此隅山城(兵庫県豊岡市)完全ガイド|山名氏の本拠地として栄えた但馬最大級の山城
此隅山城とは
此隅山城(このすみやまじょう)は、兵庫県豊岡市出石町に位置する中世の山城です。別名を子盗城(こぬすみじょう)、此隅城、鶴賀城、子守城とも呼ばれ、但馬国(現在の兵庫県北部)における山名氏の重要な拠点として機能しました。
標高約140m、比高約130mの独立した低丘陵上に築かれたこの城は、出石神社の北側に位置し、出石の城下町を見下ろす戦略的な立地を誇ります。現在は有子山城跡とともに「山名氏城跡」として国の史跡に指定されており、但馬地方最大規模の山城遺構として高い歴史的価値が認められています。
城跡には堀切、曲輪、土塁などの防御施設が良好な状態で残されており、中世山城の構造を学ぶ上で貴重な遺産となっています。
此隅山城の歴史
築城と山名氏の台頭
此隅山城は文中年間(1372年~1374年)に、但馬守護であった山名時義(やまなときよし)によって築城されたとされています。山名氏は南北朝時代から室町時代にかけて急速に勢力を拡大した守護大名で、最盛期には日本の六分の一を支配したことから「六分一殿」と称されました。
時義は但馬国を拠点として勢力を固め、此隅山城を本拠地として整備しました。山麓には「御屋敷」「大手門」「宗鏡寺」などの地名が現在も残っており、かつて城下町が形成されていたことを物語っています。
応仁の乱と山名宗全
此隅山城が歴史の表舞台に登場するのは、応仁の乱(1467年~1477年)の時期です。この全国的な内乱において、山名氏の当主であった山名持豊(やまなもちとよ、出家後は山名宗全)は西軍の総大将として活躍しました。
応仁の乱の際、此隅山城には山名氏の各領国から計2万6000騎もの軍勢が集結したと記録されています。宗全はこの城から京都へ出陣し、11年に及ぶ戦乱を指揮しました。この時期、此隅山城は西日本における山名氏勢力の結集点として重要な役割を果たしたのです。
戦国時代と落城
応仁の乱後、山名氏の勢力は徐々に衰退していきます。戦国時代に入ると、但馬国内でも権力闘争が激化しました。
永禄12年(1569年)、当時の城主であった山名祐豊(やまなすけとよ)の時代に、此隅山城は織田信長の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の攻撃を受けます。秀吉軍の猛攻により城は陥落し、山名祐豊は自害に追い込まれました。これにより、約200年にわたる山名氏の但馬支配は終焉を迎えます。
落城後、但馬の支配権は織田方に移り、此隅山城はその役割を終えました。その後、山名氏の居城は近隣の有子山城に移されることとなります。
此隅山城の構造と見どころ
縄張りと防御システム
此隅山城は標高140mの独立丘陵全体を利用した山城で、但馬地方最大規模の遺構を誇ります。城の構造は中世山城の典型的な特徴を備えており、以下のような防御施設が確認できます。
主郭部は山頂付近に配置され、複数の曲輪が階段状に連なっています。これらの曲輪は土塁によって区画され、敵の侵入を防ぐ工夫が随所に見られます。
城の防御の要となるのが堀切です。尾根筋を断ち切るように掘られた堀切は、敵の進軍を阻む重要な防御ラインとして機能しました。特に西麓の「御屋敷」と呼ばれる居館跡から主郭部へ続く尾根には、二重堀切が設けられており、堅固な防御体制が敷かれていたことがわかります。
宗鏡寺砦の特異な構造
此隅山城の遺構の中でも特に注目すべきなのが、宗鏡寺砦(すきょうじとりで)と呼ばれる独立した砦です。この砦は城の西麓の南側に位置し、此隅山城主郭部へ繋がる尾根を二重堀切で遮断する構造となっています。
宗鏡寺砦側の堀切は南側に屈折させて竪堀とし、帯曲輪には竪堀に面して土塁を設けるという、此隅山城の中でも一段と複雑な構造を持っています。この精巧な防御システムは、山名氏の築城技術の高さを示す貴重な遺構といえます。
曲輪と土塁
山上には大小さまざまな曲輪(平坦地)が配置されており、兵士の駐屯地や物資の貯蔵場所として使用されていたと考えられます。これらの曲輪は土塁によって区画され、防御力を高めるとともに、城内の空間を効率的に利用する工夫が見られます。
主郭周辺の土塁は特に高く築かれており、最後の防衛ラインとしての役割を担っていました。現在でもこれらの土塁は比較的良好な状態で残されており、当時の城の規模を実感することができます。
居館跡と城下町の痕跡
山麓の「御屋敷」と呼ばれる地域には、城主の居館があったと伝えられています。山城は戦時の要塞であり、平時は山麓の居館で政務を執り行うのが一般的でした。
また、周辺には「大手門」「宗鏡寺」などの地名が残っており、かつて城下町が形成されていたことを示しています。これらの地名は、此隅山城が単なる軍事施設ではなく、但馬国における政治・経済・文化の中心地であったことを物語っています。
此隅山城へのアクセスと訪問情報
所在地
住所: 兵庫県豊岡市出石町袴狭478(出石神社北側)
アクセス方法
車でのアクセス:
- 北近畿豊岡自動車道「八鹿氷ノ山IC」から約30分
- 出石城下町の駐車場を利用(出石城跡周辺に複数の公共駐車場あり)
- 登城口までは徒歩でアクセス可能
公共交通機関でのアクセス:
- JR山陰本線「豊岡駅」から全但バス「出石」行きで約30分、「出石」バス停下車
- バス停から登城口まで徒歩約10分
登城の所要時間と難易度
登城口から主郭部までの所要時間は片道約30~40分です。比高130mの山城であり、登山道は整備されているものの、それなりの体力を要します。
見学時間の目安: 登城から下山まで含めて約1時間30分~2時間程度を見込んでおくとよいでしょう。遺構をじっくり観察する場合は、さらに時間に余裕を持つことをおすすめします。
難易度: 中級者向け。登山靴や動きやすい服装、飲料水の持参が推奨されます。
見学時の注意点
- 山城のため、天候によっては足元が滑りやすくなります。雨天時や雨上がりは特に注意が必要です。
- 夏季は虫除けスプレー、冬季は防寒対策を忘れずに。
- 遺構保護のため、土塁や堀切を荒らさないよう注意しましょう。
- 携帯電話の電波が届きにくい場所もあるため、単独行動は避け、できれば複数人での登城が望ましいです。
周辺の観光スポット
出石城跡: 此隅山城の後に築かれた近世の城郭。出石の城下町とともに観光名所となっています。
有子山城跡: 山名氏が此隅山城の後に本拠とした山城。此隅山城とともに「山名氏城跡」として国史跡に指定されています。
出石神社: 此隅山城の南側に位置する古社。但馬国一宮として知られています。
宗鏡寺: 沢庵和尚ゆかりの寺院。此隅山城の城下町に位置し、山名氏との関わりも深い寺です。
出石そば: 出石は「出石皿そば」で有名な城下町。登城後の食事におすすめです。
此隅山城の歴史的価値と現代的意義
国史跡としての指定
此隅山城は有子山城跡とともに「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。この指定は、山名氏が室町時代に果たした歴史的役割と、城郭遺構の保存状態の良さが評価されたものです。
室町時代の守護大名の城郭として、また応仁の乱という日本史の転換点における重要拠点として、此隅山城は高い学術的価値を持っています。
但馬地方の歴史を伝える遺産
此隅山城は、但馬国の中世史を理解する上で欠かせない史跡です。山名氏の支配体制、中世の城郭技術、戦国時代の戦乱など、多様な歴史的側面を現代に伝えています。
地域住民にとっても、此隅山城は郷土の誇りであり、地域アイデンティティの核となっています。近年では保存活動や案内板の整備なども進められており、歴史遺産としての活用が図られています。
城郭研究における重要性
中世山城の構造を研究する上で、此隅山城は重要なサンプルケースとなっています。堀切、曲輪、土塁などの防御施設が良好に残されており、発掘調査や測量調査によって多くの知見が得られています。
特に宗鏡寺砦の複雑な防御構造は、山名氏の築城技術を示す貴重な事例として、城郭研究者の注目を集めています。
此隅山城を訪れる魅力
歴史ロマンを感じる山城探訪
此隅山城を訪れる最大の魅力は、応仁の乱という日本史の大転換期に思いを馳せることができる点です。2万6000騎もの軍勢が集結したこの地に立つと、戦国時代の息吹を肌で感じることができます。
山名宗全が京都へ出陣した際の決意、山名祐豊が秀吉軍に敗れた悲劇など、歴史上の人物たちのドラマが遺構の随所に刻まれています。
保存状態の良い中世山城遺構
此隅山城の遺構は比較的良好な状態で保存されており、中世山城の構造を実感できる貴重なスポットです。堀切を実際に歩いてみると、その深さと防御力の高さに驚かされます。
土塁の高さ、曲輪の配置、竪堀の工夫など、築城技術の粋を間近に観察できるのは、城郭ファンにとってこの上ない喜びでしょう。
出石観光と組み合わせた歴史散策
此隅山城は出石の城下町に隣接しており、出石城跡や出石皿そばなどの観光と組み合わせることで、充実した歴史散策を楽しむことができます。
中世の山城から近世の平山城へ、そして城下町の発展という歴史の流れを一日で体験できるのは、出石ならではの魅力です。
山名氏と但馬国の歴史
山名氏の系譜と勢力拡大
山名氏は清和源氏の流れを汲む名門武家で、鎌倉時代から室町時代にかけて急速に勢力を拡大しました。南北朝時代には足利尊氏に従って功績を挙げ、但馬、因幡、伯耆、美作、播磨など山陰・山陽の広大な地域を支配下に置きました。
最盛期の山名氏は日本の六分の一を領有したとされ、「六分一殿」と呼ばれる大勢力となりました。此隅山城はその本拠地として、山名氏の権力の象徴でもあったのです。
但馬国における山名氏の統治
山名氏は但馬国守護として、約200年にわたってこの地を統治しました。此隅山城を拠点として、領国経営、軍事統制、文化振興などを行い、但馬国の発展に大きく寄与しました。
城下町には商人や職人が集まり、経済活動が活発化しました。また、宗鏡寺などの寺社も保護され、宗教文化も栄えました。山名氏の統治は、但馬国の中世史において重要な位置を占めています。
応仁の乱と山名氏の衰退
応仁の乱において西軍の総大将として活躍した山名宗全でしたが、乱の長期化は山名氏にとって大きな負担となりました。戦費の増大、領国経営の停滞、家臣団の疲弊などが重なり、乱後の山名氏は急速に衰退していきます。
戦国時代に入ると、内部抗争や他勢力との対立が激化し、最終的には織田信長・羽柴秀吉によって但馬国を失うこととなりました。此隅山城の落城は、山名氏の栄光の時代の終焉を象徴する出来事だったのです。
此隅山城の発掘調査と研究成果
此隅山城については、これまで複数回の発掘調査や測量調査が実施されており、城の構造や歴史的変遷について多くの知見が得られています。
調査によって、堀切や曲輪の正確な配置、土塁の構造、竪堀の工法などが明らかになりました。また、出土遺物から城の使用時期や生活の様子についても情報が得られています。
これらの研究成果は、中世山城研究に貴重な資料を提供しており、今後さらなる調査によって新たな発見が期待されています。
此隅山城を楽しむためのポイント
事前学習のすすめ
此隅山城を訪れる前に、山名氏の歴史や応仁の乱について基礎知識を得ておくと、現地での感動が倍増します。歴史書や城郭関連の書籍、インターネットの情報などを活用して、予習をしておくことをおすすめします。
写真撮影のポイント
此隅山城の遺構は写真映えするスポットが多数あります。特に堀切や土塁は、角度を工夫することで迫力ある写真が撮影できます。また、山頂からの眺望も素晴らしく、出石の城下町を一望できます。
四季折々の魅力
春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、此隅山城は四季折々の表情を見せてくれます。特に秋の紅葉シーズンは、城跡と自然が織りなす美しい景観を楽しむことができます。
まとめ
此隅山城(兵庫県豊岡市)は、山名氏が但馬守護として築いた中世山城であり、応仁の乱において西軍の重要拠点として2万6000騎もの軍勢が集結した歴史的な城郭です。標高140m、比高130mの独立丘陵に築かれたこの城は、堀切、曲輪、土塁などの防御施設が良好に残されており、但馬地方最大規模の山城遺構として国史跡に指定されています。
山名時義による築城から山名祐豊の時代に羽柴秀吉に攻められて落城するまで、約200年にわたる歴史を刻んだ此隅山城は、中世但馬国の政治・軍事の中心地として重要な役割を果たしました。現在も宗鏡寺砦の複雑な防御構造をはじめ、山名氏の高度な築城技術を示す遺構が残されており、城郭研究においても高い価値を持っています。
出石の城下町に隣接する立地を活かし、出石城跡や出石そばなどの観光と組み合わせることで、中世から近世への歴史の流れを体感できる魅力的なスポットです。歴史ロマンあふれる此隅山城を訪れ、山名氏の栄華と戦国の風を感じてみてはいかがでしょうか。
