都於郡城(宮崎県)

都於郡城(宮崎県)
所在地 日本、〒881-0104 宮崎県西都市鹿野田
公式サイト http://www.city.saito.lg.jp/post_278.html

都於郡城(宮崎県):伊東氏の栄華を今に伝える西国最大級の中世山城

宮崎県西都市に位置する都於郡城(とのこおりじょう)は、南北朝時代から戦国時代にかけて日向国(現在の宮崎県)を支配した伊東氏の本拠地として栄えた山城です。東西約2キロメートル、南北約1キロメートルという西国屈指の規模を誇り、総延長約4キロメートルに及ぶ水堀や池で囲まれた中世式城郭の典型的な様式を今に伝えています。平成12年(2000年)9月6日に国の史跡に指定され、日本の中世城郭史を語る上で欠かせない重要な遺跡となっています。

都於郡城の歴史:伊東氏242年の栄華

築城の経緯と伊東氏の日向下向

都於郡城の歴史は、南北朝時代の建武2年(1335年)または建武4年(1337年)に遡ります。足利尊氏の命を受けて伊豆国(現在の静岡県)から日向国に下向した伊東祐持(すけもち)が、高屋山上陵伝承地のある都於郡の地に築城したのが始まりとされています。

伊東氏はもともと工藤氏の一族で、伊豆国伊東荘を本拠としていた名門武家でした。南北朝の動乱期に足利尊氏から日向国の統治を任されたことで、遠く九州の地へと移ることになったのです。この時、伊東祐持が選んだ築城地が、一ツ瀬川の支流である三財川右岸の標高約100メートルから105メートルの台地上でした。

伊東氏の全盛期と日向支配

都於郡城を本拠地とした伊東氏は、以来242年間にわたって日向国中央部を支配し続けました。特に戦国時代には「伊東四十八城」と呼ばれる支城網を築き上げ、日向国における一大勢力として君臨しました。都於郡城はその中心として、政治・軍事・経済の拠点となり、城下には侍屋敷、寺社地、町人地などが整備され、一つの城下町として繁栄を極めました。

伊東氏の勢力は最盛期には日向国のほぼ全域に及び、宮崎平野から都城盆地にかけての広大な地域を支配下に置いていました。都於郡城はその権力の象徴として、また実質的な統治機構として機能していたのです。

島津氏との抗争と落城

伊東氏の栄華に終止符を打ったのは、南九州の覇者・島津氏でした。天正5年(1577年)、当時の当主・伊東義祐は宿敵である島津義久との戦いで敗北を喫します。特に木崎原の戦いでの大敗は決定的で、伊東義祐は日向国を捨てて豊後国(現在の大分県)の大友宗麟のもとへ逃れることを余儀なくされました。

この「伊東崩れ」と呼ばれる事件により、都於郡城は島津氏の支配下に入ります。以後、島津氏の日向支配の拠点の一つとして利用されましたが、かつての伊東氏時代のような繁栄を取り戻すことはありませんでした。

廃城とその後

江戸時代に入ると、慶長20年(1615年)に江戸幕府が発布した一国一城令により、都於郡城は正式に廃城となりました。以後、城郭としての機能は完全に失われ、長い年月を経て遺構は自然に還っていきました。しかし、その壮大な規模と独特の構造は地形として残り続け、現代においても往時の姿を偲ぶことができる貴重な史跡となっています。

都於郡城の構造と特徴:五城郭からなる大規模城郭

五城郭(主体部)の配置

都於郡城の最大の特徴は、「五城郭」と呼ばれる5つの主要な郭(曲輪)で構成されている点です。都於郡台地の北西端に位置する主体部には、以下の五城郭が配置されています。

本丸(中心郭):城の中核をなす最も重要な郭で、城主の居館や政庁が置かれていたと考えられています。標高約105メートルの台地上に位置し、周囲を深い堀切で守られています。

二ノ丸:本丸に次ぐ重要な郭で、本丸を補佐する機能を持っていました。重臣の屋敷や軍事施設が配置されていたと推定されます。

三ノ丸:さらに外側に配置された郭で、防御機能を強化するとともに、多くの家臣の居住空間として利用されていたと考えられます。

奥ノ城:本丸の背後(奥)に位置する郭で、最終防衛拠点としての役割を担っていました。緊急時の退避場所としても機能したと推測されます。

西ノ城:西側に配置された郭で、西方からの敵に対する防御を担当していました。

これら五城郭は有機的に連携し、互いに補完し合う防御システムを構築していました。各郭は堀切や土塁で区切られ、独立した防御単位としても機能できる設計になっています。

出城群による防御網

五城郭からなる主体部の周辺には、複数の出城が配置されていました。特に重要なのが以下の3つの出城です。

東ノ城:主体部の東側に位置し、東方からの敵に対する前線基地として機能しました。三財川の対岸を監視する役割も担っていたと考えられます。

向ノ城:南側に配置された出城で、南方からの侵入路を封鎖する重要な拠点でした。現在の国道325号線沿いに位置しています。

南城:都於郡城の南側に立地した出城で、向ノ城とともに南方防衛を担当していました。現在は畑の上の台地となっていますが、かつての城域の痕跡が残っています。

これらの出城は、主体部である五城郭を守る外郭防衛線として機能し、敵の接近を早期に察知し、主城への攻撃を遅延させる役割を果たしていました。

惣構えの規模と水堀システム

都於郡城の最も特筆すべき点は、その壮大な「惣構え」(総構え)です。惣構えとは、城の中心部だけでなく、侍屋敷、寺社地、町人地などの城下町全体を防御施設で囲い込む構造を指します。

都於郡城の惣構えは東西約2キロメートル、南北約1キロメートルという広大な範囲に及び、これは西国(西日本)でも指折りの規模を誇ります。この広大な領域は総延長約4キロメートルに及ぶ水堀や池で囲まれており、自然の地形を巧みに利用した防御システムが構築されていました。

三財川の水を引き込んだ水堀は、敵の侵入を物理的に阻むだけでなく、城内への水の供給源としても機能していました。また、複数の池が配置され、これらも防御と生活用水の確保という二重の目的を果たしていたのです。

別名「浮船城」の由来

都於郡城は「浮船城」という美しい別名でも知られています。この名称は、広大な水堀や池に囲まれた城の姿が、まるで水面に浮かぶ船のように見えたことに由来すると言われています。

特に雨季や増水時には、三財川から引き込んだ水で水堀が満たされ、台地上の城郭部分が文字通り水に浮かぶ島のように見えたことでしょう。この景観は、城の防御機能を高めると同時に、伊東氏の権威と美意識を象徴するものでもありました。

都於郡城の現在:国指定史跡として

史跡指定と保存状況

都於郡城跡は、平成12年(2000年)9月6日に国の史跡に指定されました。指定地は宮崎県西都市大字荒武字都於郡ほかで、主体部である五城郭を中心とした範囲が保護されています。

現在、城跡の多くは農地や山林となっていますが、主要な遺構は良好な状態で保存されています。特に本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城の五城郭の配置は地形として明瞭に残っており、堀切や土塁、郭の形状などを確認することができます。

西都市では史跡の保存と活用に力を入れており、遺構の調査研究、保存整備、そして見学者のための環境整備が進められています。案内板や説明板が設置され、訪問者が城の歴史と構造を理解しやすいよう配慮されています。

アクセスと見学情報

都於郡城跡は西都市街地の南西約5.9キロメートルに位置しています。国見山を源流とする三財川の流末が北に向かう地点の東側に展開する都於郡台地の北西端が主体部となります。

車でのアクセスが便利で、宮崎市内からは国道219号線などを利用して約40分程度です。城跡周辺には駐車スペースがあり、そこから徒歩で各遺構を見学することができます。

見学は基本的に自由ですが、一部は私有地となっているため、立ち入りには注意が必要です。また、山城特有の起伏のある地形のため、歩きやすい靴と服装での訪問が推奨されます。

遺構の見どころ

現地を訪れた際の主な見どころは以下の通りです。

五城郭の配置:本丸を中心とした五城郭の配置を実際に歩いて体感できます。各郭を区切る堀切や土塁は、当時の土木技術の高さを物語っています。

堀切と土塁:城郭を区切る深い堀切や、防御のために築かれた土塁が良好な状態で残っています。特に本丸周辺の堀切は深く、防御機能の高さを実感できます。

眺望:台地上に位置するため、周辺の眺望が優れています。三財川の流れや西都市街地、そして遠くの山々を望むことができ、この地が城を築くのに適した要害の地であったことが理解できます。

出城の位置関係:主体部から周辺の出城(東ノ城、向ノ城、南城など)の位置を確認することで、都於郡城全体の防御システムを理解することができます。

都於郡城と伊東四十八城

都於郡城は「伊東四十八城」の中核をなす城でした。伊東四十八城とは、伊東氏が日向国支配のために築いた支城網の総称で、実際には48以上の城が存在したと言われています。

これらの支城は、都於郡城を中心として放射状に配置され、領国全体を効率的に支配・防衛するネットワークを形成していました。各支城には伊東氏の一族や重臣が配置され、それぞれの地域の統治と防衛を担当していました。

主要な支城には、佐土原城、高岡城、穂北城、野尻城などがあり、これらは現在でも遺構が残る重要な史跡となっています。都於郡城を訪れる際には、これら周辺の支城も併せて見学することで、伊東氏の支配体制と中世日向国の歴史をより深く理解することができるでしょう。

都於郡城と日向国の歴史的文脈

都於郡城の歴史を理解するためには、日向国の歴史的文脈を知ることが重要です。日向国は古代から「神話の国」として知られ、天孫降臨の地とされる高千穂をはじめ、多くの神話伝承が残る地域です。

中世に入ると、日向国は南九州における重要な戦略拠点となりました。北からは大友氏、南からは島津氏という二大勢力に挟まれた位置にあり、常に緊張関係の中にありました。伊東氏はこの難しい状況の中で、巧みな外交と軍事力によって独立勢力としての地位を保ち続けたのです。

都於郡城が位置する西都市周辺は、古代には日向国府が置かれた地域でもあり、歴史的に日向国の中心地の一つでした。伊東氏がこの地を本拠地に選んだのは、こうした歴史的・地理的な重要性を認識してのことだったと考えられます。

中世城郭としての都於郡城の価値

都於郡城は、日本の中世城郭史において非常に重要な位置を占めています。その価値は以下の点に集約されます。

規模の壮大さ:東西2キロメートル、南北1キロメートルという惣構えの規模は、西国最大級であり、中世城郭としては全国的にも屈指の規模です。

構造の複雑さ:五城郭と複数の出城からなる多重防御システムは、中世山城の発展形態を示す好例です。単なる軍事施設ではなく、城下町を含む総合的な都市計画として設計されていた点も重要です。

水堀の活用:総延長4キロメートルに及ぶ水堀システムは、中世城郭における水利用の先進例として注目されます。自然の地形と水系を巧みに利用した設計は、当時の高度な土木技術を示しています。

保存状態の良さ:廃城から400年以上が経過していますが、主要な遺構が良好な状態で残っており、中世城郭の実態を研究する上で貴重な資料となっています。

歴史的連続性:242年間にわたって同一氏族(伊東氏)の本拠地であり続けたことで、中世を通じた城郭の発展過程を追跡できる稀有な事例となっています。

西都市と都於郡城:地域の歴史遺産として

都於郡城は、西都市を代表する歴史遺産の一つです。西都市には、日本最大級の古墳群である西都原古墳群(特別史跡)もあり、古代から中世にかけての歴史の重層性を体感できる貴重な地域となっています。

西都市では、都於郡城跡を含む歴史遺産を活用した観光振興や教育活動に力を入れています。西都市観光協会では城跡の見学ツアーやガイド付き散策などを企画し、訪問者が城の歴史と魅力をより深く理解できるよう努めています。

また、地元の小中学校では郷土学習の一環として都於郡城の歴史を学ぶ機会が設けられており、地域の歴史への理解と誇りを育む教育が行われています。毎年、地域住民による清掃活動や保存活動も実施され、地域全体で史跡を守り伝える取り組みが続けられています。

都於郡城を訪れる意義

都於郡城を訪れることは、単に古い城跡を見学するだけではありません。それは、南北朝時代から戦国時代にかけての激動の日本史、特に九州における戦国大名の興亡を肌で感じる体験となります。

広大な惣構えを実際に歩くことで、中世の人々がいかに壮大なスケールで都市計画を行っていたかを実感できます。五城郭の配置や堀切の深さを目の当たりにすることで、当時の軍事技術と防御思想を理解することができます。

また、台地上から望む日向の大地と空は、かつて伊東氏の当主たちが見た景色とそれほど変わっていないでしょう。その眺望の中に、242年間この地を支配した一族の栄華と、最後には島津氏に敗れて去らねばならなかった悲劇を重ね合わせることができます。

都於郡城は、宮崎県の歴史を語る上で欠かせない重要な史跡であり、日本の中世史を理解する上でも貴重な遺産です。西都市を訪れる際には、ぜひこの壮大な山城の遺構に足を運び、日向の歴史と文化の深さを体感していただきたいと思います。

まとめ

都於郡城(宮崎県西都市)は、南北朝時代から戦国時代にかけて日向国を支配した伊東氏の本拠地として、242年間にわたって栄えた西国最大級の中世山城です。東西2キロメートル、南北1キロメートルという壮大な惣構え、五城郭と複数の出城からなる複雑な防御システム、総延長4キロメートルに及ぶ水堀など、中世城郭の発展形態を示す貴重な史跡として、平成12年に国の史跡に指定されました。

現在も良好な状態で遺構が保存されており、訪問者は実際に城跡を歩きながら、中世日向国の歴史と伊東氏の栄華を体感することができます。宮崎県を代表する歴史遺産として、また日本の中世城郭史を理解する上で重要な史跡として、都於郡城は今後も多くの人々に歴史の重みと魅力を伝え続けることでしょう。

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