多度津陣屋(香川県)の歴史と見どころ

多度津陣屋(香川県)の歴史と見どころ
所在地 〒764-0002 香川県仲多度郡多度津町家中2−47
公式サイト https://www.jp-history.info/all-han/6941.html

多度津陣屋(香川県)の歴史と見どころ|丸亀藩支藩の海辺に築かれた陣屋跡

多度津陣屋とは

多度津陣屋(たどつじんや)は、香川県仲多度郡多度津町に所在した多度津藩の政庁です。別名「御殿」とも呼ばれ、丸亀藩の支藩として1万石を領した多度津藩が、文政10年(1827年)に築いた陣屋です。

陣屋とは、城を持たない小規模な藩が藩主の居館や藩政を行う役所として設けた施設のことで、多度津陣屋もその一つでした。特筆すべきは、瀬戸内海に面した立地を活かした海城のような構造を持っていたことです。

現在、陣屋の建物は残されていませんが、かつての家中屋敷跡や武家屋敷跡の一部が地名として残り、蓮堀跡には石碑が建てられています。多度津駅から徒歩約10分という好立地にあり、歴史散策に適した場所となっています。

多度津藩の成立と陣屋建設までの経緯

多度津藩の誕生

多度津藩が成立したのは元禄7年(1694年)のことです。丸亀藩主であった京極高豊が、庶長子(側室の子)である京極高通に1万石を分与したことにより、多度津藩が誕生しました。

丸亀藩は京極家が治める讃岐国(現在の香川県)の藩で、多度津藩はその支藩という位置づけでした。しかし、藩が成立した当初は独自の居城や陣屋を持たず、多度津藩主は丸亀城内に居住していました。これは支藩としての性格上、本藩である丸亀藩との関係を重視した結果と考えられます。

陣屋建設への道のり

多度津藩が独自の陣屋を持つまでには、133年もの歳月を要しました。初代高通から三代までの藩主は丸亀城下に居住し続けましたが、四代藩主の京極高賢の時代になって大きな転機が訪れます。

文政10年(1827年)3月、高賢は幕府に対して陣屋建設を願い出ました。当時、新たな城郭や陣屋の建設は幕府の厳しい統制下にあり、許可を得ることは容易ではありませんでした。しかし、高賢の願いは認められ、同年11月には陣屋が完成しました。

この陣屋建設により、多度津藩はようやく独自の拠点を持つことになり、藩としての体裁を整えることができたのです。

多度津陣屋の構造と規模

陣屋の配置と広さ

多度津陣屋は、現在のJR四国多度津工場を中心とした一帯に位置していました。その規模は東西約700メートル、南北約200メートルにわたる広大なもので、小規模な陣屋としては比較的大きな敷地を有していました。

陣屋の立地は非常に特徴的で、北側は瀬戸内海に面し、南側と西側は桜川という川に囲まれ、東側は堀で防御されていました。この配置は、水運の利便性と防御機能を兼ね備えた「海城」のような構造となっており、港町多度津の地理的特性を最大限に活かした設計でした。

陣屋内の施設

陣屋内には藩政を執り行うための様々な施設が配置されていました。主な施設としては以下のものがありました。

居館:藩主とその家族が居住する建物で、陣屋の中心的存在でした。

調練場:藩士たちが軍事訓練を行う場所で、武芸の鍛錬が行われました。

武具庫:刀や槍、鉄砲などの武器を保管する倉庫です。

太鼓楼:時を知らせる太鼓を打つための櫓で、陣屋内外に時刻を伝える役割を果たしました。

藩校:藩士の子弟に学問を教える教育施設で、儒学を中心とした教育が行われました。

剣術道場・射場:武芸の訓練施設で、剣術や弓術の稽古が行われました。

これらの施設は、小規模ながらも藩としての機能を十分に果たすための設備が整っていたことを示しています。

多度津陣屋の歴史的背景

京極家と多度津藩

多度津藩を治めた京極家は、近江国(現在の滋賀県)を本拠とした名門武家です。戦国時代には浅井氏に仕え、その後豊臣秀吉、徳川家康に仕えて大名として存続しました。

丸亀藩の京極家は、寛永18年(1641年)に京極高和が讃岐国丸亀に6万石で入封したことに始まります。その後、元禄7年(1694年)の分知により多度津藩が成立し、京極家の分家として幕末まで続きました。

幕末から廃藩置県まで

多度津陣屋が完成した後、多度津藩は幕末の動乱期を迎えます。幕末期の多度津藩は、本藩である丸亀藩とともに幕府側に立ち、維新の激動を経験しました。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、多度津藩は多度津県となり、その後香川県に編入されました。これにより、177年続いた多度津藩の歴史は幕を閉じ、陣屋もその役割を終えることになりました。

陣屋の建物は明治以降に取り壊され、跡地は次第に市街地化されていきました。現在では鉄道施設や住宅地となっており、往時の面影を偲ぶことは難しくなっています。

現在の多度津陣屋跡の見どころ

残存する遺構と史跡

現在の多度津陣屋跡は宅地化が進み、建物などの遺構はほとんど残されていません。しかし、わずかながら往時を偲ばせる痕跡が残されています。

家中屋敷跡:陣屋周辺には「家中」という地名が残されており、かつて藩士たちの屋敷が立ち並んでいたことを示しています。多度津町内の交差点名などにもこの名残を見ることができます。

武家屋敷跡:一部の区画には武家屋敷の配置を思わせる道路の形状が残されています。

蓮堀跡の石碑:かつて陣屋の防御施設として存在した蓮堀の跡地には、陣屋の存在を示す石碑が建てられています。大通りと家中の地名を分ける交差点付近に小さな庭園が設けられており、そこに碑が設置されています。この石碑は、多度津陣屋の歴史を後世に伝える貴重な史跡となっています。

周辺の関連史跡

多度津陣屋跡を訪れる際には、周辺の歴史的な場所も併せて巡ることをおすすめします。

道隆寺:四国八十八箇所霊場の第77番札所で、多度津の歴史ある寺院です。

金剛禅総本山少林寺:多度津町は少林寺拳法の発祥地としても知られており、総本山があります。

多度津港:かつて陣屋が面していた港で、現在も瀬戸内海の重要な港として機能しています。港町としての多度津の歴史を感じることができます。

多度津陣屋へのアクセスと見学情報

所在地とアクセス方法

所在地:香川県仲多度郡多度津町東新町周辺

電車でのアクセス

  • JR予讃線「多度津駅」から徒歩約10分
  • 多度津駅は特急列車も停車する主要駅で、高松駅から約30分、岡山駅から約1時間でアクセス可能です

車でのアクセス

  • 高松自動車道「善通寺IC」から約10分
  • 瀬戸中央自動車道「坂出IC」から約20分

駐車場:陣屋跡専用の駐車場はありませんが、多度津駅周辺に公共駐車場があります。

見学の際の注意点

多度津陣屋跡は現在住宅地や工業地帯となっており、特別な見学施設はありません。石碑や説明板を見学する際は、以下の点に注意してください。

  • 住宅地や私有地に立ち入らないようにしましょう
  • 交通量の多い道路沿いにあるため、見学時は安全に配慮してください
  • 写真撮影の際は、周囲の住民のプライバシーに配慮しましょう
  • 説明板や石碑を傷つけないよう注意してください

見学は年中無休で、いつでも可能です。ただし、遺構がほとんど残されていないため、事前に多度津町の歴史や陣屋の配置図などを調べてから訪れると、より理解が深まります。

多度津陣屋の歴史的意義

支藩陣屋としての特徴

多度津陣屋は、支藩の陣屋として興味深い特徴を持っています。成立から133年もの間、独自の拠点を持たなかったことは、本藩との関係性の強さを示しています。

一方で、文政期に陣屋建設が実現したことは、多度津藩が一定の独立性を獲得したことを意味します。この時期は、幕藩体制が成熟し、各藩の財政運営や領内統治が重要性を増していた時代でした。

港町との関係

多度津は江戸時代から瀬戸内海航路の要衝として栄えた港町でした。陣屋が海に面して築かれたことは、海運を重視した藩政の姿勢を表しています。

多度津港は金毘羅参詣の玄関口としても知られ、多くの参詣客が訪れました。藩はこの地の利を活かして経済的な発展を図り、小藩ながらも安定した藩政運営を行いました。

現代に伝える意義

多度津陣屋の遺構はわずかしか残されていませんが、その歴史は多度津町のアイデンティティの重要な一部です。小規模な支藩でありながら、独自の陣屋を築き、幕末まで存続した歴史は、地域の誇りとして受け継がれています。

近年、城郭や陣屋跡の歴史的価値が見直され、地域資源としての活用が進められています。多度津陣屋跡についても、石碑や説明板の設置により、その歴史を後世に伝える取り組みが行われています。

まとめ

多度津陣屋は、香川県多度津町に所在した多度津藩の政庁として、文政10年(1827年)に京極高賢によって築かれました。丸亀藩の支藩として1万石を領した多度津藩が、133年を経てようやく独自の拠点を得た歴史的な陣屋です。

瀬戸内海に面した海城のような構造を持ち、東西約700メートル、南北約200メートルの敷地に居館や藩校、武芸施設などが配置されていました。現在は宅地化が進み、建物の遺構は残されていませんが、家中屋敷跡や蓮堀跡の石碑などがわずかに往時を偲ばせています。

多度津駅から徒歩約10分という好立地にあり、港町として栄えた多度津の歴史を感じながら散策することができます。小規模ながらも独自の歴史を刻んだ多度津陣屋の足跡は、現代に生きる私たちに地域の歴史の重要性を伝えてくれています。

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