樫原城(岐阜県)

樫原城(岐阜県)
所在地 〒503-1623 岐阜県大垣市上石津町上多良865

樫原城(岐阜県)完全ガイド:戦国時代後半の山城と明智光秀生誕地伝承の謎

樫原城とは:令和2年に確認された戦国時代後半の山城

樫原城(かしはらじょう)は、岐阜県大垣市上石津町上多良に位置する戦国時代後半の山城跡です。令和2年(2020年)1月に実施された岐阜県の調査により、「戦国時代後半の山城」として正式に確認され、同年7月に岐阜県が登録した城跡となりました。

津島神社の裏山に築かれたこの城は、長らくその詳細が不明でしたが、近年の調査によって土塁、虎口、切岸などの明確な遺構が確認され、戦国時代の城郭としての姿が明らかになってきました。また、史料には記載があるものの位置が特定されていなかった「多羅城」の候補地の一つとされており、歴史研究の観点からも注目を集めています。

樫原城の歴史:永禄年間の記録と豊臣秀吉の長島攻め

地域に伝わる古記録の記述

樫原城に関する歴史的記録は限られていますが、地域に伝わる古い記録には重要な記述が残されています。それによると「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた」とあり、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が伊勢長島の一向一揆攻めの際に、この地を陣地として利用した可能性が示唆されています。

永禄年間(1558年~1570年)は、織田信長が美濃を平定し、岐阜城を拠点として勢力を拡大していた時期と重なります。この時代背景を考えると、樫原城は織田氏の勢力圏における重要な軍事拠点だった可能性があります。

三輪三人衆と佐渡の存在

同じ記録には「永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ」という記述もあります。三輪三人衆とは、この地域で勢力を持っていた土豪集団と考えられ、その一人である佐渡という人物が樫原に居住していたことが記されています。

この記述から、樫原城は単なる臨時の陣城ではなく、地域の有力者が居館として使用していた可能性も考えられます。戦国時代の美濃国では、織田氏の勢力拡大に伴い、多くの土豪が織田方に従属していった歴史があり、樫原城もその流れの中に位置づけられるでしょう。

陣城(付城)としての可能性

遺構の状態や規模から、樫原城は陣城(付城)として使用された可能性も専門家から指摘されています。陣城とは、敵城を攻める際に一時的に築かれる軍事拠点で、戦国時代には各地で築かれました。

秀吉の長島攻めに関連する陣城であった場合、織田軍の軍事作戦における戦略的位置を示す重要な遺跡となります。上石津地域は美濃と伊勢を結ぶ交通の要衝であり、軍事的にも重要な地点でした。

多羅城との関係:位置不明の城の候補地として

樫原城は、西高木家陣屋、城ケ平城とともに、史料には記載があるものの位置が特定されていない「多羅城」の候補地とされています。多羅城は上石津地域に存在したとされる城ですが、その正確な位置については長年議論が続いてきました。

岐阜県や地元研究者による調査が進められており、樫原城跡で発見された遺構の特徴や規模、立地条件などから、多羅城との関連性が検討されています。この謎の解明は、美濃国西部の戦国史を理解する上で重要な意味を持っています。

明智光秀生誕地伝承:各地に残る光秀ゆかりの地の一つ

樫原城は、明智光秀生誕の地の候補地の一つとしても知られています。明智光秀の出生地については、岐阜県内だけでも可児市の明智城、恵那市の明智城など複数の候補地があり、確定的な証拠はありません。

樫原地域に光秀生誕地伝承が残る背景には、明智氏と美濃国との深い関係があります。明智氏は美濃国の土岐氏に仕えた一族であり、光秀自身も若い頃は美濃で過ごしたとされています。上石津地域も土岐氏の勢力圏内であったことから、この地に明智氏ゆかりの伝承が残ることは不自然ではありません。

ただし、歴史学的に確実な証拠があるわけではなく、あくまで地域の伝承として理解する必要があります。それでも、明智光秀というビッグネームとの関連は、樫原城の歴史的ロマンを高める要素となっています。

樫原城の構造と遺構:土塁・虎口・切岸の詳細

城址の立地と縄張り

樫原城は津島神社の裏山、標高約200メートル前後の丘陵地に築かれています。この立地は、周辺を見渡せる視界の良さと、防御に適した地形を兼ね備えています。城の規模は中小規模の山城で、戦国時代後半の典型的な地方城郭の特徴を示しています。

縄張り(城の設計)は、地形を巧みに利用した構造となっており、自然の起伏を防御に活かす工夫が随所に見られます。主郭を中心に、複数の曲輪(くるわ:平坦地)が配置されていたと考えられています。

土塁の特徴

樫原城跡では、明確な土塁の痕跡が確認されています。土塁は、土を盛り上げて築いた防御施設で、敵の侵入を防ぐとともに、城内からの視界を確保する役割を果たしました。

残存する土塁の高さや形状から、この城が一定期間使用され、維持管理されていたことが推測されます。土塁の構築には多くの労働力が必要であり、この地域を支配していた勢力の経済力や動員力を示す証拠でもあります。

虎口(出入口)の構造

虎口は城の出入口部分で、最も防御を固める必要がある場所です。樫原城跡では、虎口の遺構も確認されており、その構造から戦国時代後半の築城技術を読み取ることができます。

虎口の配置や形状は、敵の侵入を困難にするよう工夫されており、防御重視の設計思想が反映されています。このような遺構の存在は、樫原城が単なる見張り台ではなく、実戦を想定した軍事施設であったことを示しています。

切岸の確認

切岸(きりぎし)とは、斜面を人工的に削って急峻にした防御施設です。樫原城跡でも切岸が確認されており、自然地形を改変して防御力を高めていたことが分かります。

切岸の存在は、この城が計画的に築かれたことを示す重要な証拠です。戦国時代の山城では、地形を最大限に活用しながら、必要に応じて人工的な改変を加えることで、効率的な防御システムを構築していました。

津島神社との関係:城址の現状と保存

樫原城跡は、現在は津島神社の裏山に位置しています。津島神社は地域の信仰の中心として、長い歴史を持つ神社です。城跡と神社が隣接している例は全国各地に見られ、城が廃城となった後、その跡地や周辺に神社仏閣が建立されるケースは珍しくありません。

津島神社の存在により、城跡の一部は境内地として保護されてきました。これは結果的に、遺構の保存に貢献しています。ただし、神社の整備や参道の設置などにより、一部の遺構が改変されている可能性もあります。

現在、城跡は津島神社を訪れる参拝者や、城郭ファンが訪問できる状態にあり、地域の歴史資源として活用されつつあります。

周辺の歴史スポットと関連する城郭

上石津郷土資料館

樫原城跡を訪れる際には、上石津郷土資料館の見学もおすすめです。この資料館では、上石津地域の歴史や文化に関する展示が行われており、樫原城を含む地域の城郭に関する資料も収蔵されています。

資料館では、戦国時代の上石津地域の様子や、関ヶ原の戦いとの関連など、この地域の歴史的背景を学ぶことができます。樫原城跡を訪問する前に資料館で予備知識を得ることで、現地での理解が深まるでしょう。

城ケ平城

城ケ平城も、樫原城と同様に多羅城の候補地とされている城跡です。同じ上石津地域に位置し、樫原城とは数キロメートルの距離にあります。両城を比較することで、この地域の城郭ネットワークや防衛システムを理解する手がかりが得られます。

西高木家陣屋

西高木家陣屋は、江戸時代に旗本高木氏の陣屋が置かれた場所です。戦国時代の城郭とは時代が異なりますが、同じ上石津地域の歴史を物語る重要な史跡です。高木氏は関ヶ原の戦い後にこの地を治めた一族で、地域史において重要な役割を果たしました。

関ヶ原古戦場との関連

上石津地域は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも関連があります。特に島津豊久が戦死したとされる場所が上石津町内にあり、関ヶ原の戦いの際には、この地域も戦場の一部となりました。

樫原城が関ヶ原の戦いの際に使用されたかどうかは不明ですが、地理的に近いことから、何らかの形で関わっていた可能性も考えられます。

アクセス情報:樫原城跡への行き方

基本情報

住所: 〒503-1623 岐阜県大垣市上石津町上多良891(津島神社)

営業時間: 見学自由(ただし、神社の参拝時間に準じることが望ましい)

料金: 無料

公共交通機関でのアクセス

公共交通機関を利用する場合、養老鉄道「美濃津屋駅」が最寄り駅となりますが、駅から城跡までは相当な距離があります。駅からはバスまたはタクシーの利用が必要です。

大垣市コミュニティバスが上石津地域を運行していますが、本数が限られているため、事前に時刻表を確認することをおすすめします。バス停「上多良」下車後、徒歩で津島神社を目指します。

自動車でのアクセス

自動車でのアクセスが最も便利です。名神高速道路「関ヶ原IC」または「大垣IC」から、国道365号線を経由して上石津方面へ向かいます。関ヶ原ICからは約30分、大垣ICからは約40分程度です。

津島神社には参拝者用の駐車スペースがありますが、規模は大きくないため、譲り合って利用しましょう。

訪問時の注意点

城跡は山林内にあるため、訪問の際は以下の点に注意してください:

  • 服装: 歩きやすい靴と長袖長ズボンを推奨(虫刺され防止)
  • 季節: 春から秋にかけてが訪問に適していますが、夏場は虫除けスプレー必携
  • 天候: 雨天時や雨上がりは足元が滑りやすいため注意
  • 装備: 懐中電灯、飲料水、地図またはGPS機能付きスマートフォン
  • マナー: 私有地や神社の敷地を通る場合は、礼儀を守って見学

樫原城の見どころと城郭ファンへのアドバイス

遺構観察のポイント

樫原城跡を訪れる際の見どころは、何といっても良好に残る土塁や虎口、切岸などの遺構です。これらは戦国時代の築城技術を直接観察できる貴重な資料です。

特に注目すべきは、地形を巧みに利用した縄張りです。自然の起伏をどのように防御に活かしているか、現地で地形を観察しながら考えることで、戦国時代の城郭設計思想を体感できます。

写真撮影のおすすめスポット

津島神社の境内から城跡方面を撮影すると、神社と城跡の関係性が分かる構図になります。また、城跡からの眺望も撮影ポイントとして優れており、この地が見晴らしの良い場所に築かれたことを実感できます。

遺構の撮影では、土塁の断面や切岸の角度など、防御施設の特徴が分かるアングルを意識すると良いでしょう。

他の美濃の城郭との比較

岐阜県内には、岐阜城、大垣城、岩村城、郡上八幡城、苗木城など、多くの著名な城があります。樫原城はこれらの大規模城郭とは異なり、地方の中小規模山城の典型例として価値があります。

美濃国の城郭史を理解する上で、大城郭だけでなく、樫原城のような地方城郭も重要な役割を果たしていました。複数の城を訪問し比較することで、戦国時代の城郭ネットワークや地域支配の実態が見えてきます。

今後の調査と保存への期待

樫原城跡は令和2年に正式に確認されたばかりで、今後さらなる調査研究が期待されています。発掘調査が実施されれば、出土遺物から城の使用時期や性格がより明確になる可能性があります。

多羅城との関係、明智光秀生誕地伝承の真偽、秀吉の長島攻めとの関連など、未解明の謎も多く残されています。これらの謎の解明は、美濃国の戦国史研究に新たな知見をもたらすでしょう。

地域住民や行政による保存活動も重要です。遺構の適切な保護と、歴史資源としての活用のバランスを取りながら、次世代に樫原城跡を継承していくことが求められています。

まとめ:樫原城が語る戦国美濃の歴史

樫原城(岐阜県)は、戦国時代後半の山城として、美濃国西部の歴史を今に伝える貴重な史跡です。令和2年の調査により正式に確認されたこの城は、土塁、虎口、切岸などの遺構が良好に残り、当時の築城技術を直接観察できます。

永禄年間の記録に残る豊臣秀吉の長島攻めとの関連、三輪三人衆の一人である佐渡の居住、多羅城候補地としての可能性、明智光秀生誕地伝承など、多くの歴史的興味を持つ城跡です。

岐阜県大垣市上石津町の津島神社裏山に位置し、アクセスは自動車が便利です。城郭ファンだけでなく、歴史愛好家、ハイキング愛好者にもおすすめの訪問地です。周辺には上石津郷土資料館や関ヶ原古戦場関連の史跡もあり、合わせて訪問することで、この地域の豊かな歴史を体感できるでしょう。

今後の調査研究により、樫原城の歴史的位置づけがさらに明確になることが期待されます。岐阜県の隠れた歴史遺産として、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

地図

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