赤谷山城(岐阜県)完全ガイド:東殿山城の歴史・遺構・アクセスまで徹底解説
赤谷山城とは
赤谷山城(あかだにやまじょう)は、岐阜県郡上市八幡町島谷に位置する戦国時代の山城です。別名を東殿山城(とうどやまじょう)、犬鳴城(いぬなきじょう)、気良城(きらじょう)とも呼ばれ、東常慶によって築かれた郡上郡支配の拠点として重要な役割を果たしました。
標高578メートルの東殿山頂上付近に築かれたこの城は、郡上八幡の町を見下ろす要衝の地に位置し、石垣や曲輪などの遺構が良好な状態で残されています。現在では城跡探訪や登山の対象として、歴史愛好家や城郭ファンに親しまれています。
名称と位置関係について
複数の別名の由来
赤谷山城には複数の呼称が存在し、それぞれに由来があります。最も一般的な「赤谷山城」という名称は、城が築かれた地域の地名に由来します。一方、「東殿山城」という別名は、城主である東氏の「殿様の山城」という意味から名付けられました。
「犬鳴城」という呼称については、城にまつわる伝承に基づくものとされています。また「気良城」という名称も地域の古い呼び名に関連していると考えられています。
新城と古城の関係
実は赤谷山城の城域には、新城と古城という二つの区域が存在します。標高578メートルの東殿山頂上にあるのが古城(東殿山城)で、その北の尾根上、標高約510メートル地点にあるのが新城(赤谷山城)です。
愛宕公園にある円通閣からの比高は約260メートルで、歩行距離は800メートル程度に及びます。この新旧二つの城郭が一体となって、郡上郡の防衛拠点を形成していました。
赤谷山城の歴史・沿革
東氏の出自と郡上進出
赤谷山城の城主である東氏は、下総国(現在の千葉県)の名族・千葉氏の庶流にあたります。東氏がいつ郡上の地に進出したかについては諸説ありますが、室町時代後期には篠脇城を居城として郡上郡に勢力を築いていました。
東氏は郡上郡の有力国人として、美濃国内の複雑な政治情勢の中で独自の勢力圏を維持していました。しかし、戦国時代に入ると周辺勢力との抗争が激化していきます。
天文年間の朝倉氏侵攻と築城
赤谷山城が築かれた背景には、越前(現在の福井県)の戦国大名・朝倉氏による侵攻がありました。天文9年(1540年)と翌天文10年(1541年)の二度にわたり、朝倉氏は郡上郡に侵攻し、東氏の居城であった篠脇城を攻撃しました。
東常慶は朝倉氏の攻撃をかろうじて撃退したものの、篠脇城は大きな損害を受けました。この経験から、より防御に適した地形を持つ東殿山に新たな城を築くことを決断します。天文10年(1541年)、東常慶によって赤谷山城が築城されました。
東氏の全盛期と郡上支配
赤谷山城を拠点とした東常慶は、郡上郡における支配を強化していきました。東殿山の険しい地形と堅固な防御施設により、赤谷山城は難攻不落の要塞として機能しました。
東常慶の時代、東氏は郡上郡の実質的な支配者として君臨し、周辺の国人領主たちに対しても影響力を持っていました。城下には家臣団の屋敷が配置され、郡上郡支配の政治・軍事拠点として機能していたと考えられます。
遠藤氏との抗争と東氏の滅亡
しかし、東氏の繁栄は長くは続きませんでした。郡上郡内では、もう一つの有力国人である遠藤氏が勢力を拡大していました。遠藤盛数は郡上郡の支配権をめぐって東氏と対立するようになります。
永禄2年(1559年)、遠藤盛数は赤谷山城を攻撃しました。激しい攻防戦の末、赤谷山城は落城し、東常慶は討死しました。この戦いにより、郡上郡における東氏の勢力は滅亡し、以後は遠藤氏が郡上郡の支配者となります。
落城後の赤谷山城
東氏滅亡後、赤谷山城がどのように扱われたかについては明確な記録が少ないものの、遠藤氏は郡上八幡に新たな城(後の郡上八幡城)を築いたため、赤谷山城は次第に使用されなくなったと考えられます。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、赤谷山城は廃城となり、山林に埋もれていきました。しかし、石垣などの遺構は良好に保存され、現在に至っています。
遺構・構造の詳細
縄張りの特徴
赤谷山城は、東殿山の急峻な地形を巧みに利用した山城です。主郭を中心に、複数の曲輪が尾根沿いに配置された連郭式の縄張りを持っています。
城域は南北に長く延び、新城と古城を合わせると相当な規模となります。各曲輪は切岸によって明確に区画され、防御性を高めています。尾根筋を遮断する堀切も複数箇所に設けられており、敵の侵入を阻む工夫が随所に見られます。
主郭とその周辺
主郭は東殿山の頂上付近に位置し、城の中核をなす区画です。主郭の周囲には帯曲輪が配置され、多方向からの攻撃に備える構造となっています。
主郭内部は比較的平坦で、城主の居館や重要施設が置かれていたと推測されます。現在でも土塁の痕跡が確認でき、往時の構造を偲ぶことができます。主郭からは郡上八幡の町並みや周辺の山々を一望でき、軍事的にも優れた立地であることがわかります。
石垣の特徴
赤谷山城の最大の見どころの一つが、良好に残された石垣です。戦国時代の山城としては珍しく、各所に石垣が用いられており、東氏の築城技術の高さを示しています。
石垣は主に野面積みの技法で築かれており、自然石をそのまま積み上げた素朴な造りが特徴です。曲輪の縁部や虎口(出入口)周辺に石垣が集中しており、重要な箇所を重点的に強化していたことがわかります。
一部の石垣は高さ2~3メートルにも及び、当時の石垣としては相当な規模です。崩落している箇所もありますが、全体としては保存状態が良く、築城当時の姿を今に伝える貴重な遺構となっています。
曲輪の配置
赤谷山城には、主郭を含めて複数の曲輪が確認されています。各曲輪は尾根の地形に沿って配置され、段階的な防御ラインを形成しています。
主郭の周辺には二の曲輪、三の曲輪などが配置され、それぞれが独立した防御単位として機能していました。曲輪間は急斜面や切岸で区切られており、一つの曲輪が突破されても次の曲輪で防御できる構造となっています。
各曲輪の規模は様々で、大きなものから小規模なものまであります。大きな曲輪は兵士の駐屯や物資の保管に使用され、小規模な曲輪は見張り台や狭間として機能していたと考えられます。
堀切と竪堀
赤谷山城の防御施設として重要なのが、堀切と竪堀です。尾根筋を断ち切るように掘られた堀切は、敵の侵入を阻む重要な役割を果たしました。
城域内には複数の堀切が確認されており、特に主郭の背後(尾根続き)には大規模な堀切が設けられています。この堀切は深さ数メートルに及び、尾根伝いに攻め寄せる敵を効果的に阻止する構造となっています。
竪堀は斜面を縦方向に掘った堀で、横移動する敵兵の動きを制限する効果があります。赤谷山城では、主要な曲輪の側面に竪堀が配置され、防御ラインを強化しています。
水呑場(水の手)
山城において最も重要な施設の一つが水源です。赤谷山城にも「水呑場」と呼ばれる水の手が確認されています。
水呑場は城の生命線であり、籠城戦においては特に重要な施設でした。赤谷山城の水呑場は、山腹の湧水を利用したものと考えられ、現在でもその痕跡を確認することができます。
水呑場への道は曲輪から降りる形で設けられており、敵の攻撃を受けにくい位置に配置されています。この配置からも、築城者の周到な計画性がうかがえます。
登山道と遺構の分布
現在、赤谷山城へは愛宕公園から登山道が整備されています。登山道は往時の大手道(正面の登城路)に近いルートをたどっており、登城しながら各遺構を観察することができます。
登山道沿いには、曲輪跡、石垣、堀切などの遺構が点在しており、案内板も設置されています。ただし、山城特有の急斜面や足場の悪い箇所もあるため、登城には相応の準備と注意が必要です。
頂上付近の主郭に到達すると、郡上八幡城や郡上八幡の町並みを一望できる絶景が広がります。この眺望は、赤谷山城が郡上郡支配の拠点として最適な立地にあったことを実感させてくれます。
伝承と逸話
犬鳴城の伝説
赤谷山城が「犬鳴城」とも呼ばれる由来には、興味深い伝承が残されています。城が落城する際、城主の愛犬が悲しみのあまり鳴き続けたという言い伝えや、城の守護犬が敵の襲来を知らせて鳴いたという話が地域に伝わっています。
こうした伝承は、城の歴史に彩りを添えるとともに、地域の人々が城に対して抱いてきた思いを反映しています。
東常慶の最期
東常慶の最期については、いくつかの異なる伝承があります。一説には、遠藤盛数の攻撃を受けて城内で討死したとされ、別の説では城を脱出しようとして討ち取られたとも伝えられています。
いずれにしても、東常慶は最後まで城を守り抜こうとした武将として、地域の歴史に名を残しています。
郡上八幡城との関係
赤谷山城を語る上で欠かせないのが、郡上八幡城との関係です。赤谷山城から郡上八幡城は直線距離で数キロメートルの位置にあり、両城は郡上の歴史において重要な役割を果たしました。
東氏滅亡後、郡上郡を支配した遠藤氏は、より町に近い八幡山に新たな城を築きました。これが後の郡上八幡城です。赤谷山城が山深い要害の城であったのに対し、郡上八幡城は城下町の発展を見据えた平山城として整備されました。
現在、赤谷山城の主郭からは郡上八幡城を望むことができ、両城の位置関係を実感することができます。戦国時代から江戸時代への移行期における城郭の変遷を、この二つの城は象徴的に示しています。
アクセス情報
公共交通機関でのアクセス
赤谷山城へのアクセスは、郡上八幡市街地を起点とします。最寄り駅は長良川鉄道の「郡上八幡駅」で、駅から城跡登山口(愛宕公園)までは徒歩約20~30分です。
郡上八幡駅へは、美濃太田駅から長良川鉄道で約1時間20分、または岐阜駅からバスで約1時間30分でアクセスできます。郡上八幡は観光地としても人気があり、公共交通機関も比較的充実しています。
自動車でのアクセス
自動車の場合、東海北陸自動車道「郡上八幡IC」から約10分で郡上八幡市街地に到着します。登山口となる愛宕公園周辺には駐車スペースがありますが、台数に限りがあるため、休日などは早めの到着をおすすめします。
郡上八幡城の駐車場を利用し、そこから徒歩で愛宕公園方面に向かうルートも可能です。市街地には他にも観光用の駐車場がいくつかあります。
登山口から城跡まで
愛宕公園(円通閣周辺)が登山口となります。ここから赤谷山城跡までは、比高約260メートル、歩行距離約800メートルの登山となります。
登山道は整備されていますが、山城特有の急勾配や足場の悪い箇所があります。所要時間は登り約60~90分、下り約40~60分が目安です。体力に自信のない方や、登山初心者の方は、十分な準備と時間的余裕を持って訪れることをおすすめします。
登城時の注意点
赤谷山城の登城には、以下の点に注意が必要です。
服装と装備:登山に適した服装と靴が必須です。特に雨天後は滑りやすいため、トレッキングシューズなど滑りにくい靴を着用してください。夏季は虫除けスプレー、冬季は防寒対策も必要です。
飲料水:山頂には自動販売機などはありません。十分な飲料水を持参してください。
時間配分:日没前には下山できるよう、時間配分に注意してください。特に冬季は日没が早いため、午前中の登城をおすすめします。
天候:悪天候時の登城は危険です。天気予報を確認し、無理な登城は避けてください。
熊対策:山間部のため、熊の出没情報にも注意が必要です。熊鈴の携行をおすすめします。
見学所要時間
赤谷山城の見学には、登山時間を含めて2~3時間程度を見込んでおくとよいでしょう。じっくりと遺構を観察したり、写真撮影を楽しんだりする場合は、さらに時間的余裕を持つことをおすすめします。
郡上八幡城や郡上八幡の町並み散策と組み合わせる場合は、半日から一日の行程となります。
周辺の見どころ
郡上八幡城
赤谷山城を訪れたら、ぜひ郡上八幡城にも足を運んでみてください。昭和8年に再建された天守は、日本最古の木造再建天守として知られています。城内は資料館となっており、郡上の歴史を学ぶことができます。
郡上八幡の町並み
郡上八幡は「奥美濃の小京都」とも呼ばれる美しい城下町です。清流・吉田川沿いに広がる古い町並みは、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。水路が巡る町並みを散策すれば、江戸時代の風情を感じることができます。
郡上おどり
郡上八幡は「郡上おどり」で全国的に知られています。7月中旬から9月上旬まで、約30夜にわたって開催されるこの盆踊りは、日本三大盆踊りの一つに数えられています。
赤谷山城の歴史的意義
赤谷山城は、単なる地方の山城ではなく、戦国時代の美濃国における地域支配の実態を示す重要な遺跡です。
東氏という千葉氏庶流の一族が、遠く離れた美濃国郡上郡に勢力を築き、独自の支配体制を確立していた事実は、戦国時代の複雑な政治状況を物語っています。また、朝倉氏の侵攻に対抗して新たな城を築いたという経緯は、当時の軍事的緊張関係を示す具体例として貴重です。
遺構面でも、石垣を多用した山城として、美濃国における築城技術の発展段階を示す重要な資料となっています。郡上という山間部において、これだけの規模の石垣を用いた城郭が築かれたことは、東氏の経済力と技術力の高さを示しています。
現在、赤谷山城は郡上市の貴重な文化財として保護されており、地域の歴史遺産として大切にされています。登山道の整備や案内板の設置など、見学環境の改善も進められており、多くの城郭ファンや歴史愛好家が訪れる名城となっています。
まとめ
赤谷山城(東殿山城)は、岐阜県郡上市に残る戦国時代の貴重な山城遺跡です。東常慶によって天文10年(1541年)に築かれ、郡上郡支配の拠点として機能しましたが、永禄2年(1559年)に遠藤盛数の攻撃により落城し、東氏は滅亡しました。
標高578メートルの東殿山に築かれた城は、石垣、曲輪、堀切などの遺構が良好に残されており、戦国時代の山城の姿を今に伝えています。特に石垣は山城としては珍しく、見どころの一つとなっています。
登城には相応の体力と準備が必要ですが、主郭からの眺望は素晴らしく、郡上八幡の町並みや郡上八幡城を一望できます。郡上八幡観光と合わせて訪れることで、戦国時代から江戸時代への城郭の変遷を実感できるでしょう。
歴史ファン、城郭ファンはもちろん、登山やハイキングを楽しみたい方にもおすすめの史跡です。郡上八幡を訪れた際は、ぜひ赤谷山城にも足を運んでみてください。
