篠脇城(岐阜県)

篠脇城(岐阜県)
所在地 〒501-4608 岐阜県郡上市大和町牧1023
公式サイト http://www.city.gujo.gifu.jp/tourism/detail/post-2.html

篠脇城(岐阜県)完全ガイド:臼の目堀と東氏230年の歴史を探る

岐阜県郡上市大和町に位置する篠脇城(しのわきじょう)は、中世美濃国における東氏の拠点として約230年間にわたり重要な役割を果たした山城です。標高486メートルの篠脇山山頂に築かれたこの城は、放射線状に配置された30本余りの畝状竪堀群「臼の目堀」で知られ、国の史跡に指定されています(指定名称は「東氏館跡及び篠脇城跡」)。

本記事では、篠脇城の歴史的背景から構造的特徴、現地での見どころまで、城郭愛好家や歴史ファンが知りたい情報を網羅的に解説します。

篠脇城の概要

篠脇城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて郡上郡山田荘を支配した東氏が居城とした山城です。東氏は下総国千葉氏の支族であり、承久の乱(1221年)の功績により郡上郡山田荘の新補地頭職を得て、初代・東胤行が美濃国に下向したことに始まります。

当初、東氏は阿千葉城を拠点としていましたが、より防御に優れた篠脇山に新たな居城を築きました。この篠脇城を中心に、東氏は8代・約230年間にわたってこの地域を支配し、文化的にも大きな影響を与えました。

城の最大の特徴は、山上の主郭を囲むように配置された畝状竪堀群です。この防御施設は地元では「臼の目堀」と呼ばれ、籾すり臼の目のような放射線状の形状から名付けられました。この竪堀群は日本の山城の中でも特に優れた遺構として評価されています。

所在地と基本情報

  • 所在地:岐阜県郡上市大和町島
  • 城郭構造:山城
  • 標高:486メートル
  • 比高:約200メートル
  • 築城時期:鎌倉時代後期~室町時代初期
  • 築城者:東氏
  • 主な城主:東氏(8代)
  • 廃城時期:天正年間(1573年~1592年)
  • 文化財指定:国の史跡(2021年指定)
  • 関連施設:東氏館跡庭園、東氏記念館・和歌文学館

篠脇城の歴史

東氏の美濃下向と阿千葉城時代

東氏の美濃国進出は、承久の乱(1221年)に遡ります。この乱において、鎌倉幕府側として戦功を挙げた千葉氏の一族・東胤行は、後鳥羽上皇方についた山田荘の荘官を追討した功績により、郡上郡山田荘の新補地頭職を得ました。

胤行は承久2年(1220年)頃に美濃国に下向し、当初は阿千葉城(あちばじょう)を築いて拠点としました。「阿千葉」という名称は、東氏の本貫地である下総国千葉に由来するものと考えられています。東氏はこの地で勢力を拡大し、郡上地域における有力な国人領主として成長していきました。

篠脇城の築城と東氏の全盛期

阿千葉城から篠脇城への居城移転の時期については諸説ありますが、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけてと考えられています。篠脇山は阿千葉城よりも標高が高く、より広い領域を見渡せる要害の地であったため、東氏の勢力拡大に伴い新たな居城として選ばれたと推測されます。

篠脇城を拠点とした東氏は、室町時代を通じて郡上地域の支配を確立しました。特に7代目の東常縁(とうのつねより、1401年~1484年)は、歌人としても知られ、古今和歌集の解釈を伝える「古今伝授」の祖として文化史上でも重要な人物です。常縁は武将としても優れ、東氏の最盛期を築きました。

応仁の乱と斎藤妙椿による攻略

東氏にとって最大の危機は、応仁の乱(1467年~1477年)の時期に訪れました。応仁元年(1467年)、東常縁は関東管領・上杉房顕の要請により関東に下向しました。この留守を狙って、美濃守護代・斎藤妙椿が篠脇城を攻撃したのです。

『鎌倉大草紙』によれば、常縁が不在の間に妙椿は篠脇城を包囲し、激しい攻防戦の末に落城させました。しかし、この攻略には興味深い逸話が残されています。妙椿は文化人としても知られ、常縁の歌才を高く評価していました。

落城後、妙椿は常縁に和歌を贈り、その返歌として常縁から名歌を受け取ることと引換えに篠脇城を返還したと伝えられています。この「贈歌」による城の返還という逸話は、戦国時代にあっても文化が重視された一例として知られています。ただし、実際には政治的な和解の過程があったと考えられ、和歌の交換はその象徴的な行為であった可能性が高いでしょう。

古今伝授と東常縁

東常縁は武将としてだけでなく、歌人としても卓越した才能を持っていました。常縁は二条家から古今和歌集の秘伝を学び、これを後世に伝える「古今伝授」の祖となりました。

文明10年(1478年)、常縁は飛騨国の武将・姉小路基綱に古今伝授を行いました。これが記録に残る最初の古今伝授とされています。この伝統は後に細川幽斎、烏丸光広らに受け継がれ、江戸時代まで続く文化的系譜となりました。

常縁は『東野州聞書』などの歌学書も著し、美濃の山中にありながら京都の公家文化に匹敵する教養を持つ文化人として知られました。篠脇城下の東氏館では、庭園を備えた優雅な生活が営まれていたことが近年の発掘調査で明らかになっています。

戦国時代の動乱と東氏の衰退

室町時代後期から戦国時代にかけて、美濃国は激しい権力闘争の舞台となりました。東氏も例外ではなく、周辺勢力との抗争に巻き込まれていきます。

天文年間(1532年~1555年)には、越前国の戦国大名・朝倉氏が郡上地域に影響力を及ぼすようになりました。東氏は朝倉氏と結びつきを強めることで勢力の維持を図りましたが、やがて織田信長の台頭により情勢は大きく変化します。

永禄年間(1558年~1570年)以降、織田信長が美濃攻略を本格化させると、東氏の立場は困難になりました。信長は美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就)を調略して斎藤龍興を攻め、永禄10年(1567年)に稲葉山城を陥落させて美濃を制圧しました。

この過程で東氏の勢力も衰退し、天正年間には篠脇城も廃城になったと考えられています。具体的な廃城時期や経緯については史料が乏しく不明な点が多いですが、織田政権下での国人領主整理の中で東氏の城郭も放棄されたと推測されます。

構造

篠脇城の城郭構造は、中世山城の典型的な特徴を持ちながらも、独自の防御システムを備えた優れた設計となっています。

縄張りの基本構成

篠脇城は標高486メートルの篠脇山山頂部に築かれた、ほぼ単郭式の山城です。比高は約200メートルあり、長良川の支流である吉田川を見下ろす要害の地に位置しています。

城の中心となる主郭(本丸)は、山頂部の平坦地を利用して築かれています。主郭の規模は東西約40メートル、南北約30メートルで、中世山城としては比較的広い曲輪を確保しています。主郭の周囲には土塁の痕跡が認められ、防御を固めていたことがわかります。

主郭の周辺には小規模な曲輪が配置されていますが、大規模な連郭式の構造は見られません。これは東氏が平時には山麓の館(東氏館跡)で生活し、篠脇城は詰城(緊急時の避難場所)としての性格が強かったためと考えられます。

臼の目堀(畝状竪堀群)

篠脇城の最大の特徴は、主郭を取り囲むように配置された畝状竪堀群です。この遺構は地元で「臼の目堀」と呼ばれ、籾すり臼の目のような放射線状の形状から名付けられました。

畝状竪堀は、山の斜面に垂直方向に掘られた複数の堀(竪堀)を並列に配置したもので、敵の横移動を妨げ、攻城軍を分断する効果があります。篠脇城では30本以上の竪堀が放射線状に配置されており、その規模と保存状態の良さは全国的にも稀有な例です。

竪堀の深さは場所によって異なりますが、深いところでは3~4メートルに達します。幅は1~2メートル程度で、竪堀と竪堀の間の畝(尾根状の部分)も明瞭に残っています。この竪堀群は主郭の北側から東側、南側にかけて広範囲に展開しており、城の防御システムの中核をなしていました。

畝状竪堀は戦国時代中期以降に発達した築城技術とされ、特に東海地方や甲信地方の山城で多く見られます。篠脇城の竪堀群は、その規模と配置の巧みさから、戦国期の改修によって強化された可能性が指摘されています。応仁の乱での斎藤妙椿の攻撃を経験した後、防御力を高めるために増設されたとも考えられます。

堀切と切岸

主郭と周辺の尾根を遮断するために、数条の堀切が設けられています。堀切は尾根を垂直に掘り切ることで、敵の進入路を遮断する防御施設です。篠脇城では主郭の背後(西側)に明瞭な堀切が残されており、深さは5メートル以上に達する箇所もあります。

また、曲輪の周囲には切岸(人工的に削られた急斜面)が形成されています。切岸は自然地形を加工することで斜面をより急峻にし、敵の登攀を困難にする工夫です。篠脇城の切岸は現在も明瞭に観察でき、中世の土木技術の高さを示しています。

登城路と虎口

山麓の東氏館跡から主郭への登城路は、尾根筋を利用した急峻な山道です。この登城路には曲輪や切岸が配置され、防御ラインを形成していました。

主郭への入口となる虎口(城門)の遺構は明確ではありませんが、土塁の切れ目などから推定される場所があります。中世山城の虎口は簡素な構造であることが多く、篠脇城も木戸程度の門が設けられていたと考えられます。

東氏館跡との関係

篠脇城の山麓には東氏館跡が位置しています。この館は東氏の日常的な居館であり、近年の発掘調査により池泉庭園を備えた優雅な建物があったことが判明しました。

館跡と山城を組み合わせた「根小屋式」の城郭構造は、中世から戦国時代の山城に広く見られる形式です。平時は居住性の高い山麓の館で生活し、戦時には山上の要害に籠城するという使い分けがなされていました。

東氏館跡庭園は、室町時代の地方武将の館としては極めて質の高い庭園遺構であり、東常縁らの文化的素養を反映したものと評価されています。この館跡も篠脇城跡とともに国の史跡に指定されています。

現地情報

アクセス方法

自動車でのアクセス

  • 東海北陸自動車道「ぎふ大和IC」から車で約5分
  • 国道156号を北上し、案内標識に従って進む
  • 東氏記念館・和歌文学館に無料駐車場あり(普通車約20台)

公共交通機関でのアクセス

  • 長良川鉄道「徳永駅」から徒歩約30分(東氏館跡まで)
  • 徳永駅から東方へ約2キロメートル
  • 駅からタクシー利用も可能(約5分)

登城口

  • 東氏館跡(東氏記念館・和歌文学館)の背後に登城口あり
  • 登城口から主郭まで徒歩約30~40分
  • 山道は整備されているが、登山装備(トレッキングシューズなど)推奨

見学のポイント

東氏記念館・和歌文学館

  • 開館時間:9:00~17:00
  • 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 入館料:大人310円、小中学生150円
  • 東氏の歴史や古今伝授に関する展示を見学できる
  • 東氏館跡庭園も隣接しており、併せて見学可能

東氏館跡庭園

  • 2020年からの発掘調査で確認された池泉庭園
  • 室町時代の地方武将の館跡として貴重な遺構
  • 庭園は現在も調査・整備が進行中

篠脇城跡登城

  • 登城には30~40分程度の山登りが必要
  • 登山道は整備されているが、急勾配の箇所あり
  • 運動靴または登山靴、飲料水、タオルなどを準備
  • 夏季は虫除けスプレー推奨
  • 雨天時や雨上がりは足元が滑りやすいため注意

臼の目堀の観察

  • 主郭周辺に30本以上の畝状竪堀が放射線状に配置
  • 特に北側斜面の竪堀群が明瞭で観察しやすい
  • 竪堀内に立ち入る際は足元に注意
  • 遺構保護のため、むやみに掘削したり破壊したりしないこと

主郭からの眺望

  • 天候が良ければ郡上市街や周辺の山々を一望できる
  • 吉田川の流れや東氏が支配した領域を実感できる
  • 写真撮影のベストスポット

見学時の注意事項

  1. 安全対策:山城のため、足元が不安定な箇所があります。特に雨天後は滑りやすいため注意してください。
  2. 服装:長袖・長ズボン、帽子、登山に適した靴を着用してください。
  3. 熱中症対策:夏季は水分補給を十分に。日陰が少ないため帽子必携。
  4. 虫対策:春から秋にかけては蚊やブヨなどの虫が多いため、虫除けスプレーを使用してください。
  5. 遺構保護:国の史跡に指定された貴重な文化財です。遺構を傷つけたり、ゴミを捨てたりしないでください。
  6. 冬季:積雪時は登城が困難になります。冬季に訪問する場合は事前に郡上市教育委員会などに状況を確認してください。

周辺の見どころ

郡上八幡城

  • 篠脇城から車で約20分
  • 再建天守を持つ近世城郭
  • 郡上おどりで有名な城下町

阿千葉城跡

  • 東氏が篠脇城以前に居城とした山城
  • 篠脇城から車で約15分
  • 遺構の残存状態は良好

郡上市歴史資料館

  • 郡上地域の歴史を総合的に展示
  • 東氏や篠脇城に関する資料も収蔵

古今伝授の里フィールドミュージアム

  • 東常縁の古今伝授をテーマとした文化施設
  • 短歌や和歌に関する展示、体験プログラムあり

篠脇城の文化財的価値

国史跡指定の意義

篠脇城跡は、東氏館跡とともに令和3年(2021年)10月11日に国の史跡に指定されました。指定名称は「東氏館跡及び篠脇城跡」です。

この指定は、以下の点が評価されたものです:

  1. 畝状竪堀群の優秀性:30本以上の竪堀が放射線状に配置された「臼の目堀」は、全国的にも稀有な規模と保存状態を誇ります。
  2. 東氏の歴史的重要性:承久の乱以降、約230年間にわたり郡上地域を支配した東氏の本拠地として、中世美濃国の地域支配の実態を示す重要な遺跡です。
  3. 文化史的価値:古今伝授の祖・東常縁が居住した館跡と城跡の一体的な保存により、中世武家文化の実態を知る上で貴重な資料となります。
  4. 遺構の良好な保存状態:山城と館跡の両方が良好に残されており、中世の城郭構造を理解する上で重要な事例です。

発掘調査の成果

郡上市教育委員会は、国史跡指定を目標として2020年から東氏館跡の発掘調査を実施してきました。この調査により、以下の重要な発見がありました:

  1. 池泉庭園の確認:室町時代の地方武将の館としては極めて質の高い庭園遺構が発見されました。池の護岸には石組みが施され、景石も配置されていたことが判明しています。
  2. 建物跡の検出:館の主要建物と考えられる礎石建物跡が確認されました。
  3. 出土遺物:中国製の青磁や白磁、国産の陶器類など、東氏の経済力と文化的水準の高さを示す遺物が出土しています。

これらの調査成果は、東氏が単なる地方武将ではなく、京都の公家文化に通じた教養人であったことを裏付けるものです。

篠脇城を訪れる意義

篠脇城は、日本の中世史、特に室町時代から戦国時代にかけての地方武将の実態を知る上で極めて重要な城跡です。

軍事史的観点:畝状竪堀群という高度な防御システムを実地で観察できる貴重な機会を提供します。教科書や資料だけでは理解しにくい中世山城の防御構造を、実際に体感することができます。

文化史的観点:武力だけでなく、和歌や古今伝授といった文化面でも重要な役割を果たした東氏の足跡を辿ることができます。戦国時代の武将が必ずしも武力一辺倒ではなく、高い教養を持っていたことを実感できる場所です。

地域史的観点:承久の乱から戦国時代まで、約350年にわたる郡上地域の歴史を象徴する遺跡として、地域の歴史理解に不可欠な存在です。

自然との調和:山城という性格上、自然の地形を巧みに利用した築城技術を観察できます。人工と自然が融合した中世の土木技術の高さを実感できるでしょう。

まとめ

篠脇城は、岐阜県郡上市に残る中世山城の傑作です。千葉氏の一族である東氏が8代・約230年間にわたって居城とし、郡上地域の政治・文化の中心として機能しました。

城の最大の見どころは「臼の目堀」と呼ばれる30本以上の畝状竪堀群で、その規模と保存状態は全国的にも稀有なものです。この防御システムは、戦国時代の築城技術の到達点を示す貴重な遺構として、令和3年に国の史跡に指定されました。

東氏は武将としてだけでなく、古今伝授の祖・東常縁に代表されるように、文化人としても重要な役割を果たしました。山麓の東氏館跡からは池泉庭園が発見され、東氏の文化的水準の高さが裏付けられています。

応仁の乱における斎藤妙椿との攻防、和歌による城の返還という逸話、そして戦国時代の動乱の中での衰退と廃城。篠脇城の歴史は、中世から近世への転換期における地方武将の栄枯盛衰を象徴しています。

現在、篠脇城跡は登山道が整備され、誰でも訪れることができます。東氏記念館・和歌文学館で予備知識を得た後、実際に山城を登り、臼の目堀を観察し、主郭から郡上の景色を眺める。そうした体験を通じて、中世の武将たちが見た風景を追体験し、日本の歴史をより深く理解することができるでしょう。

城郭ファン、歴史愛好家はもちろん、登山やハイキングを楽しむ方々にとっても、篠脇城は訪れる価値のある場所です。岐阜県を訪れる際には、ぜひ篠脇城に足を運び、東氏230年の歴史と臼の目堀の壮大さを体感してください。

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