横須賀城

横須賀城
所在地 〒437-1304 静岡県掛川市西大渕5383
公式サイト http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kankou/spot/rekishibunka/yokosukajyoato.html

横須賀城完全ガイド|歴史・石垣の特徴・歴代城主・アクセス情報

静岡県掛川市西大渕に位置する横須賀城は、徳川家康が武田氏との戦いにおいて重要な役割を果たした城郭です。天正6年(1578年)に築かれたこの城は、独特な玉石積みの石垣と「両頭の城」という異名で知られ、現在は国の史跡に指定されています。本記事では、横須賀城の歴史、建築的特徴、歴代城主、そして現在の見どころまで、詳細に解説します。

横須賀城の歴史と築城背景

築城の経緯と高天神城攻略

横須賀城の築城は、戦国時代末期の遠江国における徳川氏と武田氏の激しい攻防戦の中で行われました。天正2年(1574年)、武田勝頼は徳川方の高天神城を攻略し、遠江国南部における徳川家康の支配に大きな脅威となりました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏に大きな打撃を与えた徳川家康は、高天神城の奪還を目指し、その包囲網を構築する必要に迫られました。この戦略の中核として、天正6年(1578年)に家臣の大須賀康高に命じて築かせたのが横須賀城です。

横須賀城は馬伏塚城を廃して新たに築かれた城で、高天神城を南側から締め付ける付城群の中核拠点として機能しました。この戦略は功を奏し、天正9年(1581年)に高天神城は落城、廃城となりました。以後、横須賀城は遠江国南部の支配拠点として重要な位置を占めることになります。

江戸時代から明治維新まで

高天神城落城後、横須賀城は遠江南部における徳川氏の重要拠点として発展しました。江戸時代に入ると、横須賀藩の藩庁が置かれ、明治元年(1868年)の廃城まで288年間にわたり、20代の城主が城を治めました。

この長い歴史の中で、横須賀城は中世的要素を色濃く残しつつ、近世城郭へと移行する過渡期の姿を示す貴重な遺構となりました。松尾城、両頭城といった別名でも呼ばれ、その独特な構造が注目されています。

明治維新後、多くの城郭が破却される中、横須賀城も建物が取り壊されましたが、石垣や堀などの遺構は残され、現在では国の史跡として保護されています。

横須賀城の特徴と見どころ

独特な玉石積みの石垣

横須賀城の最大の特徴は、天竜川から運ばれた玉石を用いた石垣です。この玉石積み(玉石垣)は、河川を流れて角が取れた丸い川原石を積み上げたもので、他の城郭ではほとんど見られない独特の美しさを持っています。

通常の城郭石垣では、野面積み、打込みハギ、切込みハギといった加工法が用いられますが、横須賀城の石垣はこれらの分類とは別次元にあります。丸い石を巧みに組み合わせて積み上げる技術は高度なものであり、当時の石工の技術力の高さを示しています。

この玉石積みが採用された理由については、築城を急いだためという説が有力です。天竜川から容易に入手できる玉石を利用することで、短期間での築城を実現したと考えられています。しかし、結果的にこの独特な石垣は、横須賀城の大きな魅力となり、訪れる人々に強い印象を与えています。

現在、本丸や西の丸の石垣が復元整備されており、その独特な美しさを間近に観察することができます。

「両頭の城」という異名

横須賀城は「両頭の城」という異名を持っています。これは、通常の城郭では一カ所しかない大手門が、横須賀城では東西に二つ存在したことに由来します。

この特異な構造は、横須賀城が中世山城から近世城郭へと発展していく過程で生まれたものです。もともと松尾山と本丸からなる中世山城であった横須賀城は、東西の平地に二の丸、三の丸を広げていき、近世城郭としての形を整えました。この拡張過程で、東西両方に大手門が設けられる独特な構造となったのです。

この構造は、防御上の利点だけでなく、城下町の発展にも寄与しました。東西それぞれの大手門から城下町が広がり、商業活動が活発化したと考えられています。

天守と主要建築物

横須賀城には天守が存在したとされています。詳細な記録は残されていませんが、当時の文献や絵図から、本丸に天守が建てられていたことが確認されています。

明治元年の廃城後、天守を含むすべての建物が取り壊されたため、現在では建物の遺構は残っていません。しかし、石垣や堀、土塁などの遺構から、かつての城郭の規模や構造を推測することができます。

現在、掛川市による整備事業が進められており、石垣の復元や案内板の設置などが行われています。これにより、訪れる人々が当時の横須賀城の姿をより具体的にイメージできるようになっています。

歴代城主と大須賀氏

初代城主・大須賀康高

横須賀城の初代城主は、徳川家康の家臣である大須賀康高です。康高は徳川四天王の一人である酒井忠次の甥にあたり、徳川家中でも重要な地位にありました。

康高は天正6年(1578年)、家康の命を受けて横須賀城を築城し、初代城主となりました。高天神城攻略における重要な役割を果たし、天正9年(1581年)の高天神城落城に大きく貢献しました。

大須賀康高は横須賀城主として、遠江南部の支配を固め、城下町の整備にも尽力しました。康高の統治により、横須賀城は単なる軍事拠点から、地域の政治・経済の中心地へと発展していきました。

大須賀氏以後の歴代城主

大須賀氏の後、横須賀城には様々な大名が城主として入りました。江戸時代を通じて20代の城主が交代し、それぞれが横須賀藩の発展に貢献しました。

主な歴代城主としては、大須賀氏の後に入った能見松平氏、西尾氏、本多氏などが知られています。特に本多氏の時代には、城下町の整備が進み、商業が発展しました。

その後も井上氏、太田氏、松平氏(西尾藩主家)など、譜代大名が城主を務め、幕府の東海道支配における重要な拠点として機能し続けました。

最後の城主は西尾忠篤で、明治元年(1868年)の廃城まで横須賀藩を治めました。明治維新後、横須賀藩は廃藩置県により横須賀県となり、その後静岡県に編入されました。

横須賀城跡の現状と整備

国史跡指定と保存活動

横須賀城跡は、その歴史的価値と独特な石垣の特徴が評価され、国の史跡に指定されています。この指定により、遺構の保存と適切な整備が法的に保護されています。

掛川市は史跡の保存と活用に積極的に取り組んでおり、継続的な整備事業を実施しています。石垣の復元、遊歩道の整備、案内板の設置など、訪れる人々が歴史を学び、楽しめる環境づくりが進められています。

特に玉石積みの石垣については、その独特な技法を後世に伝えるため、詳細な調査と記録が行われています。また、崩落した部分の復元にあたっては、当時の技法を可能な限り再現する努力がなされています。

現在の見学ポイント

横須賀城跡を訪れる際の主な見どころは以下の通りです。

本丸跡と玉石積み石垣
本丸跡には復元された玉石積みの石垣が残されており、その独特な美しさを間近に観察できます。丸い石が巧みに組み合わされた石垣は、他の城郭では見られない貴重な遺構です。

西の丸跡
西の丸跡にも石垣が残されており、城郭の規模を実感できます。ここからは周辺の地理的景観を眺めることができ、かつての城の立地の重要性を理解できます。

堀と土塁
城の周囲には堀や土塁の遺構が残されており、当時の防御システムを知ることができます。特に水堀の遺構は、平城としての横須賀城の特徴をよく示しています。

案内板と説明パネル
城跡内には、歴史や構造を解説する案内板が設置されています。これらを参照しながら見学することで、より深く横須賀城の歴史を理解できます。

地図とアクセス情報

横須賀城跡の所在地

住所
静岡県掛川市西大渕5298-1(横須賀城跡)

横須賀城跡は掛川市の南部、旧横須賀町の中心部に位置しています。周辺には城下町の面影を残す街並みが広がり、歴史散策に適した環境となっています。

交通アクセス

公共交通機関を利用する場合

  • JR東海道本線「掛川駅」から静鉄バス「横須賀車庫行き」に乗車、「横須賀」バス停下車、徒歩約5分
  • 掛川駅からタクシーを利用する場合、約20分

自動車を利用する場合

  • 東名高速道路「掛川IC」から国道1号線経由で約15分
  • 東名高速道路「菊川IC」から県道37号線経由で約20分

駐車場
横須賀城跡周辺には無料駐車場が整備されています。ただし、台数に限りがあるため、休日などは早めの到着をおすすめします。

見学情報

見学時間
横須賀城跡は公園として整備されており、基本的に自由に見学できます。ただし、夜間の見学は安全のため避けることをおすすめします。

見学料金
無料

所要時間
城跡全体をゆっくり見学する場合、約1時間程度が目安です。周辺の城下町散策を含めると、2時間程度の時間を確保すると良いでしょう。

周辺の観光スポット

掛川城

横須賀城から車で約15分の距離にある掛川城は、東海の名城として知られています。天守が木造で復元されており、内部を見学することができます。横須賀城と合わせて訪れることで、遠江国の城郭の歴史をより深く理解できます。

高天神城跡

横須賀城築城の契機となった高天神城跡も、掛川市内に位置しています。武田氏と徳川氏の激しい攻防戦の舞台となったこの城跡は、山城の遺構がよく残されており、戦国時代の山城を体感できます。

横須賀城、掛川城、高天神城の三城を巡ることで、戦国時代から江戸時代にかけての遠江国の歴史を総合的に学ぶことができます。

横須賀の城下町

横須賀城跡周辺には、かつての城下町の面影を残す街並みが広がっています。古い商家や寺社が点在し、歴史散策に最適です。特に旧東海道沿いには、江戸時代の宿場町の雰囲気が残されています。

横須賀城の歴史的意義

戦国時代末期の軍事拠点として

横須賀城は、戦国時代末期における徳川氏の遠江支配を象徴する城郭です。高天神城攻略のための付城として築かれながら、その後は地域支配の中核拠点として発展しました。

この城の存在により、徳川家康は遠江南部の支配を固め、最終的には武田氏を駆逐することに成功しました。横須賀城の築城と運用は、家康の戦略眼の鋭さを示す好例と言えます。

近世城郭への過渡期を示す遺構

横須賀城は、中世山城から近世平城への移行期の姿を示す貴重な遺構です。松尾山の山城部分と平地の城郭部分が組み合わされた構造は、この時代の城郭建築の特徴をよく表しています。

また、玉石積みという独特な石垣技法も、当時の技術的試行錯誤を示すものとして、城郭研究において重要な資料となっています。

地域の文化的中心として

江戸時代を通じて、横須賀城は単なる軍事拠点ではなく、地域の政治・経済・文化の中心として機能しました。城下町の発展により、商業が栄え、多くの人々が集まる場所となりました。

現在でも、横須賀城跡は掛川市における重要な文化財であり、地域のアイデンティティの一部となっています。年間を通じて多くの観光客が訪れ、地域の歴史と文化を学ぶ場となっています。

お問い合わせ先

横須賀城跡の見学や整備状況に関するお問い合わせは、以下にご連絡ください。

掛川市観光振興係(産業観光課)
電話:0537-21-1121(代表)
ウェブサイト:掛川市公式観光サイト

最新の整備状況やイベント情報については、掛川市の公式ウェブサイトをご確認ください。

まとめ

横須賀城は、徳川家康が武田氏との戦いにおいて築いた重要な拠点であり、独特な玉石積みの石垣と「両頭の城」という異名で知られる貴重な史跡です。天正6年(1578年)の築城から明治元年(1868年)の廃城まで、288年間にわたり20代の城主を数え、遠江南部の政治・経済・文化の中心として機能しました。

現在は国の史跡に指定され、掛川市による継続的な整備が行われています。天竜川から運ばれた玉石を用いた独特な石垣は、他の城郭では見られない貴重な遺構であり、訪れる人々に強い印象を与えています。

掛川市を訪れる際には、ぜひ横須賀城跡に足を運び、戦国時代から江戸時代にかけての遠江の歴史を体感してください。周辺の掛川城や高天神城跡と合わせて巡ることで、より深く地域の歴史を理解することができるでしょう。

地図

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