飯山城(鳥取県米子市)

飯山城(鳥取県米子市)
所在地 〒683-0824 鳥取県米子市久米町182

飯山城(鳥取県米子市)完全ガイド|歴史・遺構・米子城騒動の舞台を徹底解説

飯山城とは

飯山城(いいのやまじょう)は、鳥取県米子市久米町に所在する戦国時代から江戸時代初期にかけて存在した平山城です。標高約60メートルの飯山に築かれたこの城は、米子城の東側、国道9号線を挟んだ対岸に位置し、米子城の三の丸または出丸として重要な役割を果たしました。

別名として「采女丸(うねめまる)」「久米城」「東之丸」などとも呼ばれ、伯耆国と出雲国の国境に近い戦略的要衝として、中世から近世にかけて数々の歴史的事件の舞台となりました。

現在、飯山の山頂部は公園として整備されており、石垣や曲輪などの遺構が残されています。米子城跡とともに国の史跡に指定されており、山陰地方の中世山城を知る上で貴重な文化財となっています。

飯山城の歴史

応仁の乱と築城の始まり

飯山城の築城時期については、応仁の乱から文明年間(1467年~1487年)にかけてとされています。この時期、伯耆国守護代尼子氏と伯耆守護山名氏との間で激しい合戦が繰り広げられていました。

文明2年(1470年)頃、山名宗之によって伯耆・出雲国境の警備を目的とした砦として築かれたのが飯山城の始まりとされています。当時の飯山は湊山と山続きであり、国境防衛の最前線基地として機能していました。

戦国時代の変遷

戦国時代に入ると、飯山城は山名氏、尼子氏、毛利氏といった中国地方の有力大名の争奪戦の舞台となりました。伯耆・出雲国境という地理的重要性から、各勢力にとって確保すべき拠点として認識されていたのです。

特に尼子氏と毛利氏の抗争期には、この地域の支配権をめぐって激しい攻防が繰り返されました。飯山城は小規模ながらも、国境監視と緊急時の防御拠点として戦略的価値を持ち続けました。

吉川広家による米子城整備と飯山城の役割

天正19年(1591年)、毛利氏の重臣である吉川広家が米子城主となると、飯山城にも大きな転機が訪れます。吉川広家は米子城の大規模な普請(改修工事)を実施し、その際に飯山城の増強も指示しました。

この時期の書状には、飯山城の強化に関する記述が見られ、米子城の防衛体制の一環として飯山城が重視されていたことが分かります。湊山の米子城本丸から見て東側に位置する飯山城は、「東之丸」として米子城の出丸的な機能を担うようになりました。

中村氏時代と米子城騒動

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、米子城は中村一忠の所領となりました。しかし、慶長8年(1603年)11月、飯山城の歴史上最も劇的な事件が発生します。これが「米子城騒動」または「中村騒動」と呼ばれる事件です。

家老横田内膳村詮が主君中村一忠によって暗殺されると、横田氏一族とその支持者たちが反旗を翻し、飯山城に立て籠もりました。横田方は飯山の地形を活かして抵抗を続け、激しい戦闘が繰り広げられました。

この騒動では、柳生宗矩の父である柳生宗厳(石舟斎)が中村方の軍師として参戦し、奮戦したという記録も残されています。最終的には横田方は鎮圧されましたが、この事件は米子藩の歴史における重大事件として語り継がれています。

江戸時代以降

米子城騒動後、飯山城は軍事拠点としての機能を徐々に失っていきました。江戸時代の泰平の世においては、本格的な城郭としての維持は行われず、遺構が残される形となりました。

明治維新後、城跡は地元の管理下に置かれ、現在では公園として整備されています。米子城跡とともに、米子市の重要な歴史遺産として保存されています。

飯山城の縄張りと遺構

立地と地形

飯山城は標高約60メートルの飯山山頂に築かれた平山城です。比高(山麓からの高さ)は約50メートルで、決して高い山ではありませんが、周辺を見渡せる戦略的位置にあります。

米子城のある湊山(標高約90メートル)とは国道9号線を挟んで向かい合う位置関係にあり、両城が連携して米子の防衛を担う構造となっていました。中海に近い立地も、水運を利用した物資輸送や情報伝達において有利に働きました。

曲輪の配置

飯山城の縄張りは、山頂部を中心に複数の曲輪(くるわ)が配置されています。主郭(本丸に相当)は山頂の平坦部に設けられ、その周囲に二の曲輪、三の曲輪が階段状に配置される典型的な山城の構造を持ちます。

各曲輪は比較的小規模ですが、急峻な地形を活かした防御性の高い配置となっています。曲輪間の高低差を利用することで、少数の兵力でも効果的な防衛が可能な設計となっていました。

石垣の特徴

飯山城の見どころの一つが、各所に残る石垣です。中世の山城としては比較的しっかりとした石垣が確認でき、特に吉川広家による改修時に構築されたと考えられる部分には、近世城郭に通じる技術が見られます。

石垣は野面積み(のづらづみ)と呼ばれる、自然石をそのまま積み上げる工法が主体ですが、一部には加工された石材も使用されており、時代による技術の変遷を観察できます。石垣の高さは場所によって異なりますが、最も高い部分では3~4メートル程度の規模があります。

堀切と土塁

山城の防御施設として重要な堀切(ほりきり)も複数箇所で確認できます。堀切は尾根を断ち切るように掘られた空堀で、敵の侵入を阻む役割を果たしました。

また、曲輪の周囲には土塁が巡らされており、その一部は現在も良好な状態で残されています。土塁の上には柵や塀が設けられていたと考えられ、防御力を高めていました。

虎口(出入口)

城への出入口である虎口(こぐち)の遺構も確認されています。虎口は敵の侵入を防ぐため、あえて複雑な構造とされることが多く、飯山城でも屈曲した通路や石積みによる狭隘部が設けられていた痕跡が残ります。

現在の飯山城跡

公園としての整備

現在、飯山城跡は飯山公園として整備されており、市民の憩いの場となっています。登山道が整備されているため、比較的容易に山頂まで到達でき、歴史散策を楽しむことができます。

山頂からは米子市街地や中海、さらには湊山の米子城跡を一望でき、かつての城の立地の良さを実感できます。天気の良い日には大山も望むことができ、眺望の素晴らしさも飯山城跡の魅力の一つです。

遺構の保存状態

飯山城跡の遺構は、中世山城としては比較的良好な保存状態にあります。石垣、曲輪、堀切などの主要な遺構が確認でき、往時の城の姿を偲ぶことができます。

特に主郭周辺の石垣は見応えがあり、城郭ファンにとっては必見のポイントとなっています。ただし、一部は崩落や風化が進んでいる箇所もあり、継続的な保存活動が重要となっています。

案内板と解説

城跡には解説板が設置されており、飯山城の歴史や縄張りについて学ぶことができます。米子城騒動についての詳しい説明もあり、この地で起こった歴史的事件について理解を深めることができます。

米子城との関係

米子城の出丸としての機能

飯山城は米子城の防衛体制において「東之丸」または「采女丸」として、出丸的な役割を担っていました。出丸とは本城から離れた位置に設けられる防御拠点で、敵の攻撃を分散させたり、本城への接近を阻んだりする機能を持ちます。

湊山の米子城本丸から見て東側に位置する飯山城は、東方面からの敵に対する前哨基地として機能し、米子城全体の防御力を高めていました。両城は視認できる距離にあり、のろしや旗による連絡も可能だったと考えられます。

一体的な城郭システム

吉川広家による米子城整備の際、飯山城も含めた一体的な城郭システムとして設計されました。湊山の本丸、二の丸、三の丸に加え、飯山の出丸が連携することで、広範囲をカバーする防御網が構築されたのです。

このような複数の山を利用した城郭配置は、中国地方の山城に見られる特徴的な構造であり、地形を最大限に活かした戦国時代の築城技術の高さを示しています。

国史跡指定

平成18年(2006年)1月26日、飯山城跡は米子城跡の一部として国の史跡に指定されました。この指定により、湊山の米子城本体と飯山城が一体の城郭遺跡として認識され、保存と活用が図られています。

史跡指定範囲には、湊山の主要部分と飯山城跡が含まれており、戦国末期から近世初期にかけての城郭の変遷を知る上で貴重な資料となっています。

米子城騒動の詳細

事件の背景

慶長8年(1603年)に発生した米子城騒動は、家臣団の対立が武力衝突に発展した事件です。中村一忠は若年で米子城主となりましたが、家老の横田内膳村詮が実権を握っていました。

しかし、一忠の成長とともに両者の関係は悪化し、最終的に一忠は横田内膳を暗殺するという強硬手段に出ました。この暗殺が引き金となり、横田氏一族と支持者たちが飯山城に立て籠もって反乱を起こしたのです。

飯山城での攻防

横田方が飯山城に籠城すると、中村一忠側は城の包囲と攻撃を開始しました。飯山城は小規模ながらも堅固な山城であり、横田方は地の利を活かして激しく抵抗しました。

この戦いには、剣豪として知られる柳生宗厳(石舟斎)が中村方の軍師として参戦したという記録があります。柳生の奮戦もあり、最終的には横田方は鎮圧されましたが、双方に多くの犠牲者を出す激戦となりました。

事件の影響

この騒動により、中村氏の米子藩は大きく動揺しました。幕府もこの事態を重く見て、事件後の処理に介入しています。中村一忠自身も慶長14年(1609年)に若くして死去し、中村氏の米子支配はわずか9年で終わりを告げました。

米子城騒動は、江戸時代初期の大名家における家臣団統制の難しさを示す事例として、歴史的にも重要な事件とされています。

飯山城へのアクセスと見学情報

アクセス方法

電車でのアクセス:

  • JR山陰本線「米子駅」から徒歩約20分
  • または米子駅からタクシーで約5分

車でのアクセス:

  • 山陰自動車道「米子IC」から約10分
  • 米子市街地から国道9号線経由で約5分
  • 駐車場:近隣に公共駐車場あり(米子城跡駐車場を利用可能)

見学のポイント

所要時間: 登山口から山頂まで徒歩約15~20分、見学を含めて1時間程度

見どころ:

  1. 山頂の主郭跡と石垣
  2. 各曲輪の配置と構造
  3. 堀切や土塁などの防御施設
  4. 山頂からの眺望(米子城跡、中海、米子市街)

注意事項:

  • 山道のため、歩きやすい靴での訪問を推奨
  • 雨天時は足元が滑りやすくなるため注意
  • 夏季は虫除け対策が必要
  • 石垣は崩落の危険があるため、近づきすぎないよう注意

周辺の見どころ

飯山城跡を訪れた際には、ぜひ米子城跡も合わせて見学することをお勧めします。両城を巡ることで、米子の城郭システム全体を理解することができます。

また、米子市街地には米子城下町の町並みや、米子市立山陰歴史館などの歴史関連施設もあり、米子の歴史をより深く学ぶことができます。

飯山城の歴史的意義

伯耆・出雲国境の要衝

飯山城の最大の歴史的意義は、伯耆国と出雲国の国境に位置する戦略的要衝であったという点です。中世から近世初期にかけて、この地域は山名氏、尼子氏、毛利氏といった有力大名の勢力圏の境界であり、飯山城はその最前線に位置していました。

国境の監視と防衛という重要な役割を担った飯山城は、小規模ながらも地域の政治・軍事情勢に大きな影響を与える存在でした。

中世山城から近世城郭への過渡期

飯山城は、中世的な山城から近世的な城郭への過渡期の姿を示す貴重な遺跡です。応仁の乱期に築かれた砦が、戦国時代を経て吉川広家による改修で近世城郭の一部として整備される過程は、日本の城郭史における重要な変遷を物語っています。

石垣の構築技術や曲輪の配置などに、時代による変化が見て取れることも、城郭研究上の重要なポイントとなっています。

米子城騒動の歴史的舞台

米子城騒動という江戸時代初期の重要事件の舞台となったことも、飯山城の歴史的価値を高めています。この事件は、戦国時代から泰平の世への移行期における武士社会の緊張関係を示す典型例として、歴史学的にも注目されています。

飯山城跡を訪れることで、この劇的な歴史事件の現場に立ち、当時の緊迫した状況を想像することができます。

まとめ

飯山城は、鳥取県米子市久米町に所在する歴史豊かな平山城跡です。応仁の乱期の文明年間に山名氏によって築かれた砦に始まり、戦国時代を通じて伯耆・出雲国境の重要拠点として機能しました。

吉川広家による米子城整備の際には出丸として増強され、米子城の防衛体制の一翼を担いました。慶長8年(1603年)の米子城騒動では、家老横田内膳村詮の一族が籠城して主君中村一忠に反旗を翻すという劇的な事件の舞台となりました。

現在は公園として整備され、石垣、曲輪、堀切などの遺構が良好に保存されています。標高約60メートル、比高約50メートルの飯山山頂からは米子市街や中海を一望でき、かつての城の戦略的重要性を実感できます。

米子城跡とともに国の史跡に指定されている飯山城跡は、中世から近世への移行期における城郭の変遷を示す貴重な文化財であり、山陰地方の歴史を学ぶ上で欠かせない史跡となっています。米子を訪れた際には、ぜひこの歴史ロマンあふれる城跡を訪ねてみてください。

地図

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