延岡城(宮崎県延岡市)

所在地 〒882-0813 宮崎県延岡市東本小路

延岡城(宮崎県延岡市)完全ガイド|千人殺しの石垣と城下町の歴史を徹底解説

延岡城とは

延岡城(のべおかじょう)は、宮崎県延岡市本小路に位置する日本の城郭です。江戸時代初期の慶長6年(1601年)に高橋元種によって築城が開始され、慶長8年(1603年)に完成しました。もとは縣城(あがたじょう)と呼ばれ、別名を亀井城(かめいじょう)とも称されます。

延岡城は宮崎県を代表する近世城郭として知られ、五ヶ瀬川と大瀬川の合流地点に位置する標高約50メートルの丘陵に築かれた平山城です。現在は城山公園として整備され、市民の憩いの場となっています。平成29年(2017年)には「続日本100名城」に選定され、城郭ファンからも注目を集める史跡となっています。

本丸、二の丸、三の丸を中心とした構造を持ち、特に二の丸の高石垣は「千人殺し」の伝説で有名です。明治維新後は建造物の多くが失われましたが、石垣や堀などの遺構が良好に残されており、当時の城郭構造を今に伝えています。

延岡城の概要

基本情報

  • 所在地: 宮崎県延岡市本小路
  • 城郭構造: 平山城
  • 築城年: 慶長6年(1601年)〜慶長8年(1603年)
  • 築城主: 高橋元種
  • 主な城主: 高橋氏、有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏
  • 廃城年: 明治4年(1871年)
  • 遺構: 石垣、堀、土塁
  • 指定文化財: 宮崎県指定史跡、続日本100名城(No.195)

地理的特徴

延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川が合流する地点の北側に位置し、自然の地形を巧みに利用した要害の地に築かれています。城の北側と東側は川に面し、南側と西側には堀を巡らせることで、四方を水で守られた堅固な防御体制を構築していました。

城下町は城の南側に広がり、碁盤の目状に整備された町割りが今も残されています。延岡は日向国北部の要衝として、豊後(大分県)と日向を結ぶ交通の要所でもあり、政治・経済・軍事の中心地として発展しました。

延岡城の歴史

築城以前の延岡

延岡の地には古くから人々が居住しており、中世には土持氏が松尾城を築いて一帯を支配していました。戦国時代には島津氏の勢力下に入り、日向国の重要拠点として機能していました。

豊臣秀吉による九州平定後、この地域は豊臣政権の支配下に置かれ、文禄4年(1595年)には高橋元種が縣(あがた)5万石の領主として入封しました。当初、高橋元種は松尾城を居城としていましたが、手狭であったため新たな城の築城を計画します。

高橋元種時代

高橋元種(たかはし もとたね、1560年〜1623年)は、豊後国の戦国大名・大友宗麟の重臣であった高橋鎮種の子として生まれました。大友氏滅亡後は豊臣秀吉に仕え、九州平定の功績により縣5万石を与えられました。

慶長6年(1601年)、高橋元種は新城の築城を開始します。築城場所として選ばれたのは、五ヶ瀬川と大瀬川の合流点近くの丘陵地で、水運の便が良く、防御にも優れた立地でした。築城工事は約3年の歳月をかけて進められ、慶長8年(1603年)に完成しました。

当初は「縣城」と呼ばれていましたが、後に「延岡城」と改称されました。高橋元種は城下町の整備にも力を注ぎ、商人や職人を招いて町の繁栄を図りました。また、五ヶ瀬川に架かる大瀬橋を整備し、交通の便を改善しています。

高橋元種は元和9年(1623年)に64歳で死去するまで延岡の地を治め、延岡藩の基礎を築きました。元種の死後、嗣子がなく高橋家は断絶し、延岡藩は一時幕府直轄領となりました。

有馬康純時代

寛永16年(1639年)、有馬康純(ありま やすずみ)が三河国刈谷から5万3千石で延岡に入封しました。有馬氏は島原の乱で知られる有馬晴信の一族で、康純は日向延岡藩の藩主として城郭の整備と藩政の安定に努めました。

有馬氏の時代には、城の建造物が整備され、特に天守代用として使用された三階櫓が建設されました。また、城下町の拡張や産業の振興にも力を入れ、延岡藩の発展に貢献しました。

有馬氏は4代にわたって延岡を治めましたが、延宝7年(1679年)に4代藩主・有馬清純が筑後国久留米藩に転封となり、有馬氏の延岡支配は終わりを告げました。

三浦氏時代

延宝7年(1679年)、三浦明敬(みうら あきひろ)が遠江国刈谷から5万3千石で延岡に入封しました。三浦氏は三河三浦氏の系統で、徳川家との結びつきが強い譜代大名でした。

三浦氏の時代は比較的短く、貞享3年(1686年)に2代藩主・三浦明次が陸奥国白河藩に転封となり、わずか7年で延岡を去ることとなりました。

牧野氏時代

貞享3年(1686年)、牧野成央(まきの なりなか)が越後国長岡から5万3千石で延岡に入封しました。牧野氏は越後の名門で、牧野成貞の次男である成央が延岡藩主となりました。

牧野氏の時代には城郭の維持管理が行われましたが、享保2年(1717年)に2代藩主・牧野貞通が越後国長岡藩に転封となり、牧野氏の延岡支配も31年で終わりました。

内藤氏時代と幕末

享保2年(1717年)、内藤政樹(ないとう まさき)が駿河国田中から7万石で延岡に入封しました。内藤氏は徳川家康の重臣・内藤清成を祖とする譜代大名で、以後明治維新まで7代にわたって延岡を治めることとなります。

内藤氏の時代には、藩政の安定と産業の振興が図られました。特に林業や製紙業が発展し、延岡藩の財政を支えました。また、教育にも力を入れ、藩校「広業館」を設立して人材育成に努めました。

幕末の動乱期には、最後の藩主・内藤政挙が藩政改革を推進し、軍制改革や殖産興業に取り組みました。戊辰戦争では新政府側に立ち、明治維新を迎えることとなります。

明治以降

明治4年(1871年)の廃藩置県により延岡藩は廃止され、延岡県を経て宮崎県に編入されました。城郭は明治政府により廃城処分となり、建造物の多くが取り壊されたり払い下げられたりしました。天守代用の三階櫓は明治初年に焼失し、以後再建されることはありませんでした。

大正時代には城跡が公園として整備され、「城山公園」として市民に開放されました。昭和期には石垣の修復工事が行われ、遺構の保存が図られています。

平成に入ってからは、北大手門が復元されるなど、歴史的景観の再生が進められています。平成29年(2017年)には「続日本100名城」に選定され、観光資源としても注目を集めています。

歴代延岡城主

延岡城は江戸時代を通じて、複数の大名家によって治められました。以下に歴代城主をまとめます。

高橋氏時代(1595年〜1623年)

  1. 高橋元種(もとたね):1595年〜1623年、5万石
  • 延岡城を築城し、城下町を整備
  • 嗣子なく断絶

幕府直轄期(1623年〜1639年)

高橋氏断絶後、延岡は一時的に幕府直轄領となりました。

有馬氏時代(1639年〜1679年)

  1. 有馬康純(やすずみ):1639年〜1655年、5万3千石
  2. 有馬清純(きよずみ):1655年〜1663年
  3. 有馬氏純(うじずみ):1663年〜1672年
  4. 有馬清純(きよずみ):1672年〜1679年
  • 久留米藩へ転封

三浦氏時代(1679年〜1686年)

  1. 三浦明敬(あきひろ):1679年〜1681年、5万3千石
  2. 三浦明次(あきつぐ):1681年〜1686年
  • 白河藩へ転封

牧野氏時代(1686年〜1717年)

  1. 牧野成央(なりなか):1686年〜1705年、5万3千石
  2. 牧野貞通(さだみち):1705年〜1717年
  • 長岡藩へ転封

内藤氏時代(1717年〜1871年)

  1. 内藤政樹(まさき):1717年〜1729年、7万石
  2. 内藤政貞(まささだ):1729年〜1739年
  3. 内藤政陽(まさはる):1739年〜1771年
  4. 内藤政脩(まさなが):1771年〜1792年
  5. 内藤政韶(まさつぐ):1792年〜1827年
  6. 内藤政義(まさよし):1827年〜1854年
  7. 内藤政挙(まさたか):1854年〜1871年
  • 最後の延岡藩主、廃藩置県を迎える

延岡城の構造と見どころ

縄張りと城郭構造

延岡城は本丸を中心に、二の丸、三の丸が配置された輪郭式の平山城です。本丸は最も高い位置にあり、周囲を高石垣で囲まれていました。二の丸は本丸の南側に位置し、藩主の居館や政庁が置かれていました。三の丸はさらに外側を囲み、家臣の屋敷や役所が配置されていました。

城の北側と東側は五ヶ瀬川と大瀬川の自然の堀として機能し、南側と西側には人工的な堀が掘られていました。また、城内には複数の門が設けられ、厳重な防御体制が敷かれていました。

千人殺しの石垣

延岡城の最大の見どころは、二の丸北側にそびえる高さ約22メートルの高石垣、通称「千人殺し」です。この石垣には興味深い伝説があります。

石垣の中に「太鼓石」と呼ばれる特定の石があり、この石を外すと石垣全体が崩落し、攻め寄せた敵兵千人を殺すことができるという仕掛けがあったとされています。実際には物理的にそのような仕組みは不可能ですが、敵を威嚇するための伝説として語り継がれてきました。

現在、この石垣は経年劣化により孕み(ふくらみ)が見られ、基部はコンクリートで補強されています。それでもなお、その迫力ある姿は延岡城を代表する景観として多くの訪問者を魅了しています。

石垣は野面積みと打込接ぎの技法が用いられており、江戸時代初期の石垣技術を知る上で貴重な遺構となっています。

本丸跡

本丸は城の中心部で、最も高い位置にあります。現在は広場となっており、かつては天守代用の三階櫓が建っていました。本丸からは延岡市街や五ヶ瀬川の流れを一望でき、絶景スポットとして知られています。

本丸の周囲には石垣が残されており、当時の城郭の規模を実感することができます。春には桜が咲き誇り、花見の名所としても親しまれています。

北大手門

平成23年(2011年)に復元された北大手門は、延岡城の正門として機能していた重要な門です。木造で再建され、当時の姿を忠実に再現しています。

門の両脇には石垣が残されており、城郭建築の美しさを堪能することができます。夜間にはライトアップが行われ、幻想的な雰囲気を醸し出しています。

石垣と堀

城内各所に残る石垣は、延岡城の重要な遺構です。野面積み、打込接ぎ、切込接ぎなど、様々な技法が見られ、築城時期や場所によって異なる工法が用いられていたことがわかります。

堀の一部も残されており、かつての防御施設の様子を偲ぶことができます。特に西側の堀は良好な状態で保存されており、散策路として整備されています。

城山公園

延岡城跡は現在、城山公園として整備され、市民の憩いの場となっています。公園内には遊歩道が整備され、四季折々の自然を楽しむことができます。

春には約300本の桜が咲き誇り、宮崎県内有数の桜の名所として多くの花見客で賑わいます。また、秋には紅葉が美しく、散策に最適な季節となります。

公園内には延岡城の歴史を紹介する案内板や説明板が設置されており、城の歴史を学びながら散策を楽しむことができます。

延岡城と延岡の文化

城下町の面影

延岡城の城下町は、碁盤の目状に整備された町割りが特徴です。現在も延岡市中心部には、当時の町割りの名残が見られ、歴史的な雰囲気を感じることができます。

城下町には武家屋敷や商家が立ち並んでいましたが、現在はその多くが失われています。しかし、一部には古い建物が残されており、歴史散策を楽しむことができます。

延岡の産業と旭化成

明治以降、延岡は工業都市として発展しました。特に大正12年(1923年)に旭化成(当時は旭絹織)が延岡に工場を建設してから、延岡は化学工業の町として急速に発展しました。

旭化成の創業地である延岡は、いわゆる企業城下町として繁栄し、宮崎県北部の経済の中心地となりました。現在も旭化成の主要工場が操業しており、延岡市の経済を支えています。

延岡の食文化

延岡は独特の食文化でも知られています。特に「チキン南蛮」の発祥地として有名で、市内には多くのチキン南蛮の名店があります。

また、延岡は海と山に囲まれた立地から、新鮮な海の幸と山の幸が豊富で、海鮮丼やアユ料理なども楽しむことができます。城下町ならではの郷土料理も受け継がれており、訪問者を楽しませています。

アクセスと観光情報

アクセス方法

電車でのアクセス

  • JR日豊本線「延岡駅」から徒歩約20分
  • タクシーで約5分

車でのアクセス

  • 東九州自動車道「延岡IC」から約10分
  • 駐車場:城山公園駐車場(無料)あり

バスでのアクセス

  • 延岡駅から市内循環バス「城山公園前」下車すぐ

見学情報

  • 開園時間:常時開放(公園部分)
  • 入場料:無料
  • 所要時間:約1〜2時間
  • ベストシーズン:春(桜の季節)、秋(紅葉の季節)

周辺観光スポット

今山八幡宮
延岡城の鎮守社として崇敬された神社で、延岡の総鎮守として知られています。

内藤記念館
最後の藩主家である内藤家に関する資料を展示する博物館です。

愛宕山
延岡市街を一望できる展望スポットで、夜景の名所としても知られています。

五ヶ瀬川
アユ釣りの名所として知られ、川沿いの散策も楽しめます。

行縢山(むかばきやま)
延岡市の南西に位置する山で、行縢の滝は日本の滝百選に選ばれています。

延岡城の文化財指定と評価

延岡城跡は昭和48年(1973年)に宮崎県指定史跡に指定されました。平成29年(2017年)には「続日本100名城」(No.195)に選定され、全国的な認知度が向上しています。

続日本100名城のスタンプは、延岡市役所や延岡城址の案内所などで押印することができます。城郭ファンの間では、千人殺しの石垣や良好に残された石垣群が高く評価されています。

延岡城の保存と活用

延岡市では、延岡城跡の保存と活用に積極的に取り組んでいます。石垣の修復工事や遺構の発掘調査が継続的に行われており、城郭の歴史的価値を後世に伝える努力が続けられています。

近年では、北大手門の復元に続き、他の建造物の復元計画も検討されています。また、城跡を活用したイベントや歴史講座なども開催され、市民の歴史意識の向上と観光振興に寄与しています。

延岡城は、延岡市のシンボルとして、また宮崎県を代表する歴史遺産として、今後も大切に保存・活用されていくことでしょう。

まとめ

延岡城は、江戸時代初期に高橋元種によって築かれた平山城で、宮崎県を代表する近世城郭です。慶長6年(1601年)から3年の歳月をかけて築かれ、以後明治維新まで延岡藩の政庁として機能しました。

高橋氏、有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏と、複数の大名家が治めた延岡城は、それぞれの時代に城郭の整備と城下町の発展が図られました。特に内藤氏は7代154年にわたって延岡を治め、藩政の安定と産業の振興に貢献しました。

延岡城の最大の見どころは、高さ22メートルを誇る「千人殺し」と呼ばれる高石垣です。この石垣には、特定の石を外すと全体が崩落するという伝説があり、延岡城のシンボルとして親しまれています。

現在、延岡城跡は城山公園として整備され、市民の憩いの場となっています。春には桜が咲き誇る花見の名所として、また歴史散策のスポットとして、多くの人々に愛されています。平成29年には「続日本100名城」に選定され、全国的な注目も集めています。

延岡城は、宮崎県の歴史を語る上で欠かせない重要な史跡であり、今後も保存と活用が進められていくことが期待されます。延岡を訪れる際には、ぜひこの歴史ある城跡を訪れ、その魅力を体感してください。

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