躑躅ヶ崎館跡 甲府市(山梨県)- 武田信玄の本拠地を

躑躅ヶ崎館跡 甲府市(山梨県)- 武田信玄の本拠地を
所在地 〒400-0014 山梨県甲府市古府中町2663
公式サイト https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/002.html

躑躅ヶ崎館跡 甲府市(山梨県)- 武田信玄の本拠地を徹底解説

概要

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中町にあった戦国期の居館で、甲斐国守護武田氏の本拠地として知られています。現在は武田神社が建立され、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されています。

武田信虎が永正16年(1519年)に築いた居館は、その後、武田信玄、武田勝頼へと継承され、約60年にわたり武田氏三代の領国経営の中心地として機能しました。甲州市の勝沼氏館跡と並び、中世の城館跡として極めて高い史料価値を持つ遺跡です。

館跡は東西約200メートル、南北約190メートルの方形居館で、足利将軍邸である花の御所(室町第)を参考にして築かれたと考えられています。現在でも土塁、空堀、虎口、井戸などの遺構が良好な状態で残されており、戦国時代の居館の姿を今に伝える貴重な史跡となっています。

躑躅ヶ崎館の歴史

甲斐国の守護所・府中の変遷

甲斐国における守護所の位置は、時代とともに変遷してきました。武田氏が甲斐国守護に任じられたのは南北朝時代のことで、当初の守護所は石和(現在の笛吹市)に置かれていました。

室町時代には守護所が川田(甲府市川田町)に移転し、その後も武田氏の勢力拡大と政治的状況に応じて、守護所の位置は変化していきました。この府中の移転は、甲斐国内における武田氏の支配体制の確立過程を示す重要な要素となっています。

武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創

躑躅ヶ崎館の建設は、武田信虎によって永正16年(1519年)に開始されました。信虎は甲斐国内の統一を進める中で、新たな拠点として躑躅ヶ崎の地を選定しました。

この場所が選ばれた理由として、以下の点が挙げられます:

  • 甲府盆地の中央に位置し、領国経営の中心地として適していた
  • 北側に要害山があり、詰城として機能させることができた
  • 水利に恵まれ、居館の維持に適していた
  • 交通の要衝であり、各地への連絡が容易だった

信虎は躑躅ヶ崎館を中心に城下町の整備を進め、これが現在の甲府市の基礎となりました。この意味で、信虎は「甲府開創の祖」とも呼ばれています。館の建設と並行して、周辺の街路整備、寺社の配置、商工業者の誘致などが行われ、計画的な都市づくりが進められました。

武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館

天文10年(1541年)、武田信虎が嫡男の晴信(後の信玄)によって駿河へ追放されると、躑躅ヶ崎館は信玄の居館となりました。信玄は父が築いた館を本拠地として、信濃侵攻、上杉謙信との川中島の戦い、駿河侵攻など、積極的な領国拡大政策を展開しました。

信玄の時代、躑躅ヶ崎館は単なる居館ではなく、領国経営の司令塔として機能しました。館内では政務が執り行われ、重臣たちとの評定が開かれ、軍事作戦が立案されました。また、館の周辺には家臣団の屋敷が配置され、城下町は武田氏の権力基盤を支える重要な役割を果たしました。

元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、嫡男の勝頼が家督を継承しました。勝頼は当初、躑躅ヶ崎館を本拠地として使用しましたが、天正9年(1581年)、より防御に優れた新府城(韮崎市)を築き、そこへ本拠を移転しました。

この移転により、躑躅ヶ崎館は約60年にわたる武田氏本拠地としての役割を終えることになりました。しかし、新府城への移転からわずか1年後の天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、躑躅ヶ崎館も戦乱の時代を迎えることになります。

近世・近現代の躑躅ヶ崎館

武田氏滅亡後、甲斐国は織田信長の支配下に入り、河尻秀隆が甲府城主として配置されました。しかし、本能寺の変後の混乱期に河尻は一揆により討たれ、甲斐国は徳川氏と北条氏の争奪の対象となりました。

その後、羽柴秀勝、加藤光泰らが甲斐国主となりましたが、文禄年間(1592年~1596年)には、新たに甲府城が築城され、甲斐国の中心は躑躅ヶ崎館から甲府城へと完全に移行しました。

江戸時代を通じて、躑躅ヶ崎館跡は荒廃が進みましたが、武田氏への崇敬の念から、跡地は大切に保存されました。明治維新後も、武田信玄への敬慕は続き、大正8年(1919年)には館跡に武田神社が創建されました。

昭和13年(1938年)、躑躅ヶ崎館跡は「武田氏館跡」として国の史跡に指定され、その歴史的価値が公式に認められました。現在は、武田神社の境内として整備されながらも、発掘調査が継続的に行われ、戦国時代の居館の実態が徐々に明らかになっています。

館の構造・遺構

館の基本構造

躑躅ヶ崎館は、東西約200メートル、南北約190メートルの方形居館で、周囲を土塁と空堀で囲んだ典型的な中世居館の形態を持っています。館の構造は、京都の足利将軍邸である花の御所(室町第)を模したとされ、格式高い居館として設計されました。

館の内部は、主殿、常御殿、会所などの建物群が配置されていたと考えられています。発掘調査により、礎石建物跡や庭園遺構、排水施設などが確認されており、居館としての高い機能性と美的配慮がうかがえます。

土塁と空堀

躑躅ヶ崎館の周囲を巡る土塁は、現在でも良好な状態で残されています。土塁の高さは約3~5メートルで、館の防御機能を担っていました。土塁の外側には空堀が掘られており、二重の防御ラインを形成していました。

空堀の幅は約10~15メートルで、深さは約3~4メートルあったと推定されています。現在は一部が埋まっていますが、西側や北側では明瞭に空堀の痕跡を確認することができます。

虎口(出入口)

館への出入口である虎口は、東・西・南の三方に設けられていました。特に東側の大手虎口は、現在の武田神社の正面入口に当たり、石垣で固められた堅固な構造となっています。

この石垣は、武田氏時代のものではなく、後世に改修されたものと考えられていますが、虎口の位置自体は武田氏時代から変わっていないとされています。虎口の構造は、敵の侵入を防ぐために屈曲した形状となっており、防御上の工夫が見られます。

井戸と水利施設

館内には複数の井戸が設けられていました。現在、武田神社境内には「姫の井戸」と呼ばれる井戸が残されており、武田信玄の娘が誕生した際に産湯に使われたという伝承があります。

また、発掘調査により、館内に水路や排水施設が整備されていたことが明らかになっています。これらの施設は、居館の衛生環境を保ち、庭園への給水などにも利用されていたと考えられます。

曲輪の配置

躑躅ヶ崎館は、主郭(本曲輪)を中心に、西曲輪、東曲輪などの複数の曲輪で構成されていました。西曲輪は現在、信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)が建設されており、発掘調査の成果や武田氏三代の歴史を紹介する施設として活用されています。

各曲輪は土塁や堀で区画され、それぞれ異なる機能を持っていたと推定されています。主郭には主殿などの中核的な建物が配置され、その他の曲輪には家臣の詰所や倉庫などが置かれていたと考えられます。

発掘調査で明らかになった遺構

昭和40年代以降、継続的に発掘調査が行われ、多くの重要な遺構が発見されています。礎石建物跡、庭園遺構、石組み遺構、陶磁器や金属製品などの遺物が出土し、館の実態が徐々に明らかになっています。

特に注目されるのは、庭園遺構の発見です。池泉や石組みの痕跡が確認されており、武田氏の居館が単なる軍事施設ではなく、文化的な側面も持っていたことが示されています。

城下町(武田城下町)

城下の街路と主要街道

躑躅ヶ崎館を中心に形成された城下町は、計画的に整備された街路網を持っていました。館から放射状に延びる道路は、各地への主要街道と接続し、領国支配の交通網の要となっていました。

特に重要だったのは以下の街道です:

  • 甲州街道:江戸と甲府を結ぶ主要幹線道路の前身
  • 棒道:信濃方面への軍事道路
  • 駿州往還:駿河方面への道路

城下町の街路は、碁盤目状に整備された部分と、自然地形に沿った部分が組み合わされていました。主要な街路沿いには、商工業者の町屋が建ち並び、経済活動の中心地となっていました。

町人地と武家地の配置

城下町は、機能に応じて明確に区画されていました。館の周辺には有力家臣の屋敷が配置され、武家地を形成していました。一方、街道沿いには町人地が形成され、商業活動が展開されました。

職人町も形成され、鍛冶職人、大工、織物職人など、様々な職種の職人が集住していました。これらの職人たちは、武田氏の軍事活動や日常生活を支える重要な役割を果たしました。

館の信仰空間と城下の有力寺社

躑躅ヶ崎館とその城下町には、多くの寺社が配置されていました。これらの寺社は、武田氏の信仰の対象であると同時に、城下町の防御拠点としても機能していました。

主要な寺社として以下が挙げられます:

  • 能成寺:武田氏の菩提寺の一つ
  • 東光寺:武田信玄が再興した臨済宗の寺院
  • 長禅寺:武田信玄の母、大井夫人の菩提寺
  • 円光院:武田信玄の正室、三条夫人の菩提寺

これらの寺社は、城下町の南側や東側に配置され、外敵からの防御ラインとしても機能する「寺町」を形成していました。武田氏は寺社を保護し、寺領を安堵することで、宗教勢力との良好な関係を維持していました。

館内にも信仰空間が設けられており、発掘調査により、仏堂跡と思われる建物遺構が確認されています。武田氏は熱心な仏教信者であり、特に信玄は禅宗に深く帰依していたことが知られています。

詰城と城砦群

要害山城(詰城)

躑躅ヶ崎館の北方約2キロメートルの山上には、要害山城(要害山詰城)が築かれていました。この山城は、躑躅ヶ崎館の詰城(緊急時の避難場所)として機能し、平時の居館と有事の山城という、中世の典型的な城郭体系を形成していました。

要害山城は標高約780メートルの山頂部に築かれ、複雑な曲輪配置と堅固な防御施設を持つ本格的な山城です。武田信玄は、この要害山城で誕生したという伝承があり、「要害山城跡」として国の史跡に指定されています。

要害山城の主な特徴:

  • 急峻な地形を利用した天然の要害
  • 複数の曲輪を階段状に配置
  • 竪堀や堀切による防御ライン
  • 躑躅ヶ崎館を眼下に見下ろす戦略的位置

周辺の城砦群

躑躅ヶ崎館を中心とする甲府盆地には、複数の支城や砦が配置されていました。これらは武田氏の領国防衛体制の一環として機能し、相互に連携して甲斐国の安全を守っていました。

主要な城砦として:

  • 新府城:武田勝頼が築いた最後の本拠地
  • 岩殿城:東方面の防衛拠点
  • 谷戸城:北方面の防衛拠点

これらの城砦群は、烽火(のろし)による通信網で結ばれており、緊急時には迅速に情報伝達が行われる体制が整えられていました。

武田氏居館跡から出土した馬の全身骨格

平成4年(1992年)の発掘調査において、躑躅ヶ崎館跡から馬の全身骨格が出土し、大きな注目を集めました。この馬は、館の堀跡から発見され、ほぼ完全な状態で残されていました。

出土した馬の特徴:

  • 推定体高約140センチメートル
  • 戦国時代の軍馬の実態を示す貴重な資料
  • 埋葬状況から、儀礼的に葬られた可能性

武田氏は「甲斐の騎馬軍団」として知られ、優れた騎馬戦術で戦国時代を戦い抜きました。この馬の骨格は、武田氏の軍事力の基盤となった馬の実態を示す貴重な考古学的資料となっています。

骨格の分析により、この馬は栄養状態が良く、丁寧に飼育されていたことが判明しています。また、骨に戦傷の痕跡が見られることから、実戦に参加していた可能性も指摘されています。

現在、この馬の全身骨格は復元され、信玄ミュージアムで展示されており、武田氏の騎馬文化を理解する上で重要な展示物となっています。

現地情報

アクセス方法

電車でのアクセス

  • JR中央本線「甲府駅」北口から徒歩約30分
  • 甲府駅北口からバス「武田神社」行きで約8分、終点下車すぐ

車でのアクセス

  • 中央自動車道「甲府昭和IC」から約20分
  • 駐車場:武田神社参拝者用駐車場あり(無料)

見学情報

武田神社

  • 参拝時間:境内自由(宝物殿は9:30~16:00)
  • 休館日:宝物殿は水曜日(祝日の場合は翌日)
  • 拝観料:境内無料、宝物殿は大人300円

信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)

  • 開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
  • 休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 観覧料:無料
  • 展示内容:武田氏三代の歴史、発掘調査の成果、出土遺物など

見どころポイント

  1. 土塁と空堀:館の周囲を巡る土塁と空堀は、戦国時代の居館の防御施設を実感できる貴重な遺構です。
  1. 大手虎口の石垣:武田神社の正面入口となっている大手虎口は、石垣で固められた堅固な構造を見ることができます。
  1. 姫の井戸:武田信玄の娘の産湯に使われたという伝承がある井戸で、現在も水を湛えています。
  1. 信玄ミュージアム:発掘調査の成果や出土遺物を展示しており、躑躅ヶ崎館の実態を理解するのに最適な施設です。
  1. 武田神社宝物殿:武田氏ゆかりの品々が展示されており、武田氏の歴史と文化を学ぶことができます。

周辺の見どころ

  • 要害山城跡:躑躅ヶ崎館の詰城。登山道が整備されており、山城の遺構を見学できます(往復約2時間)。
  • 甲府城跡(舞鶴城公園):武田氏滅亡後に築かれた近世城郭。躑躅ヶ崎館から徒歩約30分。
  • 武田氏ゆかりの寺社:能成寺、東光寺、長禅寺など、城下町に点在する寺社を巡ることができます。

イベント情報

  • 武田二十四将騎馬行列:毎年4月12日前後の信玄公祭りにて開催される、甲州軍団出陣を再現した一大イベント。
  • 武田神社例大祭:4月12日に開催される武田神社の例大祭。

まとめ

躑躅ヶ崎館跡は、戦国最強と謳われた武田氏三代の本拠地として、日本の戦国史において極めて重要な位置を占める史跡です。武田信虎による築館から約500年を経た現在でも、土塁、空堀、虎口などの遺構が良好に残され、戦国時代の居館の姿を今に伝えています。

国史跡に指定され、武田神社として多くの参拝者を集める一方で、継続的な発掘調査により新たな発見が続いており、学術的にも重要な遺跡です。信玄ミュージアムでは、最新の調査成果を分かりやすく展示しており、躑躅ヶ崎館の歴史と構造を深く理解することができます。

甲府市を訪れた際には、ぜひ躑躅ヶ崎館跡を訪れ、武田信玄が天下を夢見た場所に立ち、戦国時代のロマンを感じていただきたいと思います。周辺の要害山城や城下町の寺社と合わせて巡ることで、武田氏の領国経営の全体像をより深く理解することができるでしょう。

地図

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