厨川城(岩手県)の全貌

厨川城(岩手県)の全貌
所在地 〒020-0126 岩手県盛岡市安倍館町13
公式サイト http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/cs35

厨川城(岩手県)の全貌:安倍氏から南部氏まで続いた盛岡の要衝

厨川城とは

厨川城(くりやがわじょう)は、岩手県盛岡市安倍館町(旧陸奥国岩手郡厨川村字館)に存在した日本の城です。別名として栗谷川城(くりやがわじょう)とも呼ばれ、遺跡(埋蔵文化財包蔵地)としては「安倍館遺跡(あべたていせき)」の名称で知られています。

現在の盛岡市街地の北東部、北上川と雫石川の合流点近くの丘陵上に位置していたこの城は、平泉滅亡から盛岡開府までのおよそ400年間にわたり、盛岡地域における行政拠点として重要な役割を果たしました。南部氏の家臣である工藤氏(栗谷川氏)の居城として知られ、天正20年(1592年)の一国一城令により破却されるまで、この地域の政治・軍事の中心地として機能していました。

厨川城の立地と地理的特徴

厨川城は北上川の東岸、標高約130メートルの丘陵上に築かれました。この地は北上川と雫石川が合流する地点に近く、水運と陸路の要衝として戦略的に極めて重要な位置にあります。周辺は河川による自然の防御線を持ち、城を築くには理想的な地形でした。

現在の盛岡市安倍館町周辺は住宅地となっていますが、かつては北上川の氾濫原と丘陵地帯が入り組んだ複雑な地形であり、この自然地形を最大限に活用した縄張りが展開されていたと考えられています。城の北側と西側は急峻な崖となっており、南側と東側には堀や土塁が設けられていました。

平安時代:安倍氏と厨川柵の時代

安倍氏の勢力と厨川柵

厨川城の歴史を語る上で避けて通れないのが、平安時代の俘囚の豪族である安倍氏の存在です。厨川の地には安倍氏の重要拠点である「厨川柵(くりやがわのさく)」または「嫗戸柵(うばどのさく)」が存在していたとされています。

安倍氏は奥六郡(陸奥国北部)を支配する有力豪族であり、厨川柵は衣川柵とともに安倍氏の勢力範囲最北の居館(城柵)として機能していました。この時代の厨川は、朝廷の支配が及びにくい奥羽の最前線に位置する重要な拠点でした。

前九年の役と安倍氏の滅亡

永承6年(1051年)から康平5年(1062年)にかけて、朝廷軍と安倍氏の間で前九年の役(前九年合戦)が勃発しました。源頼義・義家父子を中心とする朝廷軍は、当初苦戦を強いられましたが、出羽の清原氏の援軍を得て形勢を逆転させます。

康平5年(1062年)9月、厨川柵は朝廷軍の総攻撃を受けました。安倍氏の当主である安倍貞任は戦死し、安倍氏の勢力は壊滅します。この戦いにより、厨川柵は焼失し、安倍氏による支配は終焉を迎えました。厨川柵の正確な位置については諸説ありますが、現在の盛岡市天昌寺町付近とする説が有力です。

鎌倉時代:工藤氏の入部と支配の確立

工藤行光の岩手郡地頭就任

文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を討伐し、奥州を平定しました。頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川の地を訪れ、戦功のあった工藤行光を岩手郡地頭に任じました。これにより、工藤氏による厨川支配が始まります。

工藤行光は鎌倉幕府の御家人として、この地に移り住み「栗谷川氏(厨川氏とも)」を名乗るようになりました。工藤氏は甲斐源氏の流れを汲む武家であり、頼朝の信頼厚い御家人でした。

里館(厨川館)の時代

鎌倉時代から室町時代にかけて、工藤氏の居城は雫石川に面した里館(厨川館:現在の天昌寺付近)を拠点としていました。里館は交通の要衝に位置し、平時の居館として適していました。この時期の工藤氏は、岩手郡の地頭として地域の支配を確立し、在地領主として勢力を拡大していきます。

工藤氏は代々岩手郡の統治を担い、南部氏が陸奥に進出してくる以前から、この地域の有力武家として君臨していました。

室町時代から戦国時代:南部氏との関係

南部氏の勢力拡大

室町時代に入ると、甲斐源氏の流れを汲む南部氏が陸奥北部に勢力を拡大してきます。南部氏は糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部)を本拠地とし、次第に勢力を南下させました。

工藤氏は南部氏の勢力拡大に伴い、その傘下に入ることとなります。南部氏の家臣として、工藤氏は引き続き岩手郡の支配を任されましたが、独立した領主から南部氏の重臣へとその立場を変化させていきました。

戦国時代の厨川城築城

発掘調査により、現在の安倍館遺跡に残る厨川城の遺構は、戦国時代に築城されたものであることが判明しています。戦国時代に入ると、戦乱の激化により、より堅固で大規模な城郭が必要となりました。

このため、工藤氏は従来の里館から、より防御に優れた丘陵上の地に新たな城を築きました。これが現在「厨川城」として知られる城郭です。戦国期の厨川城は、本丸を中心に複数の曲輪を配置した中世城郭の形態を持ち、土塁や堀によって防御が固められていました。

厨川城の構造と遺構

城郭の縄張り

厨川城は丘陵の地形を巧みに利用した平山城です。本丸を最高所に配置し、その周囲に二の丸、三の丸などの曲輪が階段状に配置されていたと考えられています。現在の安倍館遺跡の発掘調査からは、複数の曲輪跡、土塁跡、堀跡などが確認されています。

本丸は東西約80メートル、南北約60メートルの規模を持ち、周囲を土塁で囲まれていました。虎口(出入口)は南側と東側に設けられ、枡形虎口の形態を持っていた可能性が指摘されています。

発掘調査で明らかになった遺構

昭和から平成にかけて実施された発掘調査により、厨川城の実態が徐々に明らかになってきました。調査では、戦国時代の陶磁器片、鉄製品、建物の礎石などが出土しています。

特に注目されるのは、中国製の青磁や白磁の破片が多数出土していることです。これは工藤氏が相当の経済力を持ち、広域的な交易ネットワークにアクセスできる立場にあったことを示しています。また、鍛冶関連の遺物も発見されており、城内で武器や農具の製作が行われていたことが分かっています。

現在残る遺構

現在、厨川城跡は住宅地となっており、明確な遺構は地表面ではほとんど確認できません。しかし、地形をよく観察すると、かつての曲輪の段差や堀の痕跡を読み取ることができます。

現地には「安倍館跡」と刻まれた石碑が建てられており、この地が歴史的に重要な場所であったことを示しています。また、周辺の地名には「館」「堀」などの城郭関連の地名が残っており、かつての城の範囲を推定する手がかりとなっています。

天正20年の破却と廃城

豊臣秀吉の一国一城令

天正20年(1592年)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、全国の大名に対して一国一城令を発令しました。これは各国において大名の居城以外の城を破却することを命じたもので、戦国時代に乱立した支城や家臣の居城を廃止することで、大名の軍事力を制限し、統制を強化する目的がありました。

南部氏の領国においても、この命令が適用され、南部氏の本城である三戸城以外の城は破却されることとなりました。厨川城も例外ではなく、天正20年に破却され、廃城となりました。

工藤氏のその後

厨川城の破却後、工藤氏は南部氏の家臣として存続しました。居城を失った工藤氏は、南部氏の城下に居住するか、あるいは給地において陣屋形式の居館を構えたと考えられています。

江戸時代に入り、南部氏が盛岡城を築いて盛岡藩が成立すると、工藤氏は盛岡藩士として藩政に参画しました。厨川の地は盛岡城下の近郊として発展し、かつての城跡は農地や宅地へと変貌していきました。

盛岡地域における厨川城の歴史的意義

400年間の地域拠点

厨川城(およびその前身である厨川柵)は、平泉滅亡(1189年)から盛岡開府(1598年頃)までの約400年間、盛岡地域における政治・行政の中心地でした。この長期にわたる継続性は、この地が地理的・戦略的に優れた位置にあったことを示しています。

平安時代の安倍氏、鎌倉時代から戦国時代の工藤氏と、支配者は変わりましたが、厨川の地が一貫して地域の要衝であり続けたことは、盛岡の歴史を考える上で極めて重要です。

盛岡城築城への影響

南部氏が盛岡城を築く際、厨川の地も候補地の一つとして検討された可能性があります。最終的には不来方(こずかた)の地が選ばれ、現在の盛岡城が築かれましたが、厨川での長年の統治経験が、盛岡城下町の形成に影響を与えたことは間違いありません。

工藤氏が培った地域支配のノウハウや、厨川を中心とした交通網・経済圏は、そのまま盛岡藩の基盤となりました。その意味で、厨川城は盛岡の前史として位置づけることができます。

厨川城と安倍氏伝承

安倍氏の記憶と顕彰

現在も厨川の地には、安倍氏に関する伝承が数多く残されています。「安倍館」という遺跡名自体が、この地と安倍氏の深い結びつきを示しています。前九年の役で滅亡した安倍氏ですが、地域の人々の記憶の中では英雄的な存在として語り継がれてきました。

安倍貞任をはじめとする安倍氏一族の墓とされる場所も周辺に複数存在し、地域のアイデンティティの一部となっています。これらの伝承は、必ずしも歴史的事実と一致するものではありませんが、地域の歴史意識を形成する重要な要素です。

厨川柵と厨川城の関係

厨川柵と厨川城は、時代も性格も異なる別個の施設ですが、同じ「厨川」という地名を冠することから、しばしば混同されます。厨川柵は平安時代の城柵(居館)であり、厨川城は戦国時代の城郭です。両者の間には約500年の時間的隔たりがあります。

ただし、両者が同一の地域に存在したことは確かであり、厨川という地が古代から中世を通じて一貫して重要な拠点であったことを示しています。現在の安倍館遺跡が厨川柵の跡地である可能性も完全には否定できませんが、考古学的な確証は得られていません。

厨川城跡の現状と保存

現在の厨川城跡

現在、厨川城跡の大部分は住宅地となっており、城郭遺構の多くは失われています。安倍館遺跡として一部が保存されていますが、本格的な史跡公園としての整備は行われていません。

地元の歴史愛好家や研究者による調査・研究は継続されており、厨川城の歴史的価値についての認識は徐々に高まっています。しかし、都市化の進展により、今後さらなる遺構の消失が懸念されています。

保存と活用への課題

厨川城跡の保存と活用には、いくつかの課題があります。第一に、遺跡の範囲が広範囲にわたり、その多くが私有地であることです。第二に、地表面に明確な遺構が残っていないため、一般の人々にとって城跡としての認識が薄いことです。

今後、発掘調査の成果を踏まえた適切な保存計画の策定、説明板や案内板の設置、デジタル技術を活用した遺構の可視化などが求められます。盛岡の歴史を語る上で欠かせない厨川城の価値を、次世代に継承していくための取り組みが必要です。

厨川城へのアクセスと見学情報

アクセス方法

厨川城跡(安倍館遺跡)へは、JR盛岡駅から車で約15分、または岩手県交通バス「安倍館」バス停下車徒歩約5分でアクセスできます。東北自動車道盛岡インターチェンジからは車で約20分の距離です。

城跡周辺には専用の駐車場はありませんが、路上駐車が可能なスペースがあります。ただし、住宅地内であるため、近隣住民の迷惑にならないよう配慮が必要です。

見学のポイント

厨川城跡を訪れる際は、まず「安倍館跡」の石碑を目指すとよいでしょう。この石碑周辺が城の中心部であったと考えられています。地形の起伏を観察することで、かつての曲輪の配置を想像することができます。

周辺を散策する際は、地名に注目してください。「館」「堀」などの地名が残る場所は、かつての城郭施設があった可能性が高い場所です。また、北上川方面への眺望も楽しめます。かつての城主たちもこの景色を眺めていたことでしょう。

まとめ:厨川城が語る盛岡の歴史

厨川城は、平安時代の安倍氏の厨川柵から、鎌倉・室町時代の工藤氏の居城を経て、天正20年(1592年)の破却に至るまで、盛岡地域の歴史の中心にあり続けました。この城の歴史は、そのまま盛岡という地域の形成史でもあります。

前九年の役での安倍氏の滅亡、鎌倉幕府による東北支配の確立、南部氏の勢力拡大、そして豊臣政権による全国統一という、日本史の大きな転換点が、すべて厨川の地に刻まれています。

現在、厨川城の遺構は住宅地の下に眠り、その姿を直接見ることはできません。しかし、この地に立ち、北上川の流れと周囲の地形を眺めるとき、私たちは数百年にわたる歴史の重みを感じることができます。厨川城は、盛岡の歴史を理解するための重要な鍵であり続けているのです。

地図

Google マップで開く

Google マップで開く

近隣の城郭