黒坂鏡山城(鳥取県日野郡)の歴史と見どころ完全ガイド|関一政が築いた幻の近世城郭
黒坂鏡山城とは
黒坂鏡山城(くろさかかがみやまじょう)は、鳥取県日野郡日野町黒坂に存在した江戸時代初期の平山城です。別名として「黒坂城」「鏡山城」とも呼ばれ、現在の旧日野産業高校校舎とその裏山が城跡となっています。
この城は、関ヶ原の戦いにおいて東軍として活躍した関一政が、伊勢国亀山から伯耆国日野郡へ5万石で転封された際に築城した近世城郭です。1610年(慶長15年)に築城が開始され、1614年(慶長19年)に完成しましたが、1618年(元和4年)に関氏が改易されたため、築城からわずか9年という短い期間で廃城となった「幻の城」として知られています。
城跡は標高約200メートルの鏡山に位置し、現在でも石垣、土塁、郭、虎口、堀、井戸などの遺構が残されており、破城の痕跡を生々しく伝える貴重な史跡となっています。
黒坂鏡山城の歴史
関一政の入封と築城の経緯
関一政は、関ヶ原の戦い(1600年)において徳川家康率いる東軍に属し、その功績により伊勢国亀山3万石から加増転封され、伯耆国日野郡・会見郡・汗入郡のうち5万石を与えられました。
この転封の背景には、米子城主であった中村一忠が1609年(慶長14年)に嗣子なく若くして没し、中村氏が無嗣除封(むしじょほう)されたことがあります。中村氏の改易後、伯耆国は小大名によって分割支配されることとなり、日野郡の地は関一政の領地となったのです。
関一政は当初、生山(現在のJR伯備線生山駅前)にあった亀井山城を仮の居城としました。そして防御上の観点から、黒坂の鏡山に新たな城を築くことを決定し、1610年(慶長15年)に築城を開始しました。城の完成は1614年(慶長19年)で、築城には約4年の歳月を要しています。
城下町の整備と統治
関一政は城の築城と並行して城下町の整備も進めました。黒坂の地は山陰と山陽を結ぶ出雲街道の要衝に位置しており、交通の要所として重要な場所でした。城下町には武家屋敷や町人町が配置され、商業の発展も図られました。
鏡山城は近世城郭としての特徴を備えており、石垣を用いた堅固な防御施設、複数の郭による縄張り、枡形虎口などが設けられていました。これらは関一政が伊勢国で培った築城技術が反映されたものと考えられています。
関氏の改易と廃城
1618年(元和4年)、関一政は突如として改易されてしまいます。その理由は「家中不統一」、すなわち家臣団の内紛や世継ぎ争いとされています。具体的には、関一政の後継者をめぐる家中の対立が幕府に問題視されたと伝えられています。
改易により関氏は領地を没収され、鏡山城も破城(はじょう)されました。築城からわずか9年という短い存続期間は、日本の城郭史においても極めて異例です。城の石垣は意図的に崩され、軍事施設としての機能は完全に失われました。
鳥取藩領時代と黒坂陣屋
関氏改易後、黒坂の地は鳥取藩池田氏の領地となりました。1631年(寛永8年)、鳥取藩主池田光仲の重臣である福田久次が黒坂に配置され、鏡山城跡の麓に黒坂陣屋を構えました。
福田氏は代々黒坂陣屋を拠点として日野郡の統治にあたり、福田久次から始まり福田久重、福田久隆、福田久武、福田久品、福田久茂、福田久命、福田久寧、福田久鎮、福田久徴、福田久就と続き、幕末まで支配が続きました。途中、山上半太夫が代官として派遣された時期もあります。
黒坂陣屋は武家屋敷を中心とした行政施設であり、城郭としての機能は持ちませんでしたが、地域統治の中心として明治維新まで重要な役割を果たしました。
城の構造と縄張り
全体の配置
黒坂鏡山城は、標高約200メートルの鏡山に築かれた平山城です。山頂部に主郭を配置し、その周囲に複数の郭を階段状に配置する梯郭式(ていかくしき)の縄張りを採用しています。
城域は東西約300メートル、南北約400メートルに及び、比較的広大な規模を誇ります。山麓には居館や家臣団の屋敷が配置され、城下町が形成されていました。
主郭とその周辺
主郭は山頂部に位置し、東西約80メートル、南北約50メートルの規模を持ちます。周囲には高さ3~5メートルの石垣が巡らされており、現在でもその遺構を確認することができます。
主郭内部には御殿が建てられていたと推定され、城主の居住空間および政務を執る場所として機能していました。主郭の四隅には櫓台の跡が残されており、防御上の要所に櫓が建てられていたことがわかります。
主郭への入口には枡形虎口が設けられており、敵の侵入を防ぐ工夫が凝らされていました。虎口周辺の石垣は特に堅固に築かれており、城の防御の要となっていました。
二の郭・三の郭
主郭の下段には二の郭、三の郭が配置されています。これらの郭も石垣で囲まれており、家臣の詰所や倉庫などが建てられていたと考えられています。
二の郭と三の郭の間には堀切が設けられており、各郭が独立した防御単位として機能するよう設計されていました。これらの郭を結ぶ通路は屈曲しており、敵の進軍を遅らせる工夫が見られます。
石垣の特徴
黒坂鏡山城の石垣は、野面積み(のづらづみ)と打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)の技法が混在しています。これは築城時期が江戸時代初期であることを示す特徴です。
石材は地元の花崗岩が主に使用されており、大きなものでは1メートルを超える巨石も用いられています。石垣の高さは場所により異なりますが、最も高い箇所では5メートル以上に達します。
破城の際に意図的に崩された石垣は、現在でも崩落した状態のまま残されており、破城の痕跡を生々しく伝える貴重な遺構となっています。この破城痕は、城郭研究において重要な資料とされています。
堀と土塁
城の周囲には空堀が巡らされており、特に東側と北側の防御が堅固に設計されています。堀の深さは3~5メートル程度で、幅は5~8メートルに及びます。
堀の外側には土塁が築かれており、二重の防御線を形成していました。土塁の高さは2~3メートル程度で、現在でも良好な状態で残されている箇所があります。
竪堀(たてぼり)も複数確認されており、山の斜面を登ってくる敵を防ぐための工夫が見られます。これらの堀は排水機能も兼ねており、城内の水はけを良くする役割も果たしていました。
虎口と門
城内には複数の虎口(出入口)が設けられていました。主要な虎口には枡形が設けられており、石垣で囲まれた空間を通過しなければ城内に入れない構造となっていました。
虎口の形式には平入り(ひらいり)と枡形の両方が確認されており、場所により防御の程度を変えていたことがわかります。大手門は南側に設けられていたと推定され、城下町からの主要なアクセス路となっていました。
門の礎石跡も一部で確認されており、櫓門が建てられていた可能性が指摘されています。
井戸と水源
城内には複数の井戸跡が確認されています。主郭内にも井戸が掘られており、籠城時の水源確保が考慮されていました。
また、山麓を流れる川から城内へ水を引き込む施設の痕跡も残されており、日常的な水の供給にも配慮がなされていたことがわかります。
黒坂鏡山城の遺構
現存する遺構
黒坂鏡山城跡には、以下のような遺構が現存しています:
石垣: 主郭周辺を中心に、高さ3~5メートルの石垣が残されています。破城により崩された箇所も多いですが、当時の築城技術を知る上で貴重な遺構です。
土塁: 郭の周囲に築かれた土塁が良好な状態で残されています。高さ2~3メートル、幅3~5メートル程度の規模を持ちます。
郭: 主郭、二の郭、三の郭など、複数の郭の平坦面が確認できます。各郭の規模や配置から、城の全体像を把握することができます。
虎口: 枡形虎口や平入り虎口の跡が残されており、城への出入口の構造を知ることができます。
堀: 空堀や竪堀が良好に残されており、城の防御システムを理解する上で重要です。
井戸: 主郭内や二の郭に井戸跡が確認されており、一部は石組みが残されています。
櫓台: 主郭の四隅に櫓台の痕跡が残されており、櫓が建てられていたことを示しています。
破城の痕跡
黒坂鏡山城の最大の特徴は、破城の痕跡が生々しく残されていることです。1618年の関氏改易に伴い、幕府の命により城は破却されました。
石垣は意図的に崩されており、特に虎口周辺や主郭の石垣には破城の痕跡が顕著に見られます。石垣の石は外側に引き出されるように崩されており、これは破城作業の典型的な手法です。
このような破城痕を明確に残す城跡は全国的にも珍しく、江戸時代初期の破城技術を知る上で学術的に非常に価値の高い遺構となっています。
黒坂陣屋跡
鏡山城の山麓には、関氏改易後に福田氏が構えた黒坂陣屋の跡が残されています。陣屋は城郭ではなく、武家屋敷を中心とした行政施設でしたが、一部に土塁や堀の痕跡が確認されています。
黒坂陣屋跡には、現在も当時の街並みの面影が残されており、武家屋敷の石垣や門、水路などを見ることができます。陣屋時代の建物は現存していませんが、敷地割りや道路配置には江戸時代の名残が色濃く残されています。
城下町と周辺の史跡
黒坂の城下町
黒坂の城下町は、出雲街道の宿場町としても栄えました。現在の日野町黒坂地区には、江戸時代の街並みの面影が残されており、古い商家や土蔵を見ることができます。
特に本町通り周辺には、白壁の土蔵や格子窓の町家が保存されており、往時の面影を偲ぶことができます。これらの建物の多くは江戸時代後期から明治時代にかけて建てられたもので、黒坂陣屋時代の繁栄を物語っています。
関連史跡
亀井山城跡: 関一政が鏡山城完成前に居城とした城で、生山駅の目の前に位置します。小規模な山城ですが、関一政が最初に拠点とした場所として歴史的意義があります。
根雨城跡: 黒坂の北方約10キロメートルに位置する山城で、山名氏の一族が拠点としていました。黒坂鏡山城と合わせて訪れる価値があります。
金持神社: 日野町にある古社で、金運のご利益があるとして知られています。黒坂から車で約15分の距離にあります。
黒坂鏡山城へのアクセスと見学情報
アクセス方法
電車でのアクセス:
- JR伯備線「黒坂駅」下車、徒歩約10分で城跡入口に到着します
- 黒坂駅から城跡までは比較的平坦な道のりで、案内標識も設置されています
車でのアクセス:
- 米子自動車道「江府IC」から国道181号線経由で約20分
- 中国自動車道「落合IC」から国道181号線経由で約50分
- 城跡近くに駐車スペースがありますが、台数に限りがあります
見学のポイント
所要時間: 城跡の見学には1~1.5時間程度を見込むとよいでしょう。主郭まで登り、遺構をじっくり観察する場合は2時間程度必要です。
服装と装備: 城跡は山林となっており、登山道は整備されていますが、動きやすい服装と歩きやすい靴が必須です。特に雨天後は足元が滑りやすくなるため注意が必要です。
見学の注意点:
- 夏季は草木が繁茂し、城域への道が分かりにくくなることがあります。春または秋の見学がおすすめです
- 石垣は破城により不安定な箇所があるため、近づきすぎないよう注意してください
- 虫除けスプレーや飲料水を持参することをおすすめします
撮影スポット: 主郭からは黒坂の町並みと日野川の流れを一望できます。また、破城された石垣は迫力があり、撮影ポイントとして人気です。
周辺の観光施設
日野町歴史民俗資料館: 黒坂の歴史や文化に関する展示があり、鏡山城に関する資料も展示されています。黒坂駅から徒歩5分。
黒坂の町並み: 城下町の面影を残す街並みを散策できます。古い商家や土蔵が点在しています。
根雨の町並み: 黒坂から北へ約10キロメートル、こちらも宿場町として栄えた地区で、古い町並みが保存されています。
見学の季節
春(3月~5月): 新緑が美しく、気候も穏やかで見学に最適な季節です。桜の時期には城下町でも花を楽しめます。
夏(6月~8月): 草木が繁茂し、遺構が見づらくなります。また、暑さと虫が多いため、この時期の見学はおすすめできません。
秋(9月~11月): 紅葉が美しく、気候も良好で見学に適しています。特に10月~11月上旬がおすすめです。
冬(12月~2月): 草木が枯れて遺構が見やすくなりますが、積雪や凍結に注意が必要です。
黒坂鏡山城の歴史的意義
近世城郭史における位置づけ
黒坂鏡山城は、江戸時代初期に築かれた近世城郭の典型例として、城郭史上重要な位置を占めています。関ヶ原の戦い後の大名配置の変動を背景に築城され、石垣や枡形虎口などの近世的な防御施設を備えています。
しかし、わずか9年で廃城となったため、江戸時代を通じて改修されることなく、築城当時の姿をほぼそのまま残している点が特徴です。これは、江戸初期の築城技術を知る上で貴重な資料となっています。
破城の研究資料としての価値
黒坂鏡山城は、破城の痕跡が明確に残る全国的にも珍しい城跡です。江戸幕府による城郭破却の実態を知る上で、学術的に非常に高い価値を持っています。
石垣がどのように崩されたか、どの部分が重点的に破壊されたかなど、破城の技術や方法を具体的に観察できる遺構は限られており、黒坂鏡山城はその代表例となっています。
地域史における重要性
黒坂は出雲街道の要衝として、古くから交通の要所でした。鏡山城の築城により、この地域は政治・経済の中心地として発展しました。
関氏改易後も、鳥取藩の重臣福田氏が黒坂陣屋を構えたことで、日野郡の行政中心地としての地位は維持されました。黒坂の歴史を語る上で、鏡山城と黒坂陣屋は欠かせない存在です。
関一政と関氏について
関一政の経歴
関一政(せきかずまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名です。美濃国の出身で、織田信長、豊臣秀吉に仕え、後に徳川家康の家臣となりました。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して功績を挙げ、伊勢国亀山3万石から伯耆国日野郡5万石に加増転封されました。この転封により、鏡山城の築城が開始されることになります。
関氏改易の真相
1618年の関氏改易については、公式には「家中不統一」が理由とされていますが、その背景には複雑な事情があったと考えられています。
一つには、関一政の後継者をめぐる家臣団の対立があったとされます。嫡子の問題や家臣団の派閥争いが表面化し、それが幕府に問題視されたという説があります。
また、当時は大坂の陣(1614~1615年)の直後であり、幕府が諸大名の統制を強化していた時期でした。家中の不統一は、大名としての統治能力の欠如と見なされ、改易の理由となったと考えられています。
改易後の関氏
改易後、関一政とその一族は所領を失い、浪人となりました。その後の関氏の詳細については史料が乏しく、不明な点が多いのが実情です。
関氏の改易は、江戸時代初期における幕府の大名統制政策の一環として位置づけられ、他の多くの大名改易と同様に、幕府の権力強化を示す事例となっています。
まとめ
黒坂鏡山城は、鳥取県日野郡日野町に残る江戸時代初期の貴重な城郭遺構です。関ヶ原の戦いの功により関一政が築いた近世城郭でありながら、わずか9年で廃城となった「幻の城」として、独特の歴史的価値を持っています。
現在も残る石垣、土塁、郭、堀などの遺構は、江戸初期の築城技術を伝える貴重な資料であり、特に破城の痕跡が明確に残る点は全国的にも稀少です。城跡からは黒坂の町並みを一望でき、かつての城下町の面影も残されています。
アクセスも比較的容易で、JR黒坂駅から徒歩圏内という立地も魅力です。山陰地方の城郭に興味がある方、破城遺構を実際に見てみたい方、静かな山城でゆっくりと歴史に思いを馳せたい方には、ぜひ訪れていただきたい城跡です。
黒坂の町並み散策と合わせて、日野郡の歴史と文化に触れる旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。
