南部陣屋(北海道)の歴史と遺構を

南部陣屋(北海道)の歴史と遺構を
所在地 〒050-0067 北海道室蘭市陣屋町2丁目4−40

南部陣屋(北海道)の歴史と遺構を徹底解説|函館・室蘭・長万部・砂原の4つの陣屋跡

南部陣屋とは何か

南部陣屋(なんぶじんや)は、江戸時代末期に南部藩(現在の岩手県盛岡藩)が幕府の命により、北海道(当時の蝦夷地)の警備と防衛のために築いた軍事施設です。幕末の激動期、ロシアをはじめとする外国勢力の北方進出に対する防衛体制の強化として、複数の陣屋が北海道各地に設置されました。

南部陣屋は単一の施設ではなく、函館(箱館)に置かれた元陣屋を中心に、室蘭(モロラン)、長万部(ヲシャマンベ)、砂原(さわら)の3箇所に出張陣屋が設けられた、合計4箇所の陣屋群を指します。これらは東蝦夷地における南部藩の警備拠点として機能し、北海道の近世史において重要な役割を果たしました。

現在、室蘭、長万部、砂原の3箇所の陣屋跡は「東蝦夷地南部藩陣屋跡」として国の史跡に指定されており、北海道内でも貴重な近世城郭遺構として保存されています。

南部陣屋設置の歴史的背景

蝦夷地をめぐる情勢変化

18世紀後半から19世紀にかけて、北方からのロシアの南下政策が活発化し、日本の北辺防備が急務となりました。1792年(寛政4年)にはロシア使節ラクスマンが根室に来航し、1804年(文化元年)にはレザノフが長崎に来航するなど、ロシアとの接触が増加していきました。

幕府はこうした情勢を受けて、それまで松前藩に任せていた蝦夷地の統治方針を転換し、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を直轄領としました。この際、幕府は津軽藩と南部藩に蝦夷地警備を命じ、南部藩は箱館周辺の警備を担当することになりました。

第一次南部陣屋の設置(1799-1821年)

1799年(寛政11年)、南部藩は幕府の命により箱館に最初の陣屋を設置しました。この時期の陣屋は、函館山山麓の南部坂上(現在の函館山ロープウェイ山麓駅専用駐車場付近)に置かれました。南部坂という地名は、この南部陣屋が坂上に設置されたことに由来しています。

当初の陣屋敷地は約16,200平方メートルでしたが、後に約19,800平方メートル増設され、36,000平方メートル以上の規模となりました。この陣屋には南部藩士が常駐し、箱館港の警備と周辺海域の監視にあたりました。

しかし、1821年(文政4年)に幕府が蝦夷地を松前藩に返還したことに伴い、南部藩の警備任務は解かれ、第一次南部陣屋は廃止されました。

第二次南部陣屋の設置(1855-1868年)

1853年(嘉永6年)のペリー来航以降、日本周辺の国際情勢はさらに緊迫化しました。1854年(安政元年)の日露和親条約締結後も、ロシアの北方進出への警戒は続き、幕府は再び蝦夷地警備の強化を決定しました。

1855年(安政2年)4月、幕府は仙台藩、秋田藩、南部藩、津軽藩、松前藩の5藩に蝦夷地警衛の分担を命じました。南部藩は箱館表出崎(でさき)の警衛を主として、恵山岬から東蝦夷地幌別(現在の登別市幌別)までの広大な海岸線を警備担当区域としました。

この第二次警備体制において、南部藩は函館の谷地頭北方に元陣屋を設置し、さらに警備区域の広さに対応するため、1856年(安政3年)に室蘭(モロラン)、長万部(ヲシャマンベ)、砂原(さわら)の3箇所に出張陣屋を築きました。

この体制は1868年(明治元年)の戊辰戦争まで続きましたが、戊辰戦争が奥羽地方に波及すると、旧幕府方に与した南部藩は各陣屋を焼き払い、盛岡へ引き揚げました。

函館元陣屋の詳細

所在地と地理的特徴

函館元陣屋は、北海道函館市元町に設置されました。具体的には函館山山麓の南部坂上に位置し、現在の函館山ロープウェイ山麓駅専用駐車場のあたりがその跡地とされています。

函館山の麓という立地は、箱館港を見下ろす戦略的要地であり、港の監視と防衛に適した場所でした。海からの攻撃に対する防御と、港への出入りを監視する機能を兼ね備えた配置といえます。

陣屋の規模と構造

第一次陣屋の当初の敷地は約16,200平方メートルでしたが、後に拡張されて36,000平方メートル以上の規模となりました。これは東京ドームの約4分の3に相当する広さです。

陣屋内には、藩士の宿舎、武器庫、食料貯蔵庫、訓練場などが配置されていたと考えられます。第二次陣屋(1855年以降)では、谷地頭北方に本陣屋が置かれ、より組織的な警備体制が敷かれました。

現在の状況

函館の元陣屋跡は、現在では住宅地やロープウェイ関連施設となっており、陣屋の遺構はほとんど残っていません。しかし、南部坂という地名が今も残り、この地に南部陣屋が存在した歴史を伝えています。

函館山周辺を訪れる観光客は多いものの、南部陣屋の存在を知る人は少なく、地域の隠れた歴史遺産といえるでしょう。

モロラン陣屋跡(室蘭市)

陣屋の設置経緯

1856年(安政3年)、南部藩は函館元陣屋の出張陣屋として、現在の室蘭市陣屋町にモロラン陣屋を築きました。室蘭は太平洋に面した天然の良港であり、東蝦夷地の海岸警備において重要な拠点でした。

南部藩の警備担当区域は恵山岬から幌別までの広範囲に及んだため、函館から離れた地域にも常駐拠点が必要でした。モロラン陣屋はこの東部警備の中核として機能しました。

陣屋の構造と規模

モロラン陣屋は方形二重土塁という特徴的な構造を持っていました。これは内側と外側に二重の土塁を巡らせた防御施設で、近世末期の城郭技術を示す貴重な遺構です。

陣屋には常時約100名の南部藩士が駐屯していました。これは出張陣屋としてはかなり大規模な人員配置で、この地の戦略的重要性を物語っています。

陣屋内には、藩士の居住施設、武器庫、訓練場、台場勤番所などが配置されていました。台場勤番所は海岸の砲台を管理する施設で、海からの脅威に直接対応する最前線でした。

国指定史跡としての価値

モロラン陣屋跡は、1934年(昭和9年)5月1日に「東蝦夷地南部藩陣屋跡」の一部として国の史跡に指定されました。室蘭市内では唯一の国指定史跡であり、近世末の城郭跡として北海道内でも指折りの重要な史跡です。

土塁の一部が良好な状態で保存されており、幕末期の陣屋の構造を知る上で貴重な資料となっています。方形二重土塁という構造は、西洋式築城術の影響も受けた当時の最新の防御技術を示しています。

アクセスと見学情報

モロラン陣屋跡は室蘭市陣屋町に位置し、JR室蘭本線の東室蘭駅から車で約10分、または路線バスでアクセスできます。史跡公園として整備されており、土塁の遺構や説明板を見学することができます。

周辺には陣屋町という地名が残り、歴史の面影を感じることができます。春から秋にかけては緑豊かな公園として市民の憩いの場ともなっています。

ヲシャマンベ陣屋跡(長万部町)

陣屋の設置と役割

ヲシャマンベ陣屋は、1856年(安政3年)に現在の長万部町に設置された南部藩の出張陣屋です。長万部は内浦湾(噴火湾)に面し、函館と室蘭の中間に位置する交通の要衝でした。

南部藩の警備区域の中央部に位置するこの陣屋は、函館元陣屋と室蘭陣屋を結ぶ連絡拠点としても機能しました。海岸線の監視と、内陸部への連絡路の確保という二重の役割を担っていました。

陣屋の規模と駐屯兵力

ヲシャマンベ陣屋にも南部藩士が常駐し、海岸警備と周辺地域の監視にあたりました。モロラン陣屋ほどの大規模な駐屯地ではありませんでしたが、地域防衛の重要拠点として機能しました。

陣屋の構造は他の出張陣屋と同様、土塁と堀で囲まれた方形の施設でした。内部には兵舎、武器庫、食料庫などが配置されていたと考えられます。

国指定史跡としての保存状況

ヲシャマンベ陣屋跡も「東蝦夷地南部藩陣屋跡」の一部として国の史跡に指定されています。1975年(昭和50年)5月23日に長万部町が管理団体として指定されました。

現在、遺構の一部が保存されており、説明板が設置されています。モロラン陣屋跡ほど顕著な遺構は残っていませんが、地域の歴史を伝える貴重な史跡として保護されています。

アクセス情報

ヲシャマンベ陣屋跡は長万部町市街地に位置し、JR函館本線の長万部駅から徒歩圏内です。国道5号線沿いにあり、車でのアクセスも容易です。

砂原陣屋跡(森町)

陣屋の設置背景

砂原陣屋は、現在の北海道茅部郡森町砂原地区に設置された南部藩の出張陣屋(分屯所)です。砂原は内浦湾の東岸に位置し、駒ヶ岳の南麓に広がる地域です。

安政3年(1856年)には砂原の四軒町に分屯所が置かれ、約50名の兵隊が駐屯していました。この陣屋は南部藩警備区域の西端を守る拠点として機能しました。

陣屋の特徴

砂原陣屋は、他の出張陣屋と比較すると規模は小さめでしたが、内浦湾沿岸の重要な監視拠点でした。駒ヶ岳という活火山の麓という地理的特性もあり、自然災害への対応も求められる困難な任務でした。

約50名という兵力は、分屯所としては標準的な規模で、日常的な海岸警備と緊急時の対応に必要な人員が配置されていました。

史跡としての現状

砂原陣屋跡も「東蝦夷地南部藩陣屋跡」として国の史跡に指定されています。森町が管理団体となり、史跡の保存に努めています。

現在の砂原地区には陣屋の建造物は残っていませんが、説明板などが設置され、地域の歴史遺産として保存されています。地域住民の間では、南部藩士が駐屯していた歴史が語り継がれています。

訪問情報

砂原陣屋跡は森町砂原地区に位置し、JR函館本線の渡島砂原駅が最寄り駅です。国道278号線沿いの地域で、車でのアクセスが便利です。

南部陣屋の軍事的特徴と防御システム

方形二重土塁の構造

南部藩の出張陣屋、特にモロラン陣屋で顕著な方形二重土塁は、幕末期の城郭技術の特徴を示しています。二重の土塁は、外側の土塁が破られても内側の土塁で防御を継続できる多重防御の思想に基づいています。

土塁の間には堀が設けられ、攻撃者の進入を困難にする構造となっていました。これは西洋式の稜堡式築城術の影響も受けた、当時としては先進的な防御システムでした。

台場との連携

陣屋には台場勤番所が併設されており、海岸に設置された砲台(台場)と連携した防御体制が構築されていました。台場には大砲が配置され、海からの攻撃に対する火力防御を担当しました。

陣屋は台場の後方支援基地として機能し、弾薬の補給、砲手の休息、予備兵力の待機などの役割を果たしました。この陣屋・台場システムは、幕末の沿岸防備の標準的な形態でした。

警備体制と日常業務

各陣屋に駐屯した南部藩士は、交代制で海岸の監視、台場の警備、巡回などの任務にあたりました。特に外国船の来航が予想される時期には、警戒レベルが引き上げられました。

日常的には、武術訓練、大砲の操作訓練、緊急時の対応訓練などが実施されました。また、地域住民との関係構築、情報収集、施設の維持管理なども重要な業務でした。

南部藩士の蝦夷地での生活

駐屯生活の実態

南部藩士たちは、本国の盛岡から遠く離れた蝦夷地で、厳しい駐屯生活を送りました。特に冬季の寒さは盛岡以上に厳しく、暖房や食料の確保が大きな課題でした。

藩士たちは交代制で蝦夷地に派遣され、通常は数ヶ月から1年程度の任期で勤務しました。家族を伴わない単身赴任が多く、故郷を離れた生活は精神的にも肉体的にも過酷でした。

食料と物資の補給

陣屋での生活に必要な食料や物資は、一部は地元で調達されましたが、多くは本国の盛岡や函館から海路で運ばれました。特に冬季には海が荒れて補給が困難になることもあり、十分な備蓄が必要でした。

米、味噌、塩、干物などの保存食が主な食料でした。地元の漁業や農業から新鮮な食材を調達することもありましたが、限られた予算の中での生活は質素なものでした。

地域住民との交流

南部藩士たちは、地域のアイヌ民族や和人住民との交流も行いました。警備任務を遂行する上で、地域の情報を得ることは重要であり、住民との良好な関係が求められました。

一方で、武装した軍事組織の駐屯は地域社会に緊張をもたらす側面もありました。藩士と地域住民の間には、文化的な違いや経済的な利害関係など、様々な摩擦も存在したと考えられます。

戊辰戦争と南部陣屋の終焉

奥羽越列藩同盟への参加

1868年(明治元年)、戊辰戦争が勃発すると、南部藩は奥羽越列藩同盟に参加し、旧幕府方として新政府軍と戦うことになりました。この決定は、蝦夷地に駐屯していた南部藩士たちの運命を大きく変えることになります。

戊辰戦争が奥羽地方に波及すると、南部藩は本国防衛のため、蝦夷地の各陣屋から藩士を引き揚げる決定をしました。

陣屋の焼却と撤退

1868年、南部藩は函館元陣屋、モロラン陣屋、ヲシャマンベ陣屋、砂原陣屋のすべてを焼き払い、盛岡へ撤退しました。これは、新政府軍や敵対勢力に陣屋を利用されることを防ぐための措置でした。

モロラン陣屋では、藩士たちが自ら築いた陣屋に火を放ち、武器や物資を持って撤退しました。約10年間にわたって東蝦夷地の警備拠点として機能した陣屋は、こうして灰燼に帰しました。

明治維新後の南部藩

戊辰戦争後、南部藩は新政府に降伏し、藩主は謹慎処分を受けました。しかし、南部藩は完全に取り潰されることはなく、盛岡藩として存続し、後に盛岡県、岩手県となりました。

蝦夷地(北海道)は明治政府の直轄地となり、開拓使が設置されて本格的な開拓が始まりました。南部陣屋の跡地も、新たな時代の中で民間に払い下げられたり、公共用地として利用されたりしました。

南部陣屋跡の文化財としての価値

国指定史跡としての意義

「東蝦夷地南部藩陣屋跡」(モロラン陣屋跡、ヲシャマンベ陣屋跡、砂原陣屋跡)は、1934年(昭和9年)5月1日に国の史跡に指定されました。これは北海道における近世城郭遺構として、極めて重要な文化財であることを示しています。

幕末期の北方防衛体制を具体的に示す遺構は全国的にも少なく、南部陣屋跡は当時の国際情勢と日本の対応を知る上で貴重な歴史資料です。

近世城郭史における位置づけ

南部陣屋は、伝統的な日本の城郭技術と、西洋式の築城術が融合した過渡期の城郭として、城郭史上重要な位置を占めています。方形二重土塁という構造は、稜堡式築城術の影響を受けつつ、日本の地形や戦術に適応させた独自の発展を示しています。

また、陣屋という形態は、江戸時代の大名の出先機関として全国各地に設置されましたが、北海道における陣屋は特に軍事的性格が強く、防御施設としての機能が重視されました。

北海道史における意義

南部陣屋は、北海道が本格的に日本の統治体制に組み込まれていく過程を示す重要な史跡です。江戸時代の蝦夷地は、松前藩の支配下にありながらも、本州とは異なる独自の社会が形成されていました。

幕末期の諸藩による警備体制は、明治維新後の開拓使による本格的開拓の前段階として、北海道史の重要な転換点を示しています。南部陣屋はその象徴的な遺構といえます。

現代における南部陣屋跡の保存と活用

史跡の保存状況

現在、モロラン陣屋跡は室蘭市が、ヲシャマンベ陣屋跡とその周辺は長万部町が、砂原陣屋跡は森町が、それぞれ管理団体として史跡の保存にあたっています。

モロラン陣屋跡では土塁の一部が良好に保存されており、史跡公園として整備されています。説明板や案内板が設置され、訪問者が歴史を学べるようになっています。

ヲシャマンベ陣屋跡と砂原陣屋跡は、建造物の遺構はほとんど残っていませんが、史跡としての指定を受け、開発から保護されています。

教育・観光資源としての活用

各陣屋跡は、地域の歴史教育の教材として活用されています。地元の小中学校では、郷土史学習の一環として南部陣屋の歴史を学び、実際に史跡を訪問する活動が行われています。

観光資源としても、歴史に興味を持つ観光客や城郭ファンが訪れる場所となっています。特にモロラン陣屋跡は、室蘭市の歴史観光スポットの一つとして紹介されています。

今後の課題と展望

南部陣屋跡の保存と活用には、いくつかの課題があります。第一に、遺構の風化や劣化を防ぐための継続的な保存管理が必要です。特に土塁などの土構造物は、雨水による浸食や植生の影響を受けやすく、定期的なメンテナンスが求められます。

第二に、より多くの人々に南部陣屋の歴史的価値を知ってもらうための情報発信が重要です。デジタル技術を活用した復元CGの制作や、VR・ARを使った体験型展示など、新しい手法での歴史伝承が期待されます。

第三に、函館の元陣屋跡については、遺構がほとんど残っていないため、記念碑の設置や説明板の充実など、歴史を伝える工夫が必要です。

南部陣屋と他の蝦夷地警備施設

他藩の陣屋との比較

1855年の幕府の命により、南部藩以外にも仙台藩、秋田藩、津軽藩、松前藩が蝦夷地警備を担当しました。各藩はそれぞれの担当区域に陣屋や台場を設置しました。

仙台藩は白老(現在の白老町)に元陣屋を置き、複数の出張陣屋を設置しました。津軽藩は宗谷(現在の稚内市)方面を担当し、秋田藩は能代方面から派遣されました。

これらの陣屋群は、それぞれ独自の構造と規模を持ちながらも、共通して方形の土塁と堀で囲まれた防御施設という特徴を持っていました。南部陣屋の方形二重土塁は、その中でも特に防御性を重視した構造でした。

松前藩の役割

松前藩は江戸時代を通じて蝦夷地統治の中心的役割を担ってきましたが、1799年の幕府直轄化により一時その権限を失いました。1821年に復領した後も、1855年には再び幕府の蝦夷地警備体制に組み込まれました。

松前藩は長年の蝦夷地統治の経験を持ち、アイヌ民族との交易や外交に精通していました。他藩の陣屋警備においても、松前藩の知識と経験が活用されました。

箱館奉行所との関係

1854年、幕府は箱館に奉行所を設置し、蝦夷地統治の中心機関としました。箱館奉行所は各藩の陣屋を統括し、全体的な警備計画を立案・実施しました。

南部藩をはじめとする各藩の陣屋は、箱館奉行所の指揮下で活動し、定期的に警備状況を報告しました。緊急時には奉行所から各陣屋に指示が伝達され、連携した対応が取られました。

南部陣屋が遺した地名と伝承

南部坂(函館市)

函館市の南部坂は、函館山山麓に位置する坂道で、南部陣屋がこの坂の上に設置されたことに由来する地名です。現在も函館の代表的な坂の一つとして知られ、観光客も多く訪れます。

南部坂からは函館港や市街地を一望でき、かつて南部藩士たちがこの地から海を監視していた様子を想像することができます。

陣屋町(室蘭市)

室蘭市の陣屋町は、モロラン陣屋が設置されたことに由来する地名です。現在も町名として残り、地域のアイデンティティの一部となっています。

陣屋町には史跡公園があり、地域住民の憩いの場となっています。町内会などでは、南部陣屋の歴史を語り継ぐ活動も行われています。

地域に残る伝承

各陣屋が設置された地域には、南部藩士に関する様々な伝承が残っています。藩士たちが地域住民と交流した話、厳しい冬を乗り越えた話、故郷を想って詠んだ和歌など、人間味あふれる逸話が語り継がれています。

また、陣屋から引き揚げる際に地域住民に別れを告げた話や、戊辰戦争で戦死した藩士を悼む話なども伝えられており、歴史の重みを感じさせます。

まとめ:南部陣屋の歴史的意義

南部陣屋は、幕末期の日本が直面した国際的危機に対応するため、北海道各地に設置された軍事施設でした。函館元陣屋を中心に、モロラン、ヲシャマンベ、砂原の3箇所に出張陣屋が築かれ、約10年間にわたって東蝦夷地の警備にあたりました。

これらの陣屋は、単なる軍事施設としてだけでなく、北海道開拓の前史として、また日本の近代化過程における北方政策の一環として、重要な歴史的意義を持っています。

現在、モロラン、ヲシャマンベ、砂原の3箇所の陣屋跡は国の史跡として保存され、北海道の貴重な文化遺産となっています。これらの史跡を訪れることで、幕末の激動期に北の大地で任務を果たした南部藩士たちの姿を偲ぶことができます。

南部陣屋の歴史は、地域の誇りとして語り継がれるべき物語であり、日本の近世から近代への転換期を理解する上で欠かせない歴史遺産なのです。

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