相羽城(岐阜県)完全ガイド:歴史・遺構・アクセスまで徹底解説
相羽城(あいばじょう)は、岐阜県揖斐郡大野町に存在した中世の平城です。根尾川と三水川に挟まれた平地に築かれ、美濃国大野郡の要衝として重要な役割を果たしました。現在は遺構のほとんどが失われていますが、本丸跡に建つ八幡神社を中心に、かつての城郭の面影を感じることができます。本記事では、相羽城の歴史、城主の変遷、遺構の状況、アクセス方法まで、詳細に解説します。
相羽城の基本情報
相羽城は美濃国大野郡(現在の岐阜県揖斐郡大野町相羽)に位置していた中世の平城です。以下、基本的な情報をまとめます。
所在地
所在地: 岐阜県揖斐郡大野町大字相羽(八幡神社周辺)
相羽城は根尾川とその支流である三水川の間に位置する平地に築かれました。旧・名鉄揖斐線相羽駅の近くにあたり、現在の八幡神社境内が本丸跡とされています。周囲の平地よりも若干高い場所に位置しており、当時の地形を活かした縄張りであったことが推測されます。
分類・構造
分類: 平城
構造: 平地に築かれた平城形式で、根尾川と三水川という二つの河川を天然の堀として利用した立地が特徴です。平城としては典型的な水利を活かした防御構造を持っていたと考えられます。
築城主
築城主: 饗庭光俊(あいば みつとし)
土岐光行の子である光俊が饗庭姓を名乗り、建暦・建保年間(1211年~1219年頃)に築城したと『新撰美濃志』に記されています。饗庭氏は土岐氏の一族であり、美濃国における土岐一族の勢力拡大の一環として相羽城が築かれました。
築城年
築城年: 建暦・建保年間(1211年~1219年頃)
鎌倉時代初期に築城されたとされ、美濃国における土岐氏の勢力基盤を固めるための拠点として機能しました。
天守構造
相羽城は中世の平城であり、近世城郭のような天守は存在しませんでした。中世城郭の特徴である館や櫓を中心とした構造であったと考えられます。
通称・別名
特に別名は伝わっていませんが、饗庭氏の居城として「饗庭城」と呼ばれた可能性もあります。
相羽城の歴史
相羽城は鎌倉時代から戦国時代にかけて、約300年以上にわたって美濃国の歴史に関わってきました。その歴史は饗庭氏の興亡、そして戦国時代の激動の中での攻防戦に彩られています。
鎌倉時代:饗庭氏による築城と承久の乱
建暦・建保年間(1211年~1219年頃)、土岐光行の子である光俊が饗庭姓を名乗り、相羽城を築城しました。土岐氏は美濃国の有力武家であり、その一族である饗庭氏がこの地に城を構えたことは、土岐氏の勢力拡大を示すものでした。
しかし、承久3年(1221年)に起きた承久の乱において、饗庭光俊は戦死してしまいます。承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を図った戦いであり、多くの武士が朝廷側と幕府側に分かれて戦いました。光俊の戦死は饗庭氏にとって大きな打撃となりましたが、城はその後も饗庭氏によって維持されました。
饗庭国頼の時代
光俊の孫にあたる饗庭国頼が城主となり、饗庭氏の勢力は一定期間維持されました。しかし、詳細な記録は少なく、国頼以降の饗庭氏の動向については不明な点が多いです。その後、相羽城は一度廃城となったとされています。
天文年間:長屋景興による再興
天文年間(1532年~1555年)に入ると、垂井城主であった長屋景興が相羽城を修築し、居城として移住しました。長屋景興は美濃国の有力武将であり、土岐頼芸に仕えていました。
土岐頼芸は美濃国守護であった土岐氏の当主でしたが、家臣である斎藤道三との対立が深まっていました。長屋景興が相羽城を修築したのは、この政治的緊張の中で、土岐頼芸の勢力基盤を強化するためであったと考えられます。
天文14年(1545年):斎藤道三による攻略
天文14年(1545年)、斎藤道三が相羽城を攻撃し、城は落城しました。斎藤道三は「美濃の蝮」と呼ばれた戦国武将で、下剋上によって美濃国の実権を握った人物です。長屋景興が仕えていた土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握する過程で、相羽城も道三の支配下に入りました。
落城後、相羽城には鷹司氏が城主として入りました。鷹司氏は公家の名門であり、なぜ鷹司氏が相羽城主となったのかについては諸説ありますが、斎藤道三の政治的な配置の一環であったと考えられます。
天文18年(1549年):織田信秀による攻略と廃城
天文18年(1549年)、尾張国の織田信秀(織田信長の父)が美濃国に侵攻し、相羽城を攻撃しました。織田信秀は尾張国の統一を進める一方で、美濃国への進出を積極的に図っていました。相羽城は織田信秀の攻撃を受けて再び落城し、その後まもなく廃城となりました。
こうして相羽城は、斎藤道三と織田信秀という二人の戦国武将に二度攻められ、戦国時代の激動の中でその役割を終えることになりました。
相羽城の遺構と現状
相羽城の遺構はほとんど残されていませんが、現在でも本丸跡とされる場所や周辺に、かつての城の痕跡を見ることができます。
本丸跡(八幡神社)
現在の八幡神社境内が相羽城の本丸跡とされています。神社の境内は周囲の平地よりも若干高くなっており、これがかつての城郭の地形を示しています。八幡神社の鳥居の前には相羽城跡を示す標柱が立てられており、本殿前には石碑が建っています。
神社自体は地域の信仰の中心として現在も大切に守られており、城跡としての雰囲気を感じながら、静かに歴史に思いを馳せることができる場所です。
堀跡とみられる池
八幡神社の北東側には池があり、これがかつての堀跡ではないかと推測されています。この池の周辺からは遺物が出土しており、城郭の存在を裏付ける重要な証拠となっています。
平城である相羽城は、根尾川と三水川という自然の河川を外堀として利用し、さらに人工的な堀を配置することで防御力を高めていたと考えられます。現在残る池はその一部である可能性が高いです。
遺物の出土
堀跡とみられる池の付近からは、中世の遺物が出土しています。具体的な内容については詳細な発掘調査報告が少ないですが、土器や陶磁器の破片などが確認されており、城が機能していた時代の生活の様子を知る手がかりとなっています。
現在の景観
相羽城跡周辺は現在、住宅地や農地となっており、城郭としての遺構はほぼ失われています。しかし、八幡神社を中心とした地域には、かつての城下町の名残を感じさせる地名や道筋が残っており、歴史愛好家にとっては興味深い探索スポットとなっています。
相羽城の城主一覧
相羽城には鎌倉時代から戦国時代にかけて、複数の城主が存在しました。主な城主を時系列で整理します。
饗庭光俊(あいば みつとし)
築城主であり、建暦・建保年間(1211年~1219年頃)に相羽城を築きました。土岐光行の子で、饗庭姓を名乗った最初の人物です。承久の乱(1221年)で戦死しました。
饗庭国頼(あいば くによ り)
饗庭光俊の孫にあたり、光俊の後を継いで城主となりました。饗庭氏の勢力を維持しましたが、その後の詳細は不明です。国頼以降、相羽城は一度廃城となったとされています。
長屋景興(ながや かげおき)
天文年間(1532年~1555年)に垂井城から移り、相羽城を修築して居城としました。土岐頼芸に仕えていましたが、天文14年(1545年)に斎藤道三の攻撃を受けて落城しました。長屋氏は美濃国の有力武家であり、長屋景興は戦国時代の激動の中で重要な役割を果たしました。
鷹司氏(たかつかさし)
斎藤道三による落城後、鷹司氏が城主として入りました。鷹司氏は公家の名門であり、なぜ武家の城である相羽城の城主となったのかは明確ではありませんが、斎藤道三の政治的な配置の一環であったと推測されます。天文18年(1549年)に織田信秀の攻撃を受けて落城し、その後廃城となりました。
相羽城と周辺の城郭
相羽城の周辺には、美濃国の歴史を彩る複数の城郭が存在しました。これらの城との関係を理解することで、相羽城の戦略的重要性がより明確になります。
軽海西城(かるみにしじょう)
相羽城の近隣に位置する城で、同じく美濃国大野郡にありました。軽海西城も土岐氏の一族に関連する城郭であり、相羽城とともに地域の防衛拠点として機能していました。
北方城(きたがたじょう)
美濃国本巣郡(現在の岐阜県本巣郡北方町)にあった城で、安藤氏の居城として知られています。相羽城とは直接的な関係は薄いですが、美濃国における城郭ネットワークの一部として、戦国時代の勢力図に影響を与えました。
垂井城(たるいじょう)
長屋景興がもともと居城としていた城です。長屋景興が相羽城に移った理由は明確ではありませんが、土岐頼芸の勢力圏における戦略的配置の変更であった可能性があります。
稲葉山城(岐阜城)
斎藤道三の居城であり、美濃国の中心的な城郭でした。相羽城は斎藤道三によって攻略されましたが、これは道三が美濃国全体を支配下に置く過程の一環でした。後に織田信長が稲葉山城を攻略し、岐阜城と改名して天下統一の拠点としました。
相羽城へのアクセス方法
相羽城跡を訪れる際のアクセス方法を、公共交通機関と自動車の両方について解説します。
公共交通機関でのアクセス
最寄り駅: 樽見鉄道樽見線・モレラ岐阜駅
所要時間: モレラ岐阜駅から徒歩約70分
モレラ岐阜駅から相羽城跡(八幡神社)までは約5.5kmの距離があり、徒歩では時間がかかります。駅からタクシーを利用するか、レンタサイクルの利用が現実的です。また、路線バスの利用も検討できますが、本数が限られているため、事前に時刻表を確認することをお勧めします。
旧・名鉄揖斐線相羽駅は廃止されており、現在は利用できません。
自動車でのアクセス
最寄りインターチェンジ: 名神高速道路・大垣IC
所要時間: 大垣ICから約35分
大垣ICから国道を経由して相羽方面へ向かいます。カーナビゲーションには「八幡神社(岐阜県揖斐郡大野町相羽)」または「岐阜県揖斐郡大野町相羽」と入力すると良いでしょう。
駐車場情報
八幡神社の北側にある地区公民館の駐車場を利用できます(無料)。ただし、地域の公共施設であるため、見学の際は節度を持って利用し、長時間の駐車は避けるよう配慮が必要です。
相羽城の見学所要時間
相羽城跡の見学所要時間は、平均で約15~20分程度です。八幡神社境内の本丸跡、標柱、石碑を確認し、周辺の堀跡とみられる池を見て回る程度であれば、この時間で十分です。
ただし、周辺の地形や旧城下町の雰囲気をじっくり味わいたい場合や、写真撮影を楽しむ場合は、30分~1時間程度を見込むと良いでしょう。
相羽城周辺のスポット
相羽城跡を訪れた際に、合わせて立ち寄りたい周辺のスポットを紹介します。
モレラ岐阜
岐阜県本巣市にある大型ショッピングモールです。樽見鉄道のモレラ岐阜駅からすぐの場所にあり、買い物や食事を楽しむことができます。城跡巡りの前後に立ち寄るのに便利です。
根尾谷淡墨桜
岐阜県本巣市根尾にある樹齢1500年以上の古桜で、日本三大桜の一つに数えられています。相羽城跡からは車で約40分の距離にあり、春には多くの観光客が訪れます。
大野町バラ公園
大野町が整備するバラ公園で、約2,000株のバラが植えられています。5月下旬から6月上旬、10月中旬から11月上旬が見頃です。相羽城跡からは車で約10分の距離です。
揖斐川町の城郭群
揖斐川町には複数の中世城郭跡が点在しており、城郭愛好家にとっては興味深いエリアです。相羽城と合わせて巡ることで、美濃国西部の城郭ネットワークを体感できます。
相羽城を訪れる際の注意点
相羽城跡を訪問する際には、以下の点に注意してください。
私有地への配慮
八幡神社境内は公開されていますが、周辺は住宅地や農地となっています。私有地には無断で立ち入らないよう注意し、地域住民の生活に配慮した見学を心がけてください。
遺構の保護
残された遺構は貴重な文化財です。石碑や標柱に触れたり、池の周辺を荒らしたりしないよう、マナーを守って見学しましょう。
季節と天候
相羽城跡は屋外施設であり、雨天時や真夏の猛暑時、真冬の積雪時などは見学が困難になる場合があります。訪問前に天候を確認し、適切な服装と装備で訪れることをお勧めします。
写真撮影
八幡神社や周辺での写真撮影は可能ですが、地域住民のプライバシーに配慮し、住宅や人物が写り込まないよう注意してください。
相羽城の歴史的意義
相羽城は、美濃国における土岐氏一族の勢力拡大、そして戦国時代の激動を象徴する城郭です。鎌倉時代に築かれ、承久の乱、斎藤道三の下剋上、織田信秀の美濃侵攻という、日本史上の重要な出来事に関わってきました。
遺構はほとんど残されていませんが、その歴史は美濃国の武家社会の変遷を物語る貴重な証拠です。特に、斎藤道三と織田信秀という二人の戦国武将に攻められたという事実は、相羽城が戦略的に重要な位置にあったことを示しています。
現在、相羽城跡は地域の人々によって大切に守られており、八幡神社として信仰の場となっています。歴史愛好家や城郭ファンにとっては、静かに歴史に思いを馳せることができる貴重なスポットです。
まとめ
相羽城は岐阜県揖斐郡大野町に存在した中世の平城で、鎌倉時代から戦国時代にかけて美濃国の歴史に深く関わってきました。饗庭光俊によって築城され、承久の乱、長屋景興の時代を経て、斎藤道三と織田信秀に攻められて廃城となるまで、激動の歴史を歩みました。
現在は遺構のほとんどが失われていますが、本丸跡の八幡神社や堀跡とみられる池など、かつての城の痕跡を感じることができます。アクセスは自動車が便利で、大垣ICから約35分、駐車場も利用可能です。
相羽城跡を訪れることで、美濃国の中世史、土岐氏一族の興亡、そして戦国時代の戦いの歴史を体感できます。静かな神社の境内で、かつてこの地で繰り広げられた歴史のドラマに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考文献
相羽城の歴史を研究する上で参考となる文献を以下に示します。
- 『新撰美濃志』:江戸時代に編纂された美濃国の地誌で、相羽城の築城や饗庭氏に関する記述が含まれています。
- 『岐阜県史』:岐阜県の通史で、相羽城を含む県内の城郭についての記載があります。
- 『大野町史』:大野町の歴史をまとめた町史で、相羽城に関する詳細な記述が期待できます。
- 各種城郭研究書:日本城郭協会や地域の歴史研究団体が発行する城郭研究書にも、相羽城に関する情報が掲載されています。
これらの文献を参照することで、相羽城の歴史についてより深く理解することができます。
