堀江城

堀江城
所在地 〒431-1209 静岡県浜松市中央区舘山寺町
公式サイト https://pal2.co.jp/topics/post-7.php

堀江城の歴史と見どころ完全ガイド|浜名湖畔の水城から高家旗本の陣屋へ

堀江城とは

堀江城(ほりえじょう)は、遠江国敷知郡(現在の静岡県浜松市中央区舘山寺町)に存在した日本の城です。浜名湖の内浦湾に面した水城として築かれ、中世から近世にかけて遠江西部の重要拠点として機能しました。江戸時代には堀江陣屋(ほりえじんや)と称され、高家旗本大沢家の陣屋として明治維新まで存続しました。

現在、城跡は館山寺温泉郷として観光開発が進み、遊園地「浜名湖パルパル」やホテルの敷地となっており、往時の遺構はほとんど残っていません。しかし、浜名湖という天然の要害を利用した水城としての特徴や、名門大沢氏の居城としての歴史的価値は高く、遠江の中世史を語る上で欠かせない存在です。

堀江城の基本情報

所在地: 静岡県浜松市中央区舘山寺町
旧国名: 遠江国敷知郡
城郭構造: 平城(水城)
築城年代: 貞治年間(1362年〜1368年)と伝わる
築城者: 大沢基秀
主要城主: 大沢氏
廃城年: 明治維新後
遺構: ほぼ消失(現在は浜名湖パルパル、ホテル九重などの敷地)
文化財指定: なし
通称・別名: 堀江陣屋(江戸時代以降)

堀江城の歴史

築城と大沢氏の台頭

堀江城の築城年代については諸説ありますが、貞治年間(1362年〜1368年)に大沢基秀によって築かれたとされるのが通説です。大沢氏は中臣鎌足や藤原道長の子孫にあたる名門で、遠江に土着した藤原氏の一族として知られています。

鎌倉時代から室町時代にかけて、大沢氏は浜名湖周辺を支配する有力国人として勢力を拡大しました。堀江城は浜名湖の内浦湾に面した立地を活かし、水運の要所を押さえる水城として機能しました。浜名湖という天然の堀を持つこの城は、陸上からの攻撃に対して極めて堅固な防御力を誇りました。

戦国時代の堀江城

戦国時代に入ると、堀江城は今川氏の勢力下に入ります。大沢氏は今川家の重臣として、遠江西部の支配を任されました。浜名湖周辺には宇津山城や浜名城など複数の城が築かれ、堀江城はその中核として機能しました。

永禄11年(1568年)、今川氏真の時代に状況は大きく変化します。三河から侵攻してきた徳川家康の軍勢が遠江に進出し、堀江城の城主・大沢基胤(おおさわもとたね)は徳川軍に包囲されることになります。

浜名湖に面した水城という地の利を活かして抵抗を続けましたが、最終的には和睦の形で降伏しました。この際、大沢氏は徳川家康に臣従することで所領を安堵され、堀江城も存続することになります。

武田信玄の遠江侵攻と堀江城

永禄12年(1569年)から元亀年間にかけて、武田信玄が遠江に侵攻します。この時期、堀江城も武田軍の攻撃目標となり、激しい攻防戦が繰り広げられました。浜名湖という天然の要害に守られた堀江城は容易には落城せず、武田軍を苦しめたと伝えられています。

この時期の堀江城の攻防は、遠江における徳川・武田両勢力の争奪戦の一環として重要な意味を持ちました。浜名湖の水運を押さえることは、遠江西部の支配において戦略的に不可欠だったためです。

三方ヶ原の戦いと大沢氏

元亀3年(1572年)、武田信玄の大軍が遠江・三河に侵攻し、有名な三方ヶ原の戦いが勃発します。この戦いで徳川家康は大敗を喫しますが、大沢基胤の子・大沢基宿(おおさわもとやど)は徳川方として参戦し、戦功を挙げました。

三方ヶ原の戦い後も、大沢氏は徳川家の家臣として堀江城を維持し続けます。基宿は後に旗本として取り立てられ、大沢家は江戸時代を通じて存続することになります。

江戸時代の堀江陣屋

江戸時代に入ると、堀江城は堀江陣屋と呼ばれるようになります。大沢基宿の代から、大沢家は高家(こうけ)旗本として幕府に仕えることになりました。高家とは、朝廷との儀式や典礼を司る特別な旗本の家格で、名門の出自を持つ家系が任命されました。

大沢家は高家筆頭として、江戸幕府において重要な役割を果たしました。石高は決して大きくありませんでしたが、家格の高さから幕府内で一目置かれる存在でした。堀江陣屋は大沢家の本拠地として、明治維新まで維持されました。

江戸時代の堀江陣屋は、戦国時代の城郭としての機能は失われていましたが、大沢家の居館として、また浜名湖周辺の行政拠点として機能し続けました。

明治以降の変遷

明治維新後、堀江陣屋は廃止され、大沢家も旧大名・旗本としての特権を失いました。城跡は民間に払い下げられ、次第に開発が進んでいきます。

昭和に入ると、浜名湖周辺は観光地として開発されるようになります。館山寺温泉が開発され、昭和39年(1964年)には遊園地「浜名湖パルパル」が開園しました。この開発により、堀江城の遺構はほぼ完全に消失することになります。

現在、浜名湖パルパルの大観覧車「コクー」の下あたりが、かつての堀江城の本曲輪(ほんくるわ)があった場所とされています。園内には堀江城跡の案内板が設置されており、往時の城の存在を偲ぶことができます。

堀江城の構造と特徴

水城としての特性

堀江城最大の特徴は、浜名湖の内浦湾に面した水城であったことです。三方を湖水に囲まれた立地により、陸上からの攻撃に対して極めて強固な防御力を持っていました。

水城は平城の一種ですが、湖や海、大河などの水域を天然の堀として利用する点で、通常の平城とは異なる特徴を持ちます。堀江城の場合、浜名湖という広大な水域が天然の防御線となり、敵の接近を大きく制限しました。

縄張りと構造

堀江城の詳細な縄張り(城の設計図)については、現在の開発により遺構が失われているため、正確な復元は困難です。しかし、文献や地形から推測すると、本曲輪を中心に複数の曲輪が配置された構造であったと考えられます。

本曲輪は現在の浜名湖パルパル観覧車付近にあったとされ、ここに城主の居館や主要な防御施設が集中していたと推測されます。周囲には二の曲輪、三の曲輪などが配置され、段階的な防御線が構築されていたと考えられます。

浜名湖の水運と城の機能

堀江城は単なる軍事拠点としてだけでなく、浜名湖の水運を管理する経済的拠点としても機能していました。浜名湖は遠江と三河を結ぶ重要な水運ルートであり、その要所を押さえることは経済的にも大きな意味を持ちました。

大沢氏は堀江城を拠点として、浜名湖周辺の漁業権や通行税などを管理し、経済力を蓄えました。この経済力が、大沢氏が戦国時代を生き抜く基盤となったのです。

現在の堀江城跡

浜名湖パルパルと城跡

現在、堀江城跡の大部分は遊園地「浜名湖パルパル」の敷地となっています。園内の大観覧車「コクー」の下に堀江城跡の案内板が設置されており、この周辺がかつての本曲輪があった場所とされています。

遊園地として開発されたため、土塁や堀などの遺構は完全に消失しており、往時の城郭の姿を偲ぶことは困難です。しかし、案内板には堀江城の歴史や大沢氏についての説明があり、訪れた人々に城の存在を伝えています。

浜名湖パルパルを訪れる際には、観覧車に乗ることで浜名湖を一望することができます。この眺望は、かつての城主たちが見た景色に近いものかもしれません。浜名湖の広大な水面を眺めながら、水城としての堀江城の地の利を実感することができます。

館山寺温泉と周辺開発

堀江城跡周辺は館山寺温泉郷として開発されており、多くのホテルや旅館が立ち並んでいます。ホテル九重などの敷地も、かつての城域に含まれていたと考えられます。

温泉街として発展したことで、堀江城の遺構は失われましたが、浜名湖畔の景勝地として多くの観光客が訪れる場所となっています。城跡巡りと温泉観光を組み合わせることで、歴史と現代の両方を楽しむことができます。

大沢氏菩提寺・宿芦寺

堀江城跡そのものには遺構が残っていませんが、大沢氏の菩提寺である宿芦寺(しゅくろじ)には、大沢氏に関する史料や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残されています。

宿芦寺を訪れることで、大沢氏の歴史をより深く知ることができます。墓所には歴代当主の墓石が並び、名門大沢氏の足跡を辿ることができます。堀江城跡を訪れる際には、宿芦寺にも足を延ばすことをお勧めします。

堀江城へのアクセス

電車・バスでのアクセス:
JR浜松駅から遠鉄バス「舘山寺温泉行き」に乗車し、約45分。「浜名湖パルパル」バス停下車すぐ。

車でのアクセス:
東名高速道路「浜松西IC」から約15分。浜名湖パルパルの駐車場を利用可能(有料)。

住所: 静岡県浜松市中央区舘山寺町1891(浜名湖パルパル)

堀江城と井伊直虎

近年、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送により、遠江の戦国史に注目が集まりました。井伊直虎は井伊谷城(いいのやじょう)を拠点とした女性領主ですが、堀江城を支配した大沢氏とも接点がありました。

同じ遠江国内の国人領主として、井伊氏と大沢氏は今川氏の支配下で共存していました。今川氏が衰退し、徳川家康が遠江に侵攻した際には、両氏とも重要な選択を迫られることになります。

井伊氏が最終的に徳川家の重臣として大名に取り立てられたのに対し、大沢氏は旗本として存続しました。しかし、高家という特別な家格を得たことで、大沢氏は江戸時代を通じて名門としての地位を保ち続けました。

堀江城と周辺の城郭

堀江城は単独で存在したのではなく、浜名湖周辺に展開する城郭ネットワークの一部でした。

宇津山城: 浜名湖北岸に位置し、大沢氏の支城として機能しました。堀江城と連携して浜名湖北部を防衛する役割を担いました。

浜名城: 浜名湖東岸に位置する城で、今川氏の重要拠点でした。堀江城とは湖を挟んで対峙する位置関係にあります。

引佐城: 井伊氏の勢力圏に近い城で、遠江北部の要衝でした。

これらの城郭は相互に連携しながら、遠江西部の防衛網を形成していました。堀江城はその中で、浜名湖の水運を押さえる最重要拠点として機能していたのです。

堀江城の歴史的意義

堀江城は遺構こそ残っていませんが、日本の城郭史において重要な意義を持っています。

第一に、水城としての特性です。浜名湖という天然の要害を活用した城郭設計は、地形を最大限に活用した中世城郭の典型例といえます。

第二に、大沢氏という名門の居城としての歴史です。藤原氏の流れを汲む大沢氏が、鎌倉時代から明治維新まで一貫して同じ地域を支配し続けたことは、日本の武家社会史において注目すべき事例です。

第三に、戦国時代の今川・徳川・武田という三大勢力の抗争の舞台となったことです。遠江の帰趨を決める重要な拠点として、堀江城は歴史の表舞台に登場しました。

第四に、江戸時代の高家制度との関わりです。武家としての実力だけでなく、家格と血統を重視する江戸幕府の価値観の中で、大沢氏は特別な地位を占めました。

まとめ

堀江城は、現在の静岡県浜松市中央区舘山寺町に存在した遠江国の重要な城郭です。浜名湖の内浦湾に面した水城として築かれ、名門大沢氏の居城として戦国時代を生き抜きました。

武田信玄や徳川家康といった戦国の英雄たちとの攻防の舞台となり、江戸時代には高家旗本の陣屋として存続しました。現在は館山寺温泉郷と浜名湖パルパルとして観光地化され、遺構はほとんど残っていませんが、その歴史的価値は色褪せることはありません。

浜名湖を訪れる際には、観覧車の下にある案内板に目を留め、かつてここに堅固な水城が存在し、名門大沢氏が代々居城としていたことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。現代の観光地の賑わいの下に眠る、遠江の中世・近世の歴史を感じることができるはずです。

地図

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