堀越城(青森県)

堀越城(青森県)
所在地 〒036-8112 青森県弘前市堀越柏田
公式サイト http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/chosya/gyousei/sisekihorikosijou.html

堀越城(青森県)完全ガイド|津軽氏の居城から復元整備まで徹底解説

堀越城とは

堀越城(ほりこしじょう)は、青森県弘前市堀越字川合・柏田に所在する平城で、国の史跡「津軽氏城跡」の一つとして指定されています。この城は津軽統一を果たした初代弘前藩主・津軽為信が、文禄3年(1594年)から慶長16年(1611年)まで居城とした重要な城郭です。

弘前城への移転までの17年間、堀越城は津軽地方の政治・軍事の中心として機能しました。現在は熊野神社の境内となっている本丸跡を中心に、平成27年(2015年)から段階的に復元整備が進められ、往時の姿を偲ばせる土塁や堀が復元され、史跡公園として一般公開されています。

堀越城の歴史

築城から津軽氏以前の時代

堀越城の創建については、建武3年(1336年)に津軽地方の地頭であった曾我太郎貞光が築城したと伝えられています。南北朝時代の混乱期に、この地域を支配する拠点として築かれたとされますが、この時期の詳細な記録は限られています。

中世を通じて堀越城は地域の有力者の拠点として存在し続けましたが、戦国時代に入ると津軽地方は南部氏の支配下にありました。この状況を変えたのが、大浦氏(後の津軽氏)の台頭です。

津軽為信の時代

津軽為信は、永禄年間(1558年~1570年)から津軽地方の統一に着手し、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、独自に秀吉への臣従を果たしました。文禄3年(1594年)、秀吉から津軽四万五千石の所領安堵を受けた為信は、それまでの本拠地であった大浦城(現在の弘前市五代)から堀越城へと居城を移しました。

為信が堀越城を選んだ理由は、津軽平野の中心部に位置し、交通の要衝であったこと、また平野部の平城として近世城郭への改修が容易であったことが考えられます。為信は堀越城を大規模に改修し、津軽統治の拠点として整備しました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、為信は東軍に属して所領を安堵され、津軽氏の基盤は確固たるものとなりました。慶長12年(1607年)、為信は京都で病没しますが、その遺志を継いだ二代藩主・津軽信枚によって、より大規模な弘前城の築城が計画されることになります。

弘前城への移転と堀越城の役割変化

慶長14年(1609年)、津軽信枚は新たな居城として弘前城(当初は高岡城)の築城を開始しました。築城工事は急ピッチで進められ、慶長16年(1611年)に弘前城が完成すると、藩の政庁機能は堀越城から弘前城へと移されました。

これにより、堀越城は17年間にわたる津軽氏の居城としての役割を終えることになります。その後、堀越城は支城として維持されましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、正式に廃城となりました。ただし、完全に破却されることはなく、曲輪や土塁などの遺構は残され、本丸跡には熊野神社が勧請されて現在に至っています。

近代以降の堀越城跡

明治維新後、堀越城跡は民有地や神社境内として利用され続けました。昭和60年(1985年)、弘前城跡が「津軽氏城跡」として国の史跡に指定された際、堀越城跡も追加指定を受けました。これにより、津軽氏の歴史を物語る重要な文化財として、保存と活用の道が開かれました。

平成に入ると、弘前市による本格的な発掘調査が開始され、城の構造や変遷が科学的に解明されていきました。平成23年(2011年)からは復元整備事業が本格化し、平成27年(2015年)には三の丸の土塁と堀が復元され、史跡公園として部分公開されました。その後も段階的に整備が進められ、現在では本丸、二の丸、三の丸の各曲輪が整備され、全面公開されています。

堀越城の構造

平城としての立地と縄張り

堀越城は津軽平野の中央部、標高約20メートルの微高地に築かれた平城です。城の北側には岩木川水系の平川が流れ、自然の防御線として機能していました。平城としての特徴を活かし、広大な平野部に複数の曲輪を配置した梯郭式の縄張りとなっています。

城域は東西約600メートル、南北約400メートルに及び、本丸を中心に二の丸、三の丸が配置されていました。現在の国道7号線が城域の西側を貫通しており、国道の両側に遺構が残されています。西側には本丸と二の丸が、東側には三の丸が位置し、それぞれが堀と土塁によって区画されていました。

本丸の構造

本串は城の中核をなす曲輪で、東西約120メートル、南北約100メートルの規模を持ちます。周囲は高さ3~4メートルの土塁で囲まれ、外側には幅10~15メートルの堀が巡らされていました。本丸の北東隅には櫓台と推定される土塁の高まりが確認されています。

現在、本丸跡には熊野神社が鎮座しており、境内として利用されています。発掘調査により、本丸内部には礎石建物跡や井戸跡が確認されており、津軽為信の居館があったと考えられています。本丸への出入口は、東側に設けられた土橋を経由する形式で、防御性を高める工夫が見られます。

二の丸・三の丸の配置

二の丸は本丸の南側に隣接し、本丸を守る重要な曲輪として機能していました。発掘調査では、二の丸からは多数の柱穴や建物跡が検出されており、家臣団の屋敷や倉庫などが建ち並んでいたと推定されています。

三の丸は城域の東側に広がる最も広大な曲輪で、現在の復元整備の中心となっています。三の丸は土塁と堀によって明確に区画され、内部には武家屋敷や町人地が形成されていたと考えられます。三の丸の土塁は高さ約3メートル、基底部幅約10メートルの規模で、堀は幅約8~10メートル、深さ約2メートルで復元されています。

土塁と堀の特徴

堀越城の防御システムの中心は、土塁と堀の組み合わせです。土塁は版築工法で丁寧に築かれており、発掘調査では複数の構築段階が確認されています。これは津軽為信による改修時に、既存の土塁を拡張・強化したことを示しています。

堀は薬研堀と箱堀の両方が用いられており、曲輪の重要度に応じて使い分けられていました。本丸周辺の堀は薬研堀で深く掘られ、三の丸の堀は箱堀で比較的浅く広く造られていました。堀には常時水が張られていた水堀ではなく、空堀であったと考えられています。

土橋は各曲輪への出入口に設けられ、防御の要となっていました。平成27年の復元整備では、三の丸の土橋が発掘成果に基づいて忠実に復元され、当時の城郭技術を体感できるようになっています。

堀越城の遺構

現存する遺構

堀越城跡では、廃城後400年以上を経た現在でも、多くの遺構が良好な状態で残されています。最も顕著なのは土塁と堀で、特に本丸周辺では往時の姿を色濃く留めています。

本丸を囲む土塁は、熊野神社の境内として保護されてきたため、高さ3~4メートルの規模をほぼ完全に保っています。土塁上を歩くと、周囲を見渡せる高さがあり、防御施設としての機能を実感できます。本丸の東側には堀跡が明瞭に残り、土橋の位置も地形から読み取ることができます。

国道7号線の西側では、二の丸の土塁と堀の一部が民有地内に残されており、私有地のため立ち入りはできませんが、道路からその姿を確認できます。三の丸エリアでは、復元整備前から土塁の基底部や堀の窪地が確認されており、これらを基に復元工事が実施されました。

発掘調査の成果

弘前市教育委員会による発掘調査は、平成に入ってから本格化し、城の構造解明に大きく貢献しました。調査では、各曲輪の範囲、土塁・堀の構造、建物配置などが明らかになっています。

特に重要な成果として、本丸内部から検出された礎石建物跡があります。これは為信の居館跡と推定され、建物の規模や配置から、当時の藩主の生活空間を復元する手がかりとなっています。また、本丸からは中国製の陶磁器や国産の陶器、鉄製品などが出土しており、16世紀末から17世紀初頭の生活文化を知る貴重な資料となっています。

三の丸の発掘調査では、土塁の構築過程が詳細に解明されました。土塁は一度に築かれたのではなく、段階的に拡張されており、最終的には高さ約3メートル、基底部幅約10メートルの規模に達していたことが判明しました。堀からは木製品や土器が出土し、廃城時の埋め戻しの状況も明らかになっています。

二の丸の調査では、多数の柱穴が規則的に配置されていることが確認され、計画的な武家屋敷の配置があったことが分かりました。これらの発掘成果は、復元整備の基礎データとして活用されています。

復元整備事業の詳細

弘前市は平成23年(2011年)から「史跡津軽氏城跡堀越城跡整備基本計画」に基づき、段階的な復元整備を進めてきました。整備の基本方針は、発掘調査の成果に基づいた科学的な復元と、史跡の保存を両立させることです。

第一段階として、平成27年(2015年)に三の丸の土塁と堀、土橋が復元されました。土塁は発掘調査で確認された構築技法を再現し、版築工法で丁寧に積み上げられています。堀は箱堀形式で復元され、幅約8メートル、深さ約2メートルの規模となっています。土橋は幅約3メートルで復元され、三の丸への出入口を再現しています。

第二段階では、本丸と二の丸の間の堀と土塁の整備が行われました。本丸周辺は熊野神社の境内であるため、神社との調整を図りながら慎重に整備が進められました。既存の土塁を保護しつつ、見学路を設置し、土塁上からの眺望を楽しめるようになっています。

復元整備では、単に土塁と堀を復元するだけでなく、見学者が城の構造を理解しやすいよう、解説板や案内サインを適切に配置しています。また、三の丸には休憩施設や駐車場も整備され、史跡公園としての機能を備えています。

整備に使用された土は、できる限り現地の土を活用し、当時の景観に近づけるよう配慮されています。植栽についても、江戸時代の絵図などを参考に、当時植えられていた可能性のある樹種を選定しています。

堀越城の見どころ

三の丸史跡公園

復元整備された三の丸エリアは、堀越城の最大の見どころです。国道7号線の東側に位置し、無料駐車場が完備されているため、アクセスも良好です。

三の丸に入ると、まず目に入るのが復元された土塁です。高さ約3メートルの土塁は、当時の城郭の規模を実感させます。土塁に沿って歩くと、外側に広がる堀の全容が見渡せます。堀は空堀として復元されており、深さ約2メートルの窪地が続きます。

土橋を渡って三の丸内部に入ると、広々とした曲輪空間が広がります。ここには武家屋敷や町人地が建ち並んでいたと考えられており、往時は多くの人々が生活していた場所です。曲輪内には解説板が設置され、発掘調査の成果や城の歴史を学ぶことができます。

春には桜が咲き、秋には紅葉が美しく、四季折々の景観を楽しめる公園としても親しまれています。

本丸(熊野神社)

国道7号線の西側、熊野神社の境内が本丸跡です。神社の参道を進むと、周囲より一段高い場所に社殿があり、これが本丸の中心部です。

本丸を囲む土塁は、廃城後も神社の境内として保護されてきたため、堀越城で最も良好に残る遺構となっています。土塁の高さは3~4メートルあり、上に登ると周囲の景色を見渡せます。かつて津軽為信がこの場所から津軽平野を眺めていたかもしれないと想像すると、感慨深いものがあります。

本丸の北東隅には、櫓台と推定される土塁の高まりがあり、城の防御施設の一端を垣間見ることができます。熊野神社は地域の信仰の場として現在も大切にされており、静謐な雰囲気の中で歴史を感じられる場所です。

土塁と堀のシステム

堀越城の最大の特徴は、平城でありながら、土塁と堀を巧みに組み合わせた防御システムです。三の丸の復元整備により、この防御システムを具体的に理解できるようになりました。

土塁の断面を観察すると、版築工法で丁寧に築かれていることが分かります。異なる色の土を層状に積み重ねることで、土塁の強度を高める技術が用いられています。土塁の外側の法面(斜面)は急角度に造られており、敵が容易に登れないよう工夫されています。

堀は土塁の外側に配置され、二重の防御線を形成しています。堀底から土塁上までの高さは約5~6メートルに達し、攻め手にとっては大きな障壁となったことでしょう。土橋は堀を横断する唯一の通路で、防御側はここを重点的に守ることで、効率的な防御が可能でした。

周辺の歴史的景観

堀越城跡の周辺には、津軽氏ゆかりの史跡や歴史的景観が残されています。城跡から南西約4キロメートルには、津軽氏が移転した弘前城があり、両城を訪れることで津軽氏の歴史をより深く理解できます。

堀越地区には、かつての城下町の名残を感じさせる町割りや寺社が残されています。堀越城が廃城となった後も、この地域は交通の要衝として発展を続け、近世を通じて重要な宿場町として機能しました。

堀越城へのアクセスと見学情報

アクセス方法

車でのアクセス
東北自動車道大鰐弘前ICから国道7号線経由で約15分。三の丸史跡公園に無料駐車場(約20台)があります。本丸(熊野神社)にも参拝者用の駐車スペースがあります。

公共交通機関でのアクセス
JR弘前駅から弘南バス「大鰐線」または「石川線」に乗車し、「堀越」バス停下車、徒歩約5分。弘南鉄道大鰐線「弘高下駅」から徒歩約15分。

見学のポイント

堀越城跡は通年で見学可能で、入場料は無料です。三の丸史跡公園は午前9時から午後5時まで開放されていますが、本丸(熊野神社)は神社境内のため、常時参拝可能です。

見学所要時間は、三の丸と本丸を合わせて約1~1.5時間が目安です。土塁や堀をじっくり観察したい場合は、2時間程度を見込むとよいでしょう。解説板が各所に設置されているため、事前知識がなくても城の歴史や構造を学びながら見学できます。

春の桜の季節(4月下旬~5月上旬)と秋の紅葉の季節(10月下旬~11月上旬)は特に美しく、歴史散策と自然鑑賞を同時に楽しめます。冬季は積雪がありますが、雪景色の中の城跡も趣があります。ただし、足元が滑りやすいので注意が必要です。

周辺の観光施設

堀越城跡を訪れた際には、周辺の観光施設も合わせて巡ることをお勧めします。

弘前城(車で約15分)
津軽氏が堀越城から移転した居城で、現存天守を持つ名城です。弘前公園として整備され、桜の名所としても有名です。

津軽藩ねぷた村(車で約10分)
津軽の伝統文化を体験できる施設で、ねぷたの展示や津軽三味線の演奏を楽しめます。

最勝院五重塔(車で約12分)
国の重要文化財に指定されている江戸時代の五重塔で、東北地方唯一の五重塔として知られています。

堀越城の文化財としての価値

堀越城跡は、昭和60年(1985年)に国の史跡「津軽氏城跡」の一部として指定されました。この指定は、弘前城跡、種里城跡とともに、津軽氏の歴史を総合的に理解する上で重要な史跡群として評価されたものです。

文化財としての堀越城の価値は、以下の点にあります。

第一に、津軽統一を果たした津軽為信が居城とした城であり、津軽地方の近世史の出発点を示す史跡であることです。為信が豊臣秀吉から所領安堵を受け、独立大名として認められた時期の居城であり、津軽氏の確立期を物語る重要な遺跡です。

第二に、中世城郭から近世城郭への過渡期の姿を示す城郭遺跡であることです。堀越城は戦国時代に築かれた城を為信が近世城郭として改修したもので、土塁と堀を主体とした構造に、近世城郭の特徴が見られます。弘前城築城前の津軽氏の城郭技術を知る上で貴重な資料となっています。

第三に、発掘調査と復元整備により、城郭の構造を具体的に理解できる史跡として整備されていることです。単に遺構が残されているだけでなく、科学的な調査に基づいて復元整備が行われており、教育的価値の高い史跡となっています。

まとめ

堀越城は、津軽為信が17年間居城とした平城で、津軽氏の歴史において重要な位置を占める城郭です。文禄3年(1594年)から慶長16年(1611年)まで、津軽地方の政治・軍事の中心として機能し、弘前城への移転後は廃城となりました。

現在、堀越城跡は国の史跡として保存され、平成27年(2015年)からの復元整備により、三の丸の土塁と堀が往時の姿で復元されています。本丸跡は熊野神社の境内となっており、良好な状態で土塁が残されています。発掘調査の成果に基づいた科学的な復元整備により、平城としての堀越城の構造を具体的に理解できる史跡公園となっています。

弘前城と合わせて訪れることで、津軽氏の歴史をより深く理解できます。青森県を訪れた際には、ぜひ堀越城跡に足を運び、津軽統一の拠点となった城の歴史と、復元された土塁・堀の迫力を体感してください。

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