広瀬城(飛騨国)完全ガイド|畝状竪堀が見事な山城の歴史と見どころ
広瀬城とは
広瀬城(ひろせじょう)は、岐阜県高山市国府町大字名張・大字瓜巣に位置する戦国時代の山城です。別名「田中城(たなかじょう)」とも呼ばれ、1970年(昭和45年)8月11日に岐阜県指定史跡に指定されています。
飛騨国において高山城・松倉城に次ぐ規模を誇り、推定坪数は約3万坪、標高620メートルの山に築かれた飛騨三大山城の一つとされています。現在では、畝状竪堀群や大堀切などの遺構が良好に保存されており、土の城の傑作として城郭ファンから高い評価を受けています。
西の山塊から東へ伸びた丘陵の東端部に築かれた広瀬城は、北飛騨における三木氏の重要な支城として機能し、飛騨国の戦国史において重要な役割を果たしました。
広瀬城の歴史
築城と広瀬氏の時代
広瀬城の築城時期については諸説ありますが、室町時代後半の永正年間(1504~1521年)から天文年間(1532~1555年)頃とされています。『飛州志』によると「田中城旧称広瀬城」と記されており、天文年間に広瀬左近将監利治(ひろせさこんしょうげんとしはる)によって築城されたと伝えられています。
広瀬氏は飛騨国府地域を本拠とした国人領主で、広瀬城を居城として勢力を拡大しました。広瀬利治は築城者として知られ、その後も広瀬氏が代々城主を務めました。広瀬氏の本拠地として、この城は北飛騨の政治・軍事の拠点となっていきます。
三木氏との関係
戦国時代中期以降、広瀬城は飛騨国の有力国人である三木氏の勢力下に入りました。三木氏は飛騨国の国司姉小路氏の一族で、北飛騨を中心に勢力を拡大していた戦国大名です。
三木自綱(みきよりつな)の時代には、広瀬城は三木氏の重要な支城として位置づけられ、北飛騨における三木氏の軍事拠点として機能しました。広瀬兵庫頭宗直(ひろせひょうごのかみむねなお)など、広瀬氏の一族が城主として三木氏に仕えていたとされています。
天正年間の動乱と落城
天正年間(1573~1592年)に入ると、飛騨国は激しい戦乱に巻き込まれます。織田信長の勢力が東海地方から拡大する中、飛騨国内でも三木氏と姉小路氏の対立が激化しました。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、織田家臣であった金森長近(かなもりながちか)が飛騨国への侵攻を開始します。金森長近は豊臣秀吉の支援を受けて飛騨統一を進め、三木氏や姉小路氏などの在地勢力を次々と攻略していきました。
広瀬城も金森長近の飛騨侵攻の際に攻撃を受け、最終的には落城したと考えられています。天正13年(1585年)頃までには金森氏による飛騨統一が完了し、広瀬城はその役割を終えて廃城となったと推定されています。
広瀬城の縄張りと構造
全体の配置
広瀬城は西から東へ伸びる丘陵の東端部に築かれた連郭式の山城です。城域は東西約400メートル、南北約200メートルに及び、複数の曲輪が尾根に沿って配置されています。
城の最高所には主郭(本丸)が設けられ、そこから東西に曲輪が連なる構造となっています。主郭の標高は約620メートルで、周辺の平地からの比高差は約120メートルあり、要害の地に築かれていることがわかります。
主郭(本丸)の特徴
主郭は城の中心部に位置し、推定される最も重要な曲輪です。発掘調査では礎石が2個確認されており、何らかの建物が存在していたことが明らかになっています。
礎石の周辺からは青磁の碗や香炉の破片が出土しており、これらは16世紀頃の中国製の高価な輸入品です。このことから、相当な財力と地位を持つ人物がこの城に居住していたことが推測されます。青磁などの出土品は、広瀬城が単なる軍事施設ではなく、領主の居館としての機能も持っていたことを示しています。
主郭の周囲には土塁が巡らされており、防御機能が高められていました。現在でも土塁の痕跡を確認することができます。
畝状竪堀群の見事さ
広瀬城の最大の見どころは、城域西側に展開する畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)です。畝状竪堀とは、斜面に複数の竪堀を並行して掘り込んだ防御施設で、敵の側面からの攻撃を防ぐとともに、斜面を登る敵の動きを制限する効果があります。
広瀬城の畝状竪堀は、主郭西側の斜面に密集して配置されており、その規模と保存状態の良さから「土の城の傑作」と評されています。竪堀は深さ2~3メートル、長さ20~30メートル程度のものが10条以上確認でき、まるで波のような美しい地形を形成しています。
この畝状竪堀群は戦国時代後期の築城技術を示す貴重な遺構であり、飛騨地方の山城の特徴を理解する上で重要な資料となっています。
堀切と曲輪の配置
主郭の西側には大堀切が設けられており、尾根を分断することで防御ラインを形成しています。この大堀切は深さ約5メートル、幅約10メートルの規模を持ち、現在でも明瞭に確認できる遺構です。
城域北側の尾根には見張台と考えられる小規模な曲輪があり、ここから周辺の監視を行っていたと推定されます。岐阜県文化財保護センターの駐車場から登城道を登ると、約5分でこの北側尾根の見張台に到達します。
各曲輪は土塁や切岸によって区画されており、段差を利用した防御構造となっています。曲輪間の連絡路は限定されており、敵の侵入を制限する工夫が随所に見られます。
遺構の保存状態
広瀬城跡は県指定史跡として保護されており、遺構の保存状態は非常に良好です。土塁、堀切、竪堀、曲輪などの土の城特有の遺構が明瞭に残っており、築城当時の姿を偲ぶことができます。
石垣などの石造遺構は確認されておらず、純粋な土の城として構築されています。これは飛騨地方の山城に共通する特徴であり、地域の築城技術を理解する上で貴重な事例となっています。
広瀬城の城主たち
広瀬利治
広瀬城の築城者とされる広瀬左近将監利治は、天文年間に活躍した国人領主です。広瀬氏は国府地域を本拠とし、利治の代に広瀬城を築いて勢力基盤を固めました。
利治は築城だけでなく、領内の統治にも力を注ぎ、広瀬氏の勢力拡大に貢献したと考えられています。その後の広瀬氏の発展の礎を築いた人物として評価されています。
広瀬兵庫頭宗直
広瀬兵庫頭宗直は、三木氏に仕えた広瀬氏の一族です。三木自綱の時代に広瀬城の城主を務めたとされ、北飛騨における三木氏の勢力維持に重要な役割を果たしました。
宗直の時代には、広瀬城は三木氏の支城ネットワークの一翼を担い、高堂城などの他の三木氏の城郭と連携して防衛体制を構築していました。
田中筑前守
広瀬城は別名「田中城」とも呼ばれますが、これは田中氏が城主を務めた時期があったことに由来すると考えられています。田中筑前守がその代表的な人物とされていますが、詳細な事績については史料が乏しく、不明な点が多く残されています。
田中氏と広瀬氏の関係、あるいは田中氏がいつの時期に城主であったかについては、今後の研究が待たれるところです。
発掘調査の成果
高山市教育委員会によって実施された広瀬城跡の発掘調査では、貴重な成果が得られています。
主郭での調査では、前述の通り礎石2個が確認され、建物の存在が明らかになりました。礎石の配置から、ある程度の規模を持つ建物が存在していたと推定されています。
出土遺物としては、16世紀頃の中国製青磁の碗や香炉の破片が注目されます。これらは当時としては非常に高価な輸入品であり、広瀬城の城主が相当な財力と文化的素養を持っていたことを示しています。青磁は茶の湯文化とも関連が深く、戦国大名クラスの人物が使用していた可能性があります。
その他、土師器や陶器の破片、鉄製品なども出土しており、城内での日常生活の様子を知る手がかりとなっています。
発掘調査の成果は、文献史料が少ない広瀬城の実態を解明する上で重要な情報を提供しており、今後さらなる調査研究が期待されています。
広瀬城へのアクセスと見学情報
アクセス方法
車でのアクセス
- 中部縦貫自動車道「高山IC」から約15分
- 国道41号線から国府町方面へ
- 岐阜県文化財保護センターを目指す
公共交通機関
- JR高山本線「高山駅」から濃飛バス「国府」方面行きで約20分
- 最寄りバス停から徒歩約15分
駐車場
岐阜県文化財保護センターの駐車場を利用することができます。センターに一声かけてから見学するのが望ましいでしょう。駐車場は無料で利用できます。
登城ルート
岐阜県文化財保護センター横に登城道入口があり、そこから整備された登山道を登ります。北側尾根の見張台まで約5分、主郭までは約10~15分程度です。
登城道は整備されており、比較的歩きやすくなっていますが、山城のため動きやすい服装と履き慣れた靴での訪問をおすすめします。
見学のポイント
- 畝状竪堀群: 城域西側の主郭周辺に展開する畝状竪堀は必見です。斜面に刻まれた見事な防御遺構を観察しましょう。
- 主郭西の大堀切: 深く掘り込まれた堀切は、戦国時代の築城技術を実感できる遺構です。
- 主郭: 礎石の位置を確認し、かつての建物配置を想像してみましょう。
- 北側尾根の見張台: ここからの眺望も良く、城の立地を理解する上で重要なポイントです。
見学時の注意点
- 山城のため、雨天時や冬季は足元が滑りやすくなります
- 夏季は虫除け対策が必要です
- 飲料水は持参しましょう
- 遺構の保護のため、土塁や堀に立ち入らないよう注意してください
- ゴミは必ず持ち帰りましょう
周辺の関連史跡
高堂城
高堂城は三木氏の本城で、広瀬城とともに北飛騨における三木氏の拠点でした。広瀬城から車で約20分の距離にあり、合わせて訪問することで三木氏の勢力圏を理解することができます。
高山城
金森長近が飛騨統一後に築いた高山城は、近世城郭として広瀬城とは異なる特徴を持っています。高山市街地にあり、現在は城山公園として整備されています。
松倉城
飛騨三大山城の一つである松倉城も、広瀬城と同様に見事な遺構が残る山城です。姉小路氏の本城として知られ、飛騨の戦国史を理解する上で重要な史跡です。
広瀬城の歴史的意義
広瀬城は、飛騨国の戦国時代を理解する上で重要な史跡です。以下のような歴史的意義を持っています。
飛騨国人領主の拠点
広瀬氏という国人領主の本拠地として、地域支配の実態を示す貴重な事例です。中央政権から離れた飛騨地方における独自の勢力形成過程を知ることができます。
三木氏の支城ネットワーク
三木氏の勢力下に入った後は、北飛騨における支城ネットワークの一翼を担いました。戦国大名の領国支配における支城の役割を具体的に示す事例として重要です。
築城技術の粋
畝状竪堀群をはじめとする防御遺構は、戦国時代後期の築城技術の到達点を示しています。特に土の城としての完成度の高さは、全国的に見ても評価に値するものです。
地域文化の証
出土した青磁などの遺物は、飛騨の山間部においても高度な文化が存在していたことを示しています。京都や堺などの中央文化との交流があったことを物語る貴重な証拠です。
広瀬城と飛騨の戦国史
広瀬城の歴史は、飛騨国の戦国史と密接に関わっています。
室町時代後半から戦国時代にかけて、飛騨国は国司姉小路氏の権威が低下し、三木氏、姉小路氏(向小路氏)、江馬氏などの国人領主が割拠する状況となりました。広瀬氏もそうした国人の一つとして、国府地域を拠点に勢力を維持していました。
三木氏が北飛騨で勢力を拡大すると、広瀬城は三木氏の支配下に入り、重要な軍事拠点として機能しました。三木自綱の時代には、高堂城を本城とする三木氏の支城ネットワークの一環として、北飛騨の防衛を担っていたのです。
天正年間に入ると、織田信長の勢力拡大に伴い、飛騨国も中央政権の影響を受けるようになります。本能寺の変後、豊臣秀吉の支援を受けた金森長近が飛騨侵攻を開始すると、三木氏をはじめとする在地勢力は次々と滅ぼされていきました。
広瀬城も金森長近の飛騨統一の過程で落城し、その歴史に幕を閉じました。金森氏は高山城を本拠として近世飛騨の支配を確立し、広瀬城のような中世山城は役割を終えて廃城となっていったのです。
現代に残る広瀬城の価値
広瀬城跡は、現代においても多くの価値を持ち続けています。
歴史教育の場
県指定史跡として保護されている広瀬城跡は、地域の歴史教育の重要な教材となっています。実際に遺構を見学することで、教科書では学べない戦国時代の実像に触れることができます。
観光資源
高山市を訪れる観光客にとって、広瀬城跡は高山の古い町並みとは異なる魅力を提供します。山城歩きを楽しむ城郭ファンにとっては、見応えのある遺構が残る必見のスポットです。
学術研究の対象
戦国時代の築城技術、地方国人領主の実態、飛騨地方の歴史など、多様な研究テーマの対象となっています。今後の発掘調査や研究によって、さらに新しい発見がある可能性があります。
自然環境の保全
史跡として保護されることで、周辺の自然環境も守られています。城跡の森は多様な動植物の生息地となっており、環境保全の面でも意義があります。
まとめ
広瀬城は、岐阜県高山市国府町に位置する戦国時代の山城で、別名田中城とも呼ばれます。室町時代後半に広瀬利治によって築城され、その後三木氏の重要な支城として機能しました。天正年間の金森長近による飛騨侵攻で落城し、廃城となりました。
城の最大の見どころは、主郭西側に展開する見事な畝状竪堀群です。深く掘り込まれた竪堀が並行して配置される様は、土の城の傑作と称されるにふさわしい壮観さです。大堀切、土塁、曲輪などの遺構も良好に残っており、戦国時代の築城技術を実感することができます。
発掘調査では16世紀の中国製青磁などが出土しており、城主の文化的水準の高さが明らかになっています。1970年に岐阜県指定史跡となり、現在では整備された登城道から気軽に訪問できる山城として、多くの城郭ファンに親しまれています。
飛騨国の戦国史を物語る重要な史跡として、また土の城の優れた事例として、広瀬城は歴史的・学術的に高い価値を持ち続けています。高山を訪れた際には、ぜひ足を延ばして戦国時代の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。
