念事業として、高田城のシンボルであった三重櫓が復元されました。この櫓は高田城の本丸に建てられていた最も重要な建造物で、天守の役割を果たしていました。

復元された三重櫓は、江戸時代の絵図「高田城図間尺」などの史料を基に、できる限り忠実に再現されています。外観は白漆喰の壁に黒い瓦屋根という伝統的な様式で、高さは約18メートルあります。

内部構造

三重櫓の内部は3層4階建てで、各階に展示室が設けられています。

  • 1階:高田城の歴史や築城に関する展示。天下普請の様子や参加した大名、築城技術などが解説されています。
  • 2階:松平忠輝や歴代城主に関する展示。忠輝の生涯や榊原家の治世などが紹介されています。
  • 3階:高田藩の武具や生活用品などの展示。当時の武士の暮らしを知ることができます。
  • 4階(展望室):360度のパノラマが楽しめる展望室。高田平野や妙高山、米山などの景色を一望できます。

三重櫓は高田城址公園のシンボルとして、また上越市の歴史を伝える重要な施設として、多くの観光客や市民に親しまれています。

高田城址公園の整備

高田城跡は昭和24年(1949年)から公園として整備が進められ、現在は「高田城址公園」として市民の憩いの場となっています。公園の面積は約50ヘクタールで、城の遺構を活かしながら、様々な施設が配置されています。

桜の名所

高田城址公園は「日本三大夜桜」の一つに数えられる桜の名所です。公園内には約4,000本のソメイヨシノが植えられており、毎年4月上旬から中旬にかけて見頃を迎えます。

特に内堀沿いの桜並木は圧巻で、夜にはぼんぼりが灯され、三重櫓と桜がライトアップされます。水面に映る桜と櫓の姿は幻想的で、毎年100万人以上の花見客が訪れます。

上越市立歴史博物館

平成25年(2013年)、高田城址公園内に上越市立歴史博物館が開館しました。この博物館では、上越地方の歴史や文化を総合的に展示しており、高田城や高田藩に関する資料も充実しています。三重櫓の管理も歴史博物館が行っています。

その他の施設

公園内には、小林古径記念美術館、オーレンプラザ(総合体育館)、野球場、陸上競技場などのスポーツ施設も整備されています。また、蓮の花が咲く外堀や、散策路、休憩所なども設けられ、四季を通じて楽しめる公園となっています。

高田城の支城と城下町

支城の配置

高田城を中心とする高田藩では、領内の要所に支城や陣屋が配置されていました。主な支城には以下のようなものがあります。

福島城:高田城築城以前、この地域の中心的な城でした。慶長3年(1598年)に堀秀治が築城し、その後堀氏の居城となりましたが、高田城築城に伴い廃城となりました。

春日山城:上杉謙信の居城として有名な山城です。高田藩の時代には既に廃城となっていましたが、その遺構は重要な史跡として認識されていました。

これらの支城は、高田城を中心とする防御ネットワークの一部を形成していました。

城下町高田の発展

高田城の築城に伴い、城下町も計画的に建設されました。町割りは碁盤目状に整備され、武家屋敷、町人町、寺町が明確に区分されました。

本町・仲町は商業の中心地として発展し、北国街道の宿場町としても栄えました。雁木(がんぎ)と呼ばれる雪国特有のアーケード状の通路が整備され、冬でも快適に往来できる工夫がなされました。現在でも高田の町には雁木が残り、日本一の雁木の町として知られています。

寺町は城の防御の一翼を担う役割も持っており、多くの寺院が集中して配置されました。これらの寺院は、有事の際には砦としての機能も果たす設計となっていました。

アクセスと観光情報

高田城へのアクセス

電車でのアクセス

  • JR信越本線「高田駅」から徒歩約20分
  • えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン「高田駅」から徒歩約20分
  • 高田駅からタクシーで約5分
  • 高田駅から路線バス「春日山・佐内線」で「高田城址公園入口」下車、徒歩すぐ

車でのアクセス

  • 北陸自動車道「上越IC」から約10分
  • 上信越自動車道「上越高田IC」から約5分
  • 駐車場:公園周辺に無料駐車場あり(約500台)、桜まつり期間中は有料

見学情報

高田城三重櫓

  • 所在地:新潟県上越市本城町6-1(高田城址公園内)
  • 開館時間:9:00〜17:00(最終入館16:30)
  • 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
  • 入館料:一般200円、小中学生100円(上越市立歴史博物館との共通券あり)
  • 問い合わせ:025-524-3120(上越市立歴史博物館)

高田城址公園

  • 入園自由、無料
  • 桜まつり期間中(4月上旬〜中旬)はライトアップあり(日没〜21:00頃)

周辺の観光スポット

上越市立歴史博物館:高田城址公園内にあり、上越の歴史を総合的に学べます。

旧師団長官舎:明治時代の洋風建築で、国の重要文化財に指定されています。

春日山城跡:上杉謙信の居城跡で、国の史跡。高田城から車で約20分。

雁木通り:高田の町中に残る日本一の雁木を見学できます。

小林古径記念美術館:日本画家・小林古径の作品を展示。公園内にあります。

高田城の文化的価値と現代における意義

続日本100名城への選定

平成29年(2017年)、高田城は「続日本100名城」に選定されました。これは公益財団法人日本城郭協会が、既存の「日本100名城」に続く100の名城を選定したもので、高田城はその歴史的価値と保存状態が評価されました。

続日本100名城のスタンプは、上越市立歴史博物館で押すことができ、城めぐりファンの訪問先として人気を集めています。

地域のシンボルとしての役割

高田城址公園は、上越市民にとって単なる史跡ではなく、生活の一部として親しまれています。桜まつりや蓮まつりなどのイベントが開催され、市民の憩いの場、交流の場として機能しています。

三重櫓は上越市のシンボルとして、市の広報物やパンフレットなどに頻繁に使用され、市民のアイデンティティの拠り所となっています。

歴史教育の場として

高田城址公園と三重櫓、上越市立歴史博物館は、地域の歴史教育の重要な場となっています。市内の小中学校では、社会科の授業や遠足で高田城を訪れ、郷土の歴史を学びます。

また、ボランティアガイドによる解説ツアーも定期的に開催され、観光客だけでなく市民も参加して、高田城の歴史を深く学ぶ機会が提供されています。

まとめ

高田城は、徳川家康の政治戦略の中で誕生し、わずか4ヶ月という短期間で築かれた特異な城です。石垣や天守を持たないという特徴は、築城の時代背景、地理的条件、気候条件など様々な要因が重なった結果であり、それ自体が高田城の個性となっています。

天下普請という大規模プロジェクトで建設され、伊達政宗が縄張りを担当したという歴史的背景、松平忠輝の悲劇的な運命、そして榊原家による長期の統治など、高田城には豊かな歴史が刻まれています。

現代では、復元された三重櫓と美しく整備された高田城址公園が、上越市の重要な観光資源であり、市民の誇りとなっています。特に桜の季節には、日本三大夜桜の一つとして全国から多くの人々が訪れ、歴史と自然が調和した美しい景観を楽しんでいます。

高田城を訪れることは、単に史跡を見学するだけでなく、江戸時代初期の政治状況、築城技術、そして雪国の人々の知恵と工夫を学ぶ貴重な機会となるでしょう。続日本100名城に選ばれた高田城は、これからも多くの人々に愛され、その歴史を未来へと伝えていくことでしょう。

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