那古野城(名古屋市・愛知県)

那古野城(名古屋市・愛知県)
所在地 〒460-0032 愛知県名古屋市中区二の丸1−1 ボタン園

那古野城(名古屋市・愛知県)完全ガイド|織田信長誕生の城と名古屋城の前身

那古野城(なごやじょう)は、現在の愛知県名古屋市中区、名古屋城二の丸付近に存在した戦国時代の城です。今川氏親によって築城され、のちに織田信秀が奪取し、若き日の織田信長が城主を務めたことで知られています。現在は名古屋城の敷地内にわずかな痕跡を残すのみですが、尾張国の支配権をめぐる重要な舞台となった歴史的価値の高い城跡です。

那古野城の基本情報

所在地: 愛知県名古屋市中区本丸(名古屋城二の丸付近)
別名: 柳の丸
築城年代: 1521年(大永元年)頃
築城者: 今川氏親
城郭構造: 平城
主要城主: 今川氏親→織田信秀→織田信長
廃城年: 1555年(弘治元年)頃
現状: 名古屋城二の丸、石碑のみ

那古野城の歴史

今川氏による築城(1521年頃)

那古野城は、駿河国(現在の静岡県)の戦国大名・今川氏親によって1521年(大永元年)頃に築城されました。当時、今川氏は尾張国への勢力拡大を図っており、那古野城は尾張における前線基地として重要な役割を果たしていました。

今川氏親は今川義元の父にあたる人物で、駿河・遠江を統一し、さらに三河・尾張へと勢力を伸ばそうとしていました。那古野の地は、熱田台地の西端に位置し、水運の要衝でもあったため、軍事的・経済的に重要な拠点でした。

織田信秀による奪取(1532-1538年頃)

1532年から1538年頃にかけて、尾張国の有力武将であった織田信秀(織田信長の父)が那古野城を今川氏から奪い取りました。この経緯については複数の説があります。

一説には、信秀が計略を用いて城を奪取したとされています。信秀は今川氏豊(氏親の弟で那古野城の城代)に接近し、油断させたところで急襲したという伝承が残っています。また別の説では、武力による攻略が行われたとも言われています。

いずれにせよ、この那古野城の奪取により、織田信秀は尾張国内での地位を大きく高めることになりました。那古野城は信秀の居城となり、織田氏の本拠地として機能するようになります。

織田信長の居城時代(1534-1555年頃)

織田信秀は1534年(天文3年)に嫡男・吉法師(後の織田信長)を那古野城で誕生させたとされています。信長誕生の地については諸説ありますが、那古野城説が有力です。

1542年(天文11年)頃、織田信秀が古渡城(ふるわたりじょう)へ本拠を移すと、若き信長が那古野城の城主となりました。信長は13歳前後でこの城を任されたことになります。

信長は那古野城を拠点として青年期を過ごし、「尾張の大うつけ」と呼ばれながらも、やがて戦国の風雲児としての片鱗を見せ始めます。1551年(天文20年)に父・信秀が死去すると、信長は家督を継承し、織田家の当主となりました。

清須城への移転と廃城(1555年頃)

1555年(弘治元年)頃、織田信長は清須城(清洲城)へ本拠を移転しました。これにより那古野城は廃城となり、約30年間の歴史に幕を閉じました。

信長が清須城を選んだ理由は、より広大な平野部に位置し、尾張国全体を統治するのに適していたためと考えられています。那古野城は役割を終え、その後は荒廃していったと推測されます。

名古屋城の築城と那古野城跡(1610年以降)

那古野城が廃城となってから約半世紀後の1610年(慶長15年)、徳川家康は清須から名古屋への遷府(清須越し)を決定し、那古野城の旧城地とその周辺に新たな城郭・名古屋城の築城を命じました。

名古屋城の築城は天下普請として行われ、全国の大名が動員されました。那古野城跡は名古屋城の二の丸付近に取り込まれる形となり、旧城の遺構は名古屋城の建設によってほぼ完全に失われました。

現在の名古屋城二の丸が、かつての那古野城の中心部にあたると考えられています。

那古野城の構造と規模

那古野城の詳細な構造については、遺構がほとんど残っていないため不明な点が多いのが現状です。しかし、文献や発掘調査から以下のような特徴が推測されています。

城郭の立地

那古野城は熱田台地の西端、標高約10メートルの微高地に築かれた平城でした。西側には庄内川の支流が流れ、天然の堀として機能していたと考えられます。この立地は、水運を利用した物資の輸送や、防御面での利点がありました。

城の規模

那古野城の規模は、当時の尾張国内の城郭としては中規模程度だったと推測されています。名古屋城ほどの大規模な城郭ではなく、戦国時代初期の実戦的な平城という性格が強かったと考えられます。

発掘調査では、堀や土塁の一部と思われる遺構が確認されていますが、建物の配置などの詳細は明らかになっていません。

「柳の丸」という別名

那古野城は「柳の丸」という別名でも呼ばれていました。これは城内または城の周辺に柳の木が多く植えられていたことに由来すると考えられています。柳は湿地帯でもよく育つ樹木であり、那古野の地形的特徴を反映している可能性があります。

現在の那古野城跡

名古屋城二の丸内の石碑

現在、那古野城の遺構はほとんど残っていません。名古屋城の二の丸庭園内に「那古野城跡」を示す石碑が建てられているのみです。この石碑は風化が進んでおり、「那古」の二文字がかろうじて読み取れる状態となっています。

石碑の正確な位置は、名古屋城二の丸東庭園の一角にあります。名古屋城を訪れた際には、この石碑を探してみるのも歴史散策の楽しみの一つです。

アクセス方法

電車でのアクセス:

  • 名古屋市営地下鉄名城線「市役所駅」下車、7番出口より徒歩5分
  • 名古屋市営地下鉄鶴舞線「浅間町駅」下車、1番出口より徒歩12分
  • 各線「名古屋駅」から徒歩約30分

バスでのアクセス:

  • 名古屋市営バス「名古屋城正門前」下車すぐ

車でのアクセス:

  • 名古屋高速都心環状線「丸の内出口」より約5分
  • 名古屋城には有料駐車場があります

見学時の注意点

那古野城跡の石碑を見学するには、名古屋城への入場が必要です。名古屋城の開園時間や入場料を事前に確認してから訪れることをおすすめします。

名古屋城の基本情報:

  • 開園時間: 9:00~16:30(最終入場16:00)
  • 休園日: 12月29日~31日、1月1日(4日間)
  • 観覧料: 大人500円、中学生以下無料

那古野城と織田信長の関係

信長誕生の地

織田信長は1534年(天文3年)5月12日(旧暦)に生まれたとされていますが、その誕生地については那古野城説と勝幡城説があります。多くの史料では那古野城での誕生が有力視されています。

信長が那古野城で生まれたとすれば、この城は「天下人・織田信長誕生の地」として歴史的に非常に重要な意味を持つことになります。

信長の青年期を育んだ城

信長は13歳前後から23歳頃まで、約10年間を那古野城主として過ごしました。この時期の信長は「尾張の大うつけ」と呼ばれ、奇抜な服装や行動で周囲を驚かせていたと伝えられています。

しかし、この那古野城時代に信長は、後の天下統一につながる重要な経験を積んでいました。家臣団の掌握、近隣勢力との外交、そして実戦経験など、戦国大名としての基礎を築いた時期だったのです。

父・信秀との関係

織田信秀が信長に那古野城を任せたことは、嫡男への期待と教育の意味があったと考えられます。信秀自身は古渡城に本拠を置きながらも、信長の成長を見守っていました。

1551年に信秀が死去した際、信長は那古野城から葬儀に参列し、その際の非常識な振る舞い(焼香を投げつけたという逸話)が伝えられています。この出来事も那古野城時代の信長を物語るエピソードの一つです。

那古野城と今川氏の関係

今川氏の尾張進出

今川氏親は、駿河・遠江を統一した後、さらに勢力を東へ拡大しようと尾張国への進出を図りました。那古野城の築城は、この戦略の一環として行われたものです。

当時の尾張国は、守護の斯波氏の勢力が衰退し、守護代の織田氏が実権を握りつつある状況でした。今川氏はこの混乱に乗じて尾張への影響力を強めようとしたのです。

今川氏豊と那古野城

今川氏親の弟である今川氏豊が那古野城の城代を務めていたとされています。氏豊は兄の命を受けて尾張国の経営にあたっていましたが、織田信秀の策略によって城を奪われることになりました。

この敗北は今川氏にとって尾張国での影響力を失う大きな転機となりました。

今川義元との因縁

那古野城を失った今川氏ですが、氏親の子である今川義元の代になると再び勢力を盛り返します。義元は「海道一の弓取り」と称されるほどの実力者となり、尾張への影響力を回復しようとしました。

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、織田信長と今川義元が激突することになるのは、この那古野城をめぐる因縁の延長線上にあるとも言えるでしょう。

那古野城から古渡城へ

織田信秀の本拠移転

織田信秀は1542年頃、那古野城から南方約2キロメートルの位置にある古渡城へ本拠を移しました。古渡城は現在の名古屋市中区橘二丁目付近にあったとされています。

信秀が本拠を移した理由としては、より広大な城郭が必要になったこと、熱田方面への交通の便が良かったことなどが考えられます。那古野城は嫡男の信長に任せ、自身は新たな拠点から尾張国の統一を目指したのです。

古渡城の現在

古渡城も那古野城と同様、現在はほとんど遺構が残っていません。名古屋市中区橘二丁目の古渡町交差点付近に「古渡城址」の石碑が建てられているのみです。

那古野城と古渡城、そして清須城という織田氏の本拠の変遷をたどることで、織田信秀・信長父子の戦略と尾張統一への道のりを理解することができます。

名古屋という地名の由来

「なごや」の語源

「なごや」という地名の由来については諸説あります。最も有力な説は、「なごやか(和やか)な土地」という意味から来ているというものです。

また、地形的な特徴から「なぐ(平らにする)」と「や(谷)」が組み合わさったという説や、古代の豪族の名前に由来するという説もあります。

「那古野」と「名古屋」の使い分け

戦国時代の城は「那古野城(なごやじょう)」と表記され、江戸時代に徳川家康が築いた城は「名古屋城(なごやじょう)」と表記されます。読み方は同じですが、漢字表記が異なるのが特徴です。

この使い分けにより、戦国時代の城と江戸時代の城を区別することができます。現在の名古屋市の地名は「名古屋」の字を使用していますが、歴史的には「那古野」の表記が古い形です。

関連スポット

名古屋城

那古野城跡を訪れる際には、必ず名古屋城全体も見学することをおすすめします。徳川家康が築いた名古屋城は、日本三名城の一つに数えられる壮大な城郭です。

天守閣、本丸御殿、二の丸庭園など見どころが豊富で、那古野城の歴史と合わせて理解することで、この地の歴史の重層性を実感できます。

古渡城跡

織田信秀が那古野城の後に本拠とした古渡城の跡地も、名古屋市内にあります。現在は住宅地となっていますが、石碑が残されています。那古野城跡と合わせて訪れることで、織田氏の本拠の変遷をたどることができます。

清須城(清洲城)

織田信長が那古野城の後に本拠とした清須城は、現在の愛知県清須市にあります。現在は模擬天守が建てられ、清須城跡として整備されています。信長の尾張統一の拠点となった重要な城です。

桶狭間古戦場

今川義元と織田信長が激突した桶狭間の戦いの古戦場も、名古屋市内(緑区)と豊明市にまたがって存在します。那古野城をめぐる今川氏と織田氏の因縁が決着した場所として、歴史的な意義があります。

まとめ

那古野城は、現在の愛知県名古屋市中区、名古屋城二の丸付近に存在した戦国時代の城です。今川氏親によって築城され、織田信秀が奪取し、若き織田信長が城主を務めた歴史的に重要な城郭でした。

約30年という短い存続期間でしたが、尾張国の支配権をめぐる攻防の舞台となり、織田信長という天下人を育んだ城として、日本史上重要な位置を占めています。

現在は名古屋城の敷地内にわずかな石碑が残るのみですが、その歴史的価値は計り知れません。名古屋城を訪れた際には、ぜひ二の丸の那古野城跡の石碑にも足を運び、戦国時代の息吹を感じてみてください。

那古野城の歴史を知ることで、織田信長の生涯、今川氏と織田氏の抗争、そして名古屋という都市の成り立ちについて、より深く理解することができるでしょう。

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