箆津城(のつじょう)完全ガイド|鳥取県東伯郡琴浦町の海城遺構と歴史
箆津城とは – 伯耆国の重要海城
箆津城(のつじょう)は、鳥取県東伯郡琴浦町箆津に所在した中世の城郭です。別名を槇城(まきじょう)とも呼ばれ、日本海に面した丘陵地に築かれた海城・丘城として、伯耆国(現在の鳥取県中西部)における海上交通の要衝を押さえる重要な拠点でした。
現在は琴浦町指定文化財(昭和50年6月2日指定、旧赤碕町指定文化財として登録)として保護されており、畑地や原野に姿を変えながらも、往時の遺構の一部が今なお残されています。
箆津城の基本情報
- 名称: 箆津城(のつじょう)
- 別名: 槇城(まきじょう)
- 所在地: 鳥取県東伯郡琴浦町箆津
- 築城年: 不明(鎌倉時代と推定)
- 廃城年: 天正年間(1573年~1591年)※推定
- 築城主: 槇氏
- 城主: 糟屋重行(六波羅探題)、赤坂幸清(名和氏家臣)、箆津敦忠、槇氏
- 形態: 丘城、海城
- 文化財指定: 琴浦町指定文化財
箆津城の歴史 – 鎌倉時代から戦国時代まで
鎌倉時代の成立と六波羅探題
箆津城の築城年代は明確には不詳ですが、鎌倉時代に遡ると考えられています。最初期の城主として記録に残るのは、六波羅探題に関係した糟屋重行の名です。六波羅探題は鎌倉幕府が京都に設置した機関であり、西国の武士統制を担っていました。糟屋氏がこの地に拠点を持ったことは、箆津が早くから軍事・行政上の重要地点であったことを示しています。
南北朝時代と名和氏の影響
南北朝時代には、伯耆国で大きな勢力を誇った名和氏の家臣である赤坂幸清が城主となりました。名和氏は後醍醐天皇を支援した名和長年で知られる一族で、伯耆国における南朝方の中心勢力でした。赤坂幸清の居城となったことで、箆津城は南朝方の重要拠点の一つとして機能したと考えられます。
また、この時期には箆津敦忠という人物も城主として記録されています。箆津という姓から、この地域に根ざした土豪であった可能性が高く、名和氏の勢力圏内で地域支配を担っていたと推定されます。
戦国時代と槇氏の支配
戦国時代に入ると、槇氏が箆津城の城主として台頭します。槇氏による築城あるいは大規模改修が行われたため、城は槇城という別名でも呼ばれるようになりました。槇氏は伯耆国東部で勢力を持った国人領主であり、箆津を本拠として周辺地域を支配しました。
『伯耆民談記』などの地誌にも槇氏の名が記され、この一族が箆津城を居城として地域に根を下ろしていたことが確認できます。槇氏の時代に、城郭としての防御施設が整備され、現在見られる遺構の多くが形成されたと推定されています。
天正年間の廃城
箆津城は天正年間(1573年~1591年)に廃城になったと推定されています。この時期は織田信長・豊臣秀吉による全国統一が進められた時代であり、伯耆国も羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めの影響を受けました。
天正8年(1580年)から天正9年(1581年)にかけて、秀吉は伯耆国に侵攻し、多くの国人領主が服属または滅亡しました。槇氏もこの過程で没落し、箆津城は戦略的価値を失って廃城となったと考えられます。その後、城跡は農地として利用され、現在に至っています。
箆津城の縄張りと城郭構造
海城・丘城としての立地
箆津城は日本海に面した丘陵上に築かれた海城であり、同時に内陸側への防御も考慮した丘城の性格を併せ持っています。海岸線に近い立地を活かし、海上交通の監視と制御、さらには水軍の拠点としての機能を果たしていたと考えられます。
伯耆国の日本海沿岸は、京都や山陰地方を結ぶ海上交通路として重要であり、箆津の港は物資輸送や軍事移動の要衝でした。箆津城はこの海上ルートを押さえる戦略拠点として機能していたのです。
現存する遺構
箆津城跡には、以下のような城郭遺構が確認されています。
郭跡(曲輪)
複数の平坦面が残されており、主郭・二の郭などの区画が存在したと推定されます。ただし、大部分が畑地へ改変されているため、往時の正確な配置を復元することは困難です。それでも、地形の起伏から郭の配置を推測することは可能です。
切岸
人工的に削り取られた急斜面である切岸が各所に残されています。切岸は敵の侵入を困難にする重要な防御施設であり、箆津城が実戦を想定した堅固な城郭であったことを示しています。
土塁
郭の周囲を巡る土塁の痕跡が確認できます。土塁は土を盛り上げて築いた土の壁で、矢や石を防ぐとともに、敵の視界を遮る役割を果たしました。
空堀
郭と郭を区切る空堀(水を湛えない堀)が残されています。空堀は敵の移動を妨げ、防御力を高める重要な施設です。中世山城では水堀よりも空堀が一般的でした。
虎口(出入口)
城郭への出入口である虎口の跡が確認されています。箆津城では平入虎口(平坦な地形に設けられた虎口)が採用されており、防御と通行の両立が図られていました。
土橋
平入虎口へ接続する土橋が存在しました。土橋は堀を越えるための土の橋で、有事には破壊して敵の侵入を防ぐことができる可動式の防御施設でした。
櫓台
物見や攻撃のための櫓を建てた櫓台の跡も残されています。櫓台からは周囲を見渡すことができ、敵の動きを早期に察知できました。
現在の状況
箆津城跡は現在、畑地と原野として利用されています。大規模な開発は行われていないため、地形に城郭の面影を残していますが、遺構の多くは農地化によって改変を受けています。それでも、琴浦町指定文化財として保護されており、地域の歴史遺産として大切に守られています。
箆津城と伯耆国の戦国史
伯耆国の戦国大名と国人領主
戦国時代の伯耆国は、複数の国人領主が割拠する状況でした。東部には南条氏、西部には行松氏や進氏、中部には槇氏などが勢力を持ち、それぞれが独自の勢力圏を形成していました。
一方で、隣国の出雲国(島根県東部)では尼子氏が、安芸国(広島県西部)では毛利氏が台頭し、伯耆の国人領主たちはこれら大勢力の狭間で生き残りを図らなければなりませんでした。槇氏も時には尼子氏に、時には毛利氏に従属しながら、自領の保全に努めたと考えられます。
羽柴秀吉の伯耆侵攻
天正8年(1580年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国地方に侵攻しました。秀吉は毛利氏との戦いを進める中で、伯耆国の制圧にも乗り出します。伯耆の国人領主たちは次々と秀吉に服属し、抵抗する者は滅ぼされました。
槇氏の動向については詳細な記録が残されていませんが、天正年間に箆津城が廃城となったことから、槇氏も秀吉の侵攻によって没落したか、あるいは服属後に居城を放棄させられたと推定されます。
箆津の地域と歴史的背景
箆津という地名
箆津(のつ)という地名は、古くからこの地域を指す呼称として使われてきました。「津」は港を意味する言葉であり、箆津が古代から港町として栄えていたことを示しています。日本海に面した良港として、物資の集散地や海上交通の中継点として機能していました。
琴浦町の成立
箆津が所在する琴浦町は、平成16年(2004年)に旧東伯町と旧赤碕町が合併して誕生しました。箆津は旧赤碕町に属しており、合併前に赤碕町指定文化財として登録されていた箆津城跡は、合併後も琴浦町指定文化財として引き継がれています。
東伯郡の歴史
東伯郡は、伯耆国の東部に位置する郡で、古代から続く行政区画です。現在の東伯郡には琴浦町のほか、三朝町、湯梨浜町、北栄町が含まれます。歴史的には旧八橋郡、旧河村郡などの小郡が統合されて形成された地域であり、多様な歴史と文化が交錯する地域です。
箆津城跡へのアクセスと見学情報
所在地
〒689-2544
鳥取県東伯郡琴浦町箆津
アクセス方法
公共交通機関
- JR山陰本線「赤碕駅」から車で約10分
- 路線バス「箆津東口」バス停下車、徒歩約5分
自動車
- 山陰自動車道「琴浦東IC」から約15分
- 国道9号線から県道を経由してアクセス可能
見学時の注意点
箆津城跡は私有地を含む畑地・原野となっているため、見学の際は以下の点に注意してください。
- 私有地への無断立ち入りは避け、農作業の妨げにならないよう配慮する
- 遺構を傷つけたり、ゴミを残したりしない
- 地元の方々への挨拶と配慮を忘れずに
- 案内板や説明板がある場合は、それに従って見学する
周辺の関連史跡
箆津城跡を訪れる際は、琴浦町や東伯郡内の他の史跡も併せて巡ることで、伯耆国の歴史をより深く理解できます。
- 旧河村郡・旧八橋郡の古城跡: 東伯郡内には多数の中世城郭跡が点在
- 名和神社: 名和長年を祀る神社(大山町)
- 伯耆古城跡群: 伯耆国全域に残る中世城郭の遺構
箆津城の研究と史料
主要史料
箆津城に関する史料は限られていますが、以下の文献に記述が見られます。
『伯耆民談記』
江戸時代に編纂された伯耆国の地誌で、槇氏や箆津城に関する記述が含まれています。当時の伝承や記録をもとに編纂されており、城郭研究の重要な史料です。
『伯耆国古城跡図録』
近年の調査研究をもとに作成された城郭図録で、箆津城の縄張り図や遺構の詳細が記録されています。地元の研究者や歴史愛好家による調査成果がまとめられています。
今後の研究課題
箆津城については、以下のような研究課題が残されています。
- 築城年代の特定: 発掘調査による遺物の年代測定
- 城主の系譜: 槇氏や箆津氏の詳細な系図の解明
- 廃城の経緯: 天正年間の具体的な廃城時期と理由
- 海城としての機能: 港湾施設や水軍との関係
- 周辺城郭との関係: 伯耆国東部の城郭ネットワークの解明
箆津城と地域文化
伯耆国古城・史跡探訪
近年、伯耆国の古城跡を巡る歴史探訪が人気を集めています。「しろ凸たん」などの企画では、箆津城をはじめとする伯耆国の城郭を紹介し、地域の歴史文化の普及に努めています。こうした取り組みにより、埋もれていた地域の歴史が再発見され、観光資源としても注目されつつあります。
琴浦町の歴史保存活動
琴浦町では、箆津城跡を含む町内の文化財の保存と活用に取り組んでいます。町指定文化財としての保護はもちろん、案内板の設置や地域住民への啓発活動を通じて、歴史遺産を次世代に継承する努力が続けられています。
まとめ – 箆津城の歴史的意義
箆津城は、鳥取県東伯郡琴浦町に残る中世城郭跡であり、伯耆国における海上交通の要衝を押さえる重要な拠点でした。鎌倉時代から戦国時代まで、糟屋氏、名和氏家臣、箆津氏、槇氏と城主が変遷し、各時代の政治・軍事情勢を反映してきました。
天正年間に廃城となった後は農地として利用されてきましたが、現在も郭跡、切岸、土塁、空堀、虎口、土橋、櫓台などの遺構が残されており、琴浦町指定文化財として保護されています。
伯耆国の戦国史を理解する上で、箆津城のような地域に根ざした城郭の研究は欠かせません。今後の発掘調査や史料研究により、さらに多くの事実が明らかになることが期待されます。
箆津城跡を訪れることで、中世伯耆国の歴史と、この地に生きた人々の営みに思いを馳せることができるでしょう。地域の歴史遺産として、これからも大切に守り伝えていくべき貴重な史跡です。
