二条古城

所在地 〒602-8029 京都府京都市上京区武衛陣町221 室町館
公式サイト https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka012.html

二条古城:織田信長が築いた幻の城郭と足利義昭の居城の全貌

二条古城とは

二条古城(にじょうこじょう)は、京都府京都市上京区に存在した戦国時代の城郭です。現在世界遺産として知られる徳川家康の二条城とは全く別の城で、混同を避けるため「旧二条城」「二条古城」と呼ばれています。この城は織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭のために築城したもので、わずか約70日という驚異的な短期間で完成させたことで知られています。

現在の京都御苑の西側、平安女学院大学京都キャンパス付近に位置していたとされ、北は出水通、南は丸太町通付近、西は新町通付近、東は烏丸通から東洞院通付近までの広大な範囲を占めていました。残念ながら現在は遺構がほとんど残っておらず、平安女学院大学の敷地内に「旧二條城跡」と刻まれた石碑が建てられているのみです。

二条古城の歴史

築城の経緯と背景

永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて京都に入洛を果たしました。義昭は室町幕府第15代将軍として就任し、当初は本圀寺(ほんこくじ)を仮の御所としていました。しかし、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が突如として京都に侵入し、本圀寺を取り囲む事件が発生します。

この襲撃事件では、佐久間信盛をはじめとする信長配下の部将たちの奮闘により三好勢を撃退することができましたが、この事件を契機として、将軍の居城としてより堅固な城郭が必要であることが明確になりました。信長は即座に新たな将軍の居城建設を決断します。

驚異的な築城速度

永禄12年(1569年)2月、織田信長は自ら普請総奉行として現地で陣頭指揮をとり、二条古城の築城を開始しました。この築城工事は約70日という驚異的な短期間で完成したとされています。

工期を短縮するため、信長は大胆な手法を採用しました。まず、本圀寺から多くの建物を移築し、調度品なども運び込みました。本圀寺とその宗徒にとっては、まさに「とんだとばっちり」だったと記録されています。

さらに、石垣の構築にあたっては、公家屋敷や寺社から墓石、石仏、五輪塔、石灯籠、庭石などを強制的に徴収して利用しました。このような「転用石」の使用は、当時の緊急性と信長の実利主義的な性格を物語っています。

足利義昭時代の二条古城

完成した二条古城は「武家御所」「武家御城」「公方様の御城」「二条武衛陣の御構」などと呼ばれました。「二条城」という呼称は実は江戸時代になってから用いられるようになったもので、当時はこのような名称では呼ばれていませんでした。

足利義昭はこの城を居城として、室町幕府の再興を目指しました。しかし、信長との関係は次第に悪化していきます。信長は義昭を「殿中御掟」などで制約し、義昭の権限を制限しようとしました。義昭はこれに反発し、信長包囲網の形成を図りますが、最終的には信長との対立に敗れます。

元亀4年(1573年)、信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は事実上滅亡します。義昭が畿内から追放されると、二条古城に残った天主や門は解体され、築城中の安土城に転用されました。

信長の二条御所(二条御新造)への変遷

足利義昭追放後、二条古城の跡地周辺には新たな歴史が刻まれます。織田信長は京都滞在中の宿所として、別の場所に新たな城を築きました。これが「二条御新造」または「二条新御所」と呼ばれる城です。

もともとは公家の二条家の邸宅でしたが、信長が庭の眺望を気に入り、二条邸を譲り受けて、京都所司代の村井貞勝に命じて改修させました。天正7年(1579年)には、この城を皇太子・誠仁親王に献上しています。

本能寺の変と織田信忠の籠城

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発します。明智光秀の謀反により本能寺に宿泊していた織田信長が襲撃されたとき、信長の嫡男・織田信忠は二条御所(二条御新造)に滞在していました。

信長の死を知った信忠は、この二条御所に籠城して明智軍と戦いますが、最終的には自刃して果てます。この「本能寺の変」における二条城での戦いは、しばしば「二条古城」での出来事と混同されますが、実際には信長が皇太子に献上した「二条御新造」での出来事です。

このように、「二条城」という名称には複数の異なる城郭が含まれており、歴史的な混同が多く見られます。

二条古城の構造と特徴

城郭の規模と配置

二条古城は、室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城(二条御所武衛陣の御構え)があった場所を中心に築かれました。その範囲は東西約200メートル、南北約400メートルに及ぶ広大なものでした。

城郭は平城として築かれ、堀と石垣で囲まれた本格的な城郭造りの居館でした。天主も存在したとされ、後に安土城に移築されたことが記録に残っています。

防御施設

短期間での築城でありながら、二条古城は将軍の居城にふさわしい防御施設を備えていました。石垣は転用石を多用しながらも堅固に構築され、堀も掘削されました。

城郭の四方には門が設けられ、特に大手門は立派な構えを持っていたとされています。これらの門も後に安土城に移築されたと考えられています。

建築様式

本圀寺から移築された建物を中心に、御殿や諸施設が配置されました。室町時代の公家文化と武家文化が融合した建築様式であったと推測されます。

天主の存在は、この時期の城郭としては先進的であり、信長の城郭建築思想が反映されていたと考えられます。安土城に移築された天主は、安土城天主の原型となった可能性も指摘されています。

二条古城と他の「二条城」との違い

足利義昭の二条古城(旧二条城)

永禄12年(1569年)に信長が義昭のために築城した城で、現在の平安女学院大学付近に位置していました。本記事で主に扱っているのがこの城です。

信長の二条御新造(二条新御所)

もともと二条家の邸宅を改修したもので、二条古城とは異なる場所にありました。本能寺の変の際に織田信忠が籠城したのはこちらの城です。天正7年(1579年)に誠仁親王に献上されました。

徳川家康の二条城

慶長8年(1603年)に徳川家康が築城した城で、現在世界遺産として残っているのがこの城です。場所も構造も前述の二つの城とは全く異なります。

この三つの城は、いずれも「二条城」と呼ばれることがあるため、歴史的な混同が非常に多く見られます。現地の石碑も「旧二条城」と表記することで、徳川氏の二条城との区別を明確にしています。

二条古城の遺構と現状

現存する遺構

残念ながら、二条古城の遺構はほとんど現存していません。城は元亀4年(1573年)に解体され、主要な建築物は安土城に移築されました。その後、跡地は市街地化が進み、現在は住宅地や学校施設となっています。

唯一、平安女学院大学の敷地内に「旧二條城跡」と刻まれた石碑が建てられており、かつてここに二条古城が存在したことを示しています。この石碑は、二条古城の歴史を今に伝える貴重な史跡となっています。

移築された石垣

二条古城で使用された転用石の一部は、その後の歴史の中で再び移築されたものもあると考えられています。京都市内の寺社や城郭跡で発見される転用石の中には、二条古城由来のものが含まれている可能性があります。

発掘調査

平安女学院大学の敷地内や周辺では、過去に発掘調査が行われたことがあり、石垣の一部や堀の痕跡などが確認されています。これらの調査により、二条古城の規模や構造について、少しずつ明らかになってきています。

二条古城へのアクセスと訪問ガイド

所在地

京都府京都市上京区(現在の平安女学院大学京都キャンパス付近)

交通アクセス

電車でのアクセス:

  • 京都市営地下鉄烏丸線「丸太町駅」から徒歩約5分
  • 京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」から徒歩約10分

バスでのアクセス:

  • 京都市営バス「烏丸丸太町」停留所下車、徒歩約3分
  • 京都市営バス「烏丸出水」停留所下車、徒歩約5分

見学のポイント

平安女学院大学は教育施設のため、敷地内への立ち入りには制限があります。石碑は大学の敷地内にあるため、見学の際は大学の規則を守り、授業や学生の活動に配慮する必要があります。

石碑は烏丸通沿いから確認できる場合もありますが、詳細に見学したい場合は、事前に大学に問い合わせることをお勧めします。

周辺の関連史跡

京都御苑:
徒歩圏内にあり、かつての公家屋敷跡や御所を見学できます。二条古城の石垣に転用された石材が元々あった場所も含まれています。

妙顕寺城:
足利義昭が二条古城の前に一時的に滞在した場所で、徒歩約15分の距離にあります。

本能寺:
現在の本能寺は移転後の場所ですが、本能寺の変の歴史を知る上で重要な史跡です。徒歩約20分。

徳川家康の二条城:
現在の世界遺産・二条城は、徒歩約15分の距離にあります。二条古城との違いを実感できます。

二条古城の歴史的意義

室町幕府終焉の舞台

二条古城は、室町幕府の最後の将軍・足利義昭の居城として、室町幕府終焉の歴史を見届けた城です。信長と義昭の対立、そして室町幕府の滅亡という日本史の重要な転換点の舞台となりました。

織田信長の築城技術

約70日という短期間での築城は、信長の組織力と動員力、そして実利主義的な築城手法を示す好例です。転用石の大規模な使用や建物の移築など、後の安土城築城にもつながる技術や思想が見られます。

戦国時代の京都

二条古城の歴史は、戦国時代の京都がいかに政治的・軍事的に重要な場所であったかを物語っています。将軍の居城が襲撃される危険性、そのための城郭化の必要性など、当時の京都の緊迫した状況を示しています。

二条古城にまつわる逸話

本圀寺からの強制移築

築城工期を短縮するため、本圀寺から多くの建物が移築されました。本圀寺は日蓮宗の重要寺院であり、この強制移築は寺院側に大きな負担を強いるものでした。信長の強権的な手法を示すエピソードとして知られています。

転用石の強制徴収

石垣構築のため、公家屋敷や寺社から墓石や石仏まで強制的に徴収されました。このような「転用石」の使用は、信長の実利主義と、当時の緊急性を物語っています。宗教的な遺物までも城郭建設に利用する姿勢は、信長の革新的かつ強権的な性格を象徴しています。

安土城への移築

二条古城の天主や門が安土城に移築されたという事実は、安土城の築城過程を理解する上で重要です。安土城天主の原型が二条古城にあった可能性も指摘されており、日本の城郭建築史における二条古城の位置づけを示しています。

二条古城と戦国時代の城郭

平城としての特徴

二条古城は典型的な平城であり、山城が主流だった戦国時代において、京都という平地に築かれた本格的な城郭として重要な位置を占めます。堀と石垣による防御、天主の存在など、後の近世城郭につながる要素を持っていました。

将軍居城としての役割

室町時代の将軍の居所は「御所」と呼ばれ、必ずしも城郭化されていませんでした。二条古城は、将軍の居所を本格的な城郭として構築した点で画期的でした。これは戦国時代の軍事的緊張の高まりを反映しています。

信長の城郭観

二条古城の築城は、信長の城郭に対する考え方を示しています。短期間での実用的な築城、転用石の積極的利用、そして後の安土城への部材の再利用など、効率性と実用性を重視する信長らしい特徴が見られます。

まとめ

二条古城は、織田信長が足利義昭のために永禄12年(1569年)に築いた城郭で、わずか約70日という驚異的な速さで完成させられました。現在の京都御苑西側、平安女学院大学付近に位置していたこの城は、室町幕府終焉の舞台となり、日本史の重要な転換点を見届けました。

徳川家康の二条城や信長の二条御新造とは異なる城であり、これらとの混同が多く見られますが、それぞれが独自の歴史的意義を持っています。現在は遺構がほとんど残っていませんが、石碑がその存在を今に伝えています。

二条古城の歴史は、織田信長の実利主義的な築城手法、室町幕府の終焉、そして戦国時代から近世への移行期における京都の重要性を物語る貴重な史跡として、日本の城郭史において重要な位置を占めています。

京都を訪れた際には、世界遺産の二条城だけでなく、この幻の二条古城にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか。石碑の前に立ち、かつてここに壮大な城郭が存在し、日本史を動かす重要な出来事が繰り広げられたことを想像すると、歴史の重みを感じることができるでしょう。

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