久保田城

久保田城
所在地 〒010-0876 秋田県秋田市千秋公園1−4
公式サイト https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1002685/1009873/1009870/index.html

久保田城の歴史と見どころ完全ガイド|佐竹氏の居城と千秋公園

秋田県秋田市の中心部に位置する久保田城は、常陸源氏の名門・佐竹氏が江戸時代初期に築いた平山城です。現在は千秋公園として市民に親しまれ、日本100名城の第9番に選定されています。石垣をほとんど用いず、土塁と堀を中心とした独特の防御構造を持つこの城は、東北地方の城郭建築の特徴を色濃く残しています。

久保田城の概要

久保田城は、慶長7年(1602年)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏20万5800石の居城として築かれました。神明山と呼ばれる丘陵地に築城された平山城で、複数の廓(くるわ)を備えた構造となっています。

基本情報

  • 所在地: 秋田県秋田市千秋公園(旧出羽国秋田郡久保田)
  • 築城年: 慶長8年(1603年)着工、慶長9年(1604年)完成
  • 築城者: 佐竹義宣(初代久保田藩主)
  • 城郭構造: 平山城
  • 指定: 秋田市指定名勝「千秋公園(久保田城跡)」、日本100名城第9番
  • 現存遺構: 土塁、堀
  • 復元建造物: 御隅櫓(平成元年復元)、表門(平成13年復元)

久保田城という名称は、築城当初は「窪田城」と表記されていましたが、寛永10年(1633年)から正保2年(1645年)にかけて「久保田城」へと改称されました。明治維新まで約260年間にわたり、佐竹氏12代の居城として秋田藩政の中心地となりました。

久保田城築城の歴史的背景

佐竹氏の国替えと秋田入り

佐竹氏は清和源氏の一族で、常陸国(現在の茨城県)を拠点として戦国時代には大きな勢力を誇っていました。しかし、関ヶ原の戦い(1600年)において、佐竹義宣は明確な態度を示さなかったため、徳川家康から咎めを受け、慶長7年(1602年)に出羽国秋田への国替えを命じられました。石高も54万石から20万5800石へと大幅に削減されました。

佐竹義宣は秋田に入ると、それまで秋田氏が居城としていた湊城(土崎湊)を視察しましたが、海に近く防衛上の問題があると判断。新たな城を築くことを決意し、神明山の丘陵地を選定しました。

築城の経緯と工期

久保田城の築城は慶長8年(1603年)5月に開始されました。翌年の慶長9年(1604年)8月には佐竹義宣が久保田城に入城し、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。ただし、城の完成は入城時点では本丸などの主要部分のみで、城下町を含めた全体の整備には約30年の歳月を要したとされています。

築城にあたっては、財政的な制約もあり、石垣の使用を最小限に抑え、土塁と堀を中心とした防御構造が採用されました。また、天守閣も最初から建造されませんでした。これは経済的理由だけでなく、徳川幕府への配慮という政治的な判断もあったと考えられています。

久保田城の構造と特徴

石垣を用いない独特の防御構造

久保田城の最大の特徴は、石垣をほとんど用いていないことです。関ヶ原の戦い後に築かれた城としては極めて珍しく、防御の中心は土塁と堀でした。これは関東・東北地方の城郭に多く見られる建築様式で、久保田城はその典型例といえます。

城内には「鉢巻土塁」と呼ばれる独特の土塁が巡らされていました。鉢巻土塁とは、石垣で数段の基礎を造った上に巨大な土の壁(土塁)を築く建築方法です。この土塁は高さ数メートルにも及び、複雑に入り組んだ構造となっており、まるで土の迷路のような防御システムを形成していました。

天守閣のない城

久保田城には当初から天守閣が建造されませんでした。代わりに、本丸には二階建ての御出し書院(おだししょいん)があり、藩主の居所として機能していました。天守閣を建てなかった理由としては、以下のような説があります。

  1. 財政的制約: 国替えによる石高削減により、天守建造の財源が不足していた
  2. 幕府への配慮: 徳川幕府に対する遠慮や警戒を避けるため
  3. 実用性重視: 防衛上、天守よりも複数の櫓を配置する方が効果的と判断

城郭の配置と構成

久保田城は神明山の丘陵地形を活かした平山城で、本丸を中心に二の丸、三の丸などの複数の廓で構成されていました。

本丸: 城の中心部で、藩主の居所である御出し書院や政庁機能を持つ建物が配置されていました。本丸の周囲には8つの御隅櫓が配置され、防御を固めていました。

二の丸: 本丸の北側に位置し、重臣の屋敷などが置かれました。

三の丸: 城の外郭部分で、家臣団の屋敷や藩の施設が配置されていました。

城全体は内堀と外堀で囲まれ、複雑に入り組んだ土塁と堀が侵入者を阻む構造となっていました。現在の千秋公園の地形にも、当時の起伏が残されています。

久保田城の歴史

江戸時代の久保田城

久保田城は江戸時代を通じて佐竹氏の居城として機能しました。初代藩主・佐竹義宣から12代義堯(よしたか)まで、約260年間にわたり秋田藩20万石余の藩政の中心地として栄えました。

寛文6年(1666年)には大火により城内の多くの建物が焼失しましたが、その後再建されました。また、文化2年(1805年)にも火災が発生し、本丸御殿が焼失しています。このように、木造建築が主体であった久保田城は、何度か火災の被害を受けています。

明治維新と廃城

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、久保田藩は新政府側に付きました。明治維新後、廃藩置県により久保田藩は秋田県となり、久保田城は明治4年(1871年)に廃城となりました。

明治13年(1880年)、城跡は秋田県に払い下げられ、公園として整備されることが決定しました。明治29年(1896年)には「千秋公園」として一般に開放され、市民の憩いの場となりました。「千秋」という名称は、秋田の「秋」に長久の意味を込めて「千秋」としたものです。

昭和・平成の整備

昭和58年(1983年)、久保田城跡を含む千秋公園は秋田市指定名勝に指定されました。平成元年(1989年)には、市政100周年を記念して本丸北西隅にあった御隅櫓が復元されました。この御隅櫓は、見張り場としての役割と武器庫としての役割を兼ね備えた建物です。

さらに平成13年(2001年)には、本丸の正面入口であった表門が復元されました。これらの復元により、久保田城の往時の姿を偲ぶことができるようになりました。

平成18年(2006年)には、日本城郭協会が選定する「日本100名城」の第9番に選ばれ、全国的にも注目される史跡となっています。

久保田城の見どころ

復元された御隅櫓

千秋公園内にある御隅櫓は、平成元年(1989年)に復元された建物で、久保田城の象徴的な存在です。本丸の北西隅に位置していた櫓を再現したもので、内部は展示室となっており、久保田城や佐竹氏に関する資料を見ることができます。

櫓からは秋田市街地を一望でき、かつての城主が見たであろう景色を体感することができます。特に桜の季節には、千秋公園全体が桜に覆われ、櫓と桜のコントラストが美しい景観を作り出します。

復元された表門

本丸への正面入口である表門は、平成13年(2001年)に復元されました。門の構造は高麗門形式で、当時の技術を忠実に再現しています。表門をくぐると本丸跡へと続き、往時の城郭の雰囲気を感じることができます。

土塁と堀の遺構

千秋公園内には、久保田城時代の土塁や堀の遺構が今も残されています。特に本丸周辺の土塁は高さがあり、石垣を用いない城の防御構造を実感できます。公園内を散策すると、複雑に入り組んだ地形が当時の防御システムの名残であることに気づくでしょう。

秋田市立佐竹史料館

千秋公園内には秋田市立佐竹史料館があり、佐竹氏の歴史や秋田藩に関する貴重な資料が展示されています。久保田城の歴史を深く知りたい方には必見の施設です。甲冑や刀剣、古文書など、佐竹氏ゆかりの品々を見ることができます。

千秋公園の四季

久保田城跡である千秋公園は、四季折々の美しさで知られています。

: 約700本の桜が咲き誇り、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。夜桜のライトアップも行われ、多くの花見客で賑わいます。

: 新緑が美しく、木陰で涼を取ることができます。蓮の花が咲く池もあります。

: 紅葉が美しく、特に本丸周辺のモミジは見事です。

: 雪化粧した城跡は静謐な雰囲気に包まれ、冬ならではの趣があります。

久保田城下町の発展

久保田城の築城とともに、城下町も整備されました。城を中心に武家屋敷が配置され、商人町、職人町が形成されました。久保田城下町は、現在の秋田市中心部の基礎となっており、町割りの一部は今も残されています。

城下町には、羽州街道(奥州街道)が通り、交通の要所として発展しました。また、雄物川の水運を利用した物資の流通も盛んで、秋田藩の経済の中心地として栄えました。

城下町の特徴として、佐竹氏が常陸国から連れてきた家臣団や職人たちが多く住み、常陸の文化が秋田に持ち込まれました。これにより、久保田城下町は独特の文化を形成していきました。

佐竹氏と久保田藩の歴史

佐竹氏の由来

佐竹氏は、清和源氏の流れを汲む名門武家です。源義光(新羅三郎義光)の孫である昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)に住んで佐竹氏を称したのが始まりとされています。

戦国時代には、佐竹義重・義宣父子の時代に常陸国をほぼ統一し、54万石を領する大大名となりました。豊臣秀吉の小田原征伐や奥州仕置にも従い、秀吉からの信頼も厚い家でした。

関ヶ原の戦いと国替え

関ヶ原の戦い(1600年)において、佐竹義宣は西軍・東軍のどちらにも明確に加担せず、日和見の態度を取りました。この曖昧な態度が徳川家康の不興を買い、戦後、出羽国秋田への国替えと石高削減という厳しい処分を受けました。

常陸国から秋田への移動は、多くの家臣や領民を伴う大規模なものでした。慣れ親しんだ土地を離れることは大きな苦難でしたが、佐竹氏は秋田の地で新たな藩政を確立していきました。

秋田藩の藩政

久保田藩(秋田藩)は、表高20万5800石でしたが、実際には約40万石の生産力があったとされています。藩政の中心課題は、財政の安定と領内の開発でした。

佐竹氏は、新田開発、鉱山開発(阿仁銅山など)、林業振興などに力を入れ、藩の経済基盤を強化しました。また、教育にも力を入れ、藩校「明徳館」を設立して人材育成に努めました。

幕末には、戊辰戦争で新政府側に付き、奥羽越列藩同盟には参加しませんでした。この判断により、明治維新後も佐竹氏は華族として存続しました。

久保田城へのアクセスと観光情報

アクセス方法

電車: JR秋田駅から徒歩約15分。秋田駅西口から千秋公園入口まで、市街地を通って歩くことができます。

バス: 秋田駅からバスで「千秋公園入口」下車すぐ。

: 秋田自動車道・秋田中央ICから約15分。千秋公園周辺に有料駐車場があります。

観光の所要時間

千秋公園内を散策し、御隅櫓や佐竹史料館を見学する場合、1時間半から2時間程度が目安です。じっくりと歴史を学びながら見学する場合は、さらに時間を要します。

周辺の観光スポット

  • 秋田市立赤れんが郷土館: 千秋公園から徒歩約5分。旧秋田銀行本店の建物を利用した郷土資料館。
  • 秋田県立美術館: 千秋公園から徒歩約10分。藤田嗣治の作品を多数収蔵。
  • 秋田市民市場: 秋田駅近く。新鮮な海産物や地元の食材が並ぶ市場。

久保田城の文化的価値

久保田城は、江戸時代初期の城郭建築の特徴を今に伝える貴重な史跡です。特に、石垣をほとんど用いず土塁と堀を中心とした防御構造は、関東・東北地方の城郭の典型例として、城郭史研究においても重要な位置を占めています。

また、佐竹氏という常陸源氏の名門が、国替えという困難を乗り越えて秋田の地に根付き、約260年にわたり藩政を維持した歴史は、日本の近世史を理解する上で重要です。

千秋公園として整備された現在も、市民の憩いの場として親しまれながら、歴史的遺産を保存・継承している点も、文化的に高く評価されています。

まとめ

久保田城は、佐竹義宣が江戸時代初期に築いた秋田藩の居城であり、石垣を用いず土塁と堀を中心とした独特の防御構造を持つ平山城です。天守閣を持たない城としても知られ、関東・東北地方の城郭建築の特徴を色濃く残しています。

現在は千秋公園として整備され、復元された御隅櫓や表門、残された土塁や堀の遺構を通じて、往時の姿を偲ぶことができます。日本100名城の一つに数えられ、四季折々の美しい景観とともに、多くの観光客や市民に親しまれています。

秋田市を訪れた際には、ぜひ久保田城跡である千秋公園を訪れ、佐竹氏の歴史と東北の城郭文化に触れてみてください。

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