加納城(岐阜県・岐阜市)

加納城(岐阜県・岐阜市)
所在地 〒500-8485 岐阜県岐阜市加納丸之内7
公式サイト http://www.city.gifu.lg.jp/1.htm

加納城(岐阜県・岐阜市)完全ガイド:徳川家康の天下普請による西国の要衝

加納城とは

加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内に位置する平城で、江戸時代初期に徳川家康の命により築かれた城郭です。関ヶ原の戦いの後、西国大名への押さえとして戦略的に重要な位置に築城され、江戸時代を通じて加納藩の藩庁として機能しました。現在は国の史跡に指定されており、本丸跡には石垣や土塁などの貴重な遺構が残されています。

加納城の最大の特徴は、徳川家康自らが縄張を行ったとされる天下普請の城であること、そして岐阜城(稲葉山城)の天守や建材を移築して築かれたという歴史的背景にあります。本丸から突出する外桝形は「加納城型」とも呼ばれる初期徳川系城郭の特徴を持ち、城郭建築史上も重要な位置を占めています。

加納城の歴史

前身:沓井城の時代

加納城の前身となったのは、文安2年(1445年)に美濃国守護土岐将益の執権であった斎藤利永によって築かれた沓井城です。この城は長く斎藤氏の居城として機能しましたが、天文7年(1538年)頃には既に廃城となっており、当地域の中心は岐阜城(稲葉山城)へと移っていました。

沓井城は川手城とも呼ばれ、長良川水系の支流に囲まれた微高地に築かれていました。この立地条件の良さが、後の加納城築城の際にも活かされることになります。

関ヶ原の戦いと加納城築城

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、西国大名の動向を監視し、東海道と中山道を押さえる要衝として、旧沓井城の地を大規模に拡張して新たな城を築くことを決定しました。

築城は慶長6年(1601年)から開始され、天下普請として全国の大名を動員して行われました。普請奉行は徳川四天王の一人である本多忠勝が務め、家康自らが縄張を行ったとされています。この大規模工事では、関ヶ原の戦いで西軍の拠点となった岐阜城が破却され、その天守や御三階櫓などの建材が加納城に移築されました。

初代城主・奥平信昌と加納藩の成立

加納城の初代城主には、徳川家康の長女・亀姫を妻とする奥平信昌が封じられました。信昌は10万石を与えられ、ここに加納藩が成立します。奥平氏は長篠の戦いで武田軍を相手に長篠城を守り抜いた功績で知られる家柄であり、家康の信頼も厚い譜代大名でした。

奥平信昌は加納城の城下町整備にも力を入れ、中山道の宿場町である加納宿の発展にも寄与しました。加納は江戸時代を通じて交通の要衝として栄え、城下町と宿場町の両方の機能を持つ重要な町として発展していきます。

歴代城主の変遷

加納藩の藩主家は江戸時代を通じて何度も交代しています。奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏など、いずれも徳川家と深い関係を持つ譜代大名が城主を務めました。

特筆すべきは、寛永9年(1632年)に入封した大久保忠職です。忠職は小田原藩から移封されましたが、わずか数年で改易となり、その後は戸田氏が入封しました。戸田氏は3代続きましたが、元禄15年(1702年)に断絶し、その後は安藤氏が幕末まで城主を務めることになります。

安藤氏は信濃国岩村田藩から移封され、5万石で加納藩を治めました。安藤氏の時代には城の修復や城下町の整備が進められ、加納藩は安定した統治が続きました。

幕末から明治維新へ

幕末の動乱期、加納藩は他の譜代藩と同様に幕府側に立ちましたが、戊辰戦争では新政府軍に恭順しました。明治4年(1871年)の廃藩置県により加納藩は廃止され、一時的に加納県が置かれましたが、同年11月には岐阜県に合併されました。

明治5年(1872年)、廃城令により加納城は正式に廃城処分となり、城内の建物は次々と破却されました。御三階櫓は大垣城に移築され現存していますが、その他の建造物の多くは失われました。

加納城の構造と縄張

平城としての特徴

加納城は典型的な平城で、長良川水系の支流に囲まれた微高地に築かれています。周囲を堀で囲み、本丸・二の丸・三の丸の三重の曲輪構造を持っていました。平城でありながら、水堀と土塁、石垣を巧みに組み合わせた堅固な防御体制を備えていました。

城の総面積は約30万平方メートルに及び、美濃地方では岐阜城に次ぐ規模を誇りました。城下町を含めた都市計画も整然としており、中山道の宿場町としての機能と城下町の機能が一体化した独特の町割りが特徴でした。

本丸の構造

本丸は方形を成しており、その一角から外桝形が突出する独特の形状をしています。この外桝形は初期徳川系城郭の特徴とされ、「加納城型」とも呼ばれています。同様の構造は名古屋城や駿府城などにも見られ、徳川家康の城郭設計思想を反映したものと考えられています。

本丸には天守台が設けられ、岐阜城から移築された三重の天守が建てられました。ただし、この天守は寛永11年(1634年)の地震で倒壊し、その後は再建されませんでした。天守台の石垣は現在も良好な状態で残されており、当時の築城技術の高さを今に伝えています。

本丸の周囲は高さ約5メートルの石垣で囲まれており、その上に土塁が築かれていました。石垣には野面積みと打込接ぎの技法が用いられており、関ヶ原の戦い直後の築城技術の特徴を示しています。

二の丸と三の丸

二の丸は本丸を囲むように配置され、藩主の居館や重臣の屋敷が建ち並んでいました。二の丸も石垣と土塁で防御されており、複数の櫓が配置されていました。御三階櫓は二の丸に建てられていた櫓で、現在は大垣城に移築され、国の重要文化財に指定されています。

三の丸はさらに外側に配置され、家臣団の屋敷地として利用されていました。三の丸の外側には堀が巡らされ、城下町との境界を形成していました。三の丸には複数の城門が設けられており、城下町への出入りを管理していました。

堀と水利

加納城の防御システムで重要な役割を果たしたのが、城を囲む水堀です。長良川の支流から水を引き入れた堀は、本丸・二の丸・三の丸を囲むように三重に巡らされていました。堀の幅は最大で約30メートルに達し、平城でありながら強固な防御力を持っていました。

堀の水は城内の飲料水や生活用水としても利用され、城の自給自足体制を支える重要なインフラでした。現在も一部の堀跡が残されており、当時の規模を偲ぶことができます。

加納城の見どころ

本丸石垣

加納城で最も見応えのある遺構が、本丸を囲む石垣です。現在、加納公園として整備された本丸跡には、高さ約5メートルの石垣が良好な状態で残されています。野面積みと打込接ぎの技法で積まれた石垣は、慶長期の築城技術を今に伝える貴重な遺構です。

特に本丸南東部の石垣は保存状態が良く、当時の面影を色濃く残しています。石垣の隅部には算木積みの技法が用いられており、技術的な完成度の高さを示しています。石垣に使用された石材は、近隣の山から切り出された花崗岩が主体で、一部には岐阜城から運ばれた石材も含まれていると考えられています。

天守台跡

本丸の北西部には天守台の石垣が残されています。天守台は約20メートル四方の規模で、かつてはここに岐阜城から移築された三重天守が建っていました。現在は石垣の基部のみが残されていますが、その規模から当時の天守の威容を想像することができます。

天守台からは加納の町並みを一望でき、城の立地の良さを実感できます。また、天守台周辺の石垣は特に技術的に優れた部分で、城郭建築に興味のある方には必見のポイントです。

外桝形虎口

本丸の東側には、「加納城型」と呼ばれる特徴的な外桝形虎口の遺構が残されています。この虎口は本丸から突出する形で設けられており、敵の侵入を防ぐための工夫が随所に見られます。

外桝形は二重の枡形構造になっており、侵入してきた敵を袋小路に誘い込んで攻撃できる仕組みになっています。この構造は徳川家康の城郭設計思想を反映したもので、江戸城や名古屋城などにも同様の構造が見られます。

土塁と堀跡

本丸を囲む土塁の一部も良好な状態で残されています。土塁は石垣の上に築かれており、高さは約2メートルあります。土塁の上からは本丸内部を見渡すことができ、当時の城の規模を体感できます。

堀跡は本丸周辺に部分的に残されており、かつての水堀の痕跡を確認できます。現在は埋め立てられて道路や宅地になっている部分も多いですが、地形の起伏から堀の位置を推測することができます。

加納公園

本丸跡は現在、加納公園として整備され、市民の憩いの場となっています。公園内には石垣や天守台跡のほか、加納城の歴史を解説する案内板も設置されています。桜の名所としても知られており、春には多くの花見客で賑わいます。

公園内には加納城の縄張図や復元図が掲示されており、かつての城の全体像を理解するのに役立ちます。また、ベンチや遊具も設置されており、歴史散策と休憩を兼ねて訪れることができます。

移築された建造物

大垣城の御三階櫓

加納城の二の丸に建てられていた御三階櫓は、明治時代に大垣城に移築され、現在も現存しています。この櫓は国の重要文化財に指定されており、加納城唯一の現存建造物として貴重な存在です。

御三階櫓は三重三階の構造で、各階に破風が設けられた優美な外観を持っています。内部は非公開ですが、外観からその建築的価値を確認することができます。大垣城を訪れた際には、加納城から移築された櫓として注目してみてください。

その他の移築建造物

加納城の城門や櫓の一部は、周辺の寺社に移築されたと伝えられています。加納地区の寺院には、加納城の建材を使用したとされる建造物がいくつか残されており、城の面影を今に伝えています。

特に、加納天満宮の社殿の一部には加納城の建材が使用されたという伝承があり、地域の歴史を物語る遺産として保存されています。

加納城と中山道加納宿

宿場町としての発展

加納城の城下町は、中山道の宿場町である加納宿としても機能していました。江戸から数えて53番目の宿場である加納宿は、美濃国の入口として重要な位置を占めており、多くの旅人で賑わいました。

加納宿には本陣、脇本陣、旅籠が立ち並び、城下町と宿場町が一体化した独特の町並みを形成していました。現在も旧中山道沿いには当時の面影を残す建物が点在しており、歴史的な雰囲気を感じることができます。

城下町の町割り

加納城の城下町は、計画的に整備された町割りが特徴です。城を中心に武家屋敷、町人町、寺社が配置され、中山道が町の中心を貫いていました。この町割りは江戸時代を通じて維持され、現在の加納地区の基礎となっています。

城下町には商工業者も多く集まり、経済的にも繁栄しました。特に、美濃和紙や織物などの特産品の集散地として機能し、地域経済の中心的役割を果たしました。

加納城跡へのアクセスと訪問ガイド

所在地と交通アクセス

所在地: 岐阜県岐阜市加納丸之内

電車でのアクセス:

  • JR東海道本線「西岐阜駅」から徒歩約15分
  • JR東海道本線・高山本線「岐阜駅」から岐阜バスで約10分、「加納丸之内」下車、徒歩約3分

車でのアクセス:

  • 東海北陸自動車道「岐阜各務原IC」から約15分
  • 名神高速道路「岐阜羽島IC」から約20分

駐車場: 加納公園周辺に若干の駐車スペースあり(台数限定)

見学情報

見学時間: 自由(加納公園として常時開放)
入場料: 無料
見学所要時間: 約30分~1時間

本丸跡の加納公園は常時開放されており、自由に見学できます。石垣や天守台跡を巡りながら、案内板で歴史を学ぶことができます。写真撮影も自由です。

見学のポイント

加納城跡を訪れる際は、以下のポイントに注目してください。

  1. 本丸石垣: 南東部の石垣が最も保存状態が良く、野面積みと打込接ぎの技法を観察できます。
  2. 天守台跡: 本丸北西部の天守台から周囲を眺め、城の立地を体感しましょう。
  3. 外桝形虎口: 「加納城型」と呼ばれる特徴的な虎口の構造を確認してください。
  4. 案内板: 公園内の案内板で城の歴史や構造を学べます。
  5. 周辺散策: 時間があれば、旧中山道沿いの町並みも散策してみてください。

周辺の見どころ

加納城跡を訪れた際には、以下の周辺スポットもおすすめです。

岐阜城: 加納城の前身となった岐阜城(稲葉山城)は、金華山山頂にあり、ロープウェイでアクセスできます。加納城と合わせて訪れることで、美濃の城郭史を立体的に理解できます。

大垣城: 加納城の御三階櫓が移築された大垣城は、車で約30分の距離にあります。現存する御三階櫓を見学することで、加納城の建造物の姿を想像できます。

加納天満宮: 加納城跡から徒歩約10分の位置にあり、加納城の建材が使用されたと伝えられる社殿があります。

加納城の文化財指定

加納城跡は、昭和58年(1983年)10月28日に国の史跡に指定されました。指定範囲は本丸跡を中心とした約2万平方メートルで、石垣、土塁、堀跡などの重要な遺構が含まれています。

史跡指定により、遺構の保存と整備が進められており、将来的にはさらなる発掘調査や整備計画も検討されています。近世平城の貴重な遺構として、学術的にも高い評価を受けています。

加納城の発掘調査と研究

岐阜市教育委員会と岐阜市教育文化振興事業団の埋蔵文化財調査事務所により、加納城跡では継続的な発掘調査が行われています。これまでの調査により、石垣の構造、堀の規模、建物の配置などが明らかになってきました。

特に注目されるのは、本丸の石垣が複数回にわたって修復されていた痕跡が発見されたことです。これにより、江戸時代を通じて城の維持管理が継続的に行われていたことが確認されました。

また、出土した瓦や陶磁器などの遺物からは、城内での生活の様子や、各時代の城主の変遷を物語る情報が得られています。これらの調査成果は、加納城の歴史をより詳しく解明する上で重要な資料となっています。

加納城の歴史的意義

加納城は、江戸幕府の西国支配戦略において重要な役割を果たした城です。関ヶ原の戦い直後に築城されたこと、徳川家康自らが縄張を行ったこと、天下普請として築かれたことなど、その成立過程自体が徳川政権の確立期を象徴しています。

城郭建築史の観点からは、「加納城型」と呼ばれる外桝形虎口の構造が、初期徳川系城郭の特徴を示す重要な事例として評価されています。この構造は名古屋城や駿府城などにも見られ、家康の城郭設計思想を研究する上で貴重な資料となっています。

また、加納藩の藩庁として機能したことで、美濃国南部の政治・経済・文化の中心地として発展し、地域社会の形成に大きな影響を与えました。現在の岐阜市南部地域の基礎は、加納城とその城下町によって築かれたと言えます。

まとめ

加納城は、徳川家康の天下普請によって築かれた平城として、日本の城郭史において重要な位置を占めています。関ヶ原の戦い後の政治状況を反映した立地、岐阜城からの建材移築という特異な成立過程、そして「加納城型」と呼ばれる独特の縄張など、多くの歴史的・建築的価値を持つ城です。

現在は本丸跡が加納公園として整備され、石垣や天守台跡などの遺構を見学できます。国の史跡に指定されており、近世平城の貴重な遺構として保存されています。岐阜市を訪れた際には、ぜひ加納城跡に足を運び、徳川家康が築いた城の歴史と遺構に触れてみてください。

加納城の歴史を知ることは、江戸時代初期の政治状況や城郭建築の発展を理解する上で貴重な機会となります。また、岐阜城や大垣城と合わせて訪れることで、美濃地方の城郭史をより深く理解することができるでしょう。

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