久下城(兵庫県)

久下城(兵庫県)
所在地 〒669-3127 兵庫県丹波市山南町岡本

久下城(兵庫県)完全ガイド|丹波の国人領主・久下氏の居城と歴史

兵庫県丹波市春日町にある久下城(くげじょう)は、別名を玉巻城(たままきじょう)ともよばれる中世山城です。武蔵国から丹波国へと移住した久下氏が代々居城とし、室町時代には丹波守護代として栄華を極めた一族の本拠地でした。本記事では、久下城の歴史、城郭構造、アクセス方法、そして現在見学できる遺構まで、この歴史ある城跡について詳しく解説します。

久下城とは|玉巻城ともよばれる丹波の要衝

久下城は兵庫県丹波市春日町に位置する中世山城で、丹波の国人領主であった久下氏が代々居城とした城郭です。標高約300メートルの山頂に築かれ、周辺地域を見渡せる戦略的要地に位置しています。

玉巻城という別名の由来については諸説ありますが、地名や地形的特徴に由来すると考えられています。中世の丹波国においては、後述する黒井城や八上城と並ぶ重要な拠点として機能していました。

城の規模は中世山城としては中規模で、主郭を中心に複数の曲輪が配置され、堀切などの防御施設が確認できます。現在も山中には当時の遺構が良好な状態で残されており、中世城郭の構造を学ぶ上で貴重な史跡となっています。

久下氏の歴史|武蔵国から丹波国への移住

武蔵国時代の久下氏

久下氏はもともと武蔵国大里郡久下保(現在の埼玉県熊谷市付近)に居住していた武士団でした。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、武蔵国で勢力を持つ有力な在地領主として知られていました。

久下氏は武蔵七党の一つである猪俣党に属し、武蔵国北部において相応の勢力を誇っていました。この時代の久下氏は、地域の武装集団を率いる武士団の棟梁として活動していたのです。

源頼朝への従軍と丹波への移住

久下氏が丹波国と関わりを持つようになったのは、源頼朝が平氏追討の旗揚げを行った際のことです。久下氏は手勢250騎を引き連れて源頼朝の軍に参加し、平氏との戦いで武功を立てました。

この軍功により、久下氏は源頼朝から丹波国の領家職および2カ荘を賜ることになります。これが久下氏と丹波国との関わりの始まりであり、その後久下氏は丹波国へと本拠を移すことになりました。

鎌倉幕府成立後、久下氏は丹波国における御家人として地位を確立し、久下城を築いて代々の居城としました。武蔵国での経験を活かし、丹波国においても在地領主として勢力を拡大していったのです。

室町時代の隆盛|丹波守護代として

室町時代に入ると、久下氏は丹波守護代という重要な役職に就任します。守護代とは守護の代理として国内の行政や軍事を統括する役職で、実質的に丹波国を支配する立場にありました。

この時期の久下氏は、丹波国における最有力の国人領主として君臨し、周辺の国人衆を統率する立場にありました。久下城を本拠として、丹波国内の政治・軍事の中心的役割を担っていたのです。

室町幕府の権威を背景に、久下氏は丹波国内で確固たる地位を築き上げました。この時期が久下氏にとって最も繁栄した時代であったといえるでしょう。

明応の政変と久下氏の衰退

細川政元による政変の影響

久下氏の運命が大きく変わったのは、1493年(明応2年)に起こった「明応の政変」でした。この政変は、細川政元が将軍足利義材(後の義稙)を追放し、足利義澄を新将軍に擁立したクーデターです。

明応の政変は室町幕府の権力構造を大きく変え、全国各地の守護・守護代の勢力関係にも影響を及ぼしました。丹波国においても、この政変をきっかけに久下氏は守護代の地位を失い、勢力を大きく削がれることになります。

守護代という権威を失った久下氏は、丹波国内での影響力を急速に低下させました。それまで従属していた国人衆も離反し、久下氏は一国人領主としての地位に転落したのです。

戦国時代の従属関係

戦国時代に入ると、久下氏は独立した勢力を維持することができず、より強大な勢力に従属することを余儀なくされました。特に丹波国東部で勢力を拡大していた黒井城の赤井氏(荻野氏)に従属する立場となります。

赤井氏は「丹波の赤鬼」と恐れられた荻野直正(赤井直正)を中心に、丹波国東部から中部にかけて強大な勢力を築いていました。久下氏は赤井氏の傘下に入ることで、戦国時代の激動を生き延びようとしたのです。

しかし、この従属関係が久下氏と久下城の運命を決定づけることになります。

明智光秀の丹波攻略と久下城の落城

織田信長の丹波平定作戦

1570年代後半、織田信長は畿内から中国地方への勢力拡大を進める中で、丹波国の平定を重要課題としていました。丹波国は京都に近く、山陰方面への交通の要衝でもあったため、その制圧は戦略上不可欠だったのです。

信長はこの任務を重臣の明智光秀に命じました。光秀は1575年(天正3年)から断続的に丹波攻略を開始しますが、赤井直正を中心とする丹波国人衆の激しい抵抗に遭い、一時は敗退を余儀なくされます。

1579年の総攻撃と久下城落城

1578年に赤井直正が病死すると、丹波国人衆の結束が弱まり始めました。明智光秀はこの機を逃さず、1579年(天正7年)に丹波国への総攻撃を開始します。

光秀は大軍を率いて丹波国内の城郭を次々と攻略していきました。赤井氏の本拠である黒井城が落城すると、その傘下にあった久下城も攻撃の対象となります。

久下城は黒井城落城後まもなく明智軍の攻撃を受け、激しい戦闘の末に落城しました。この落城により、鎌倉時代以来約400年にわたって続いた久下氏の久下城支配は終焉を迎えたのです。

落城後の久下城は廃城となり、以後再び使用されることはありませんでした。久下氏のその後については詳細な記録が残されていませんが、一族は離散したものと考えられています。

久下城の城郭構造と遺構

縄張りと曲輪配置

久下城は典型的な中世山城の構造を持っています。標高約300メートルの山頂部に主郭(本丸)を置き、その周囲に複数の曲輪(くるわ)を配置した連郭式の縄張りとなっています。

主郭は城の中心部であり、城主の居館や指揮所が置かれていたと考えられます。主郭の周囲には二の曲輪、三の曲輪などが階段状に配置され、敵の侵入を防ぐ多重防御構造となっていました。

曲輪間には土塁や切岸が設けられ、攻撃側の動きを制限する工夫が随所に見られます。山城特有の地形を巧みに利用した縄張りは、中世城郭技術の粋を集めたものといえるでしょう。

堀切などの防御施設

現在の久下城跡で最もよく確認できる遺構が堀切(ほりきり)です。堀切とは、尾根を断ち切るように掘られた空堀で、敵の侵入を防ぐ重要な防御施設です。

久下城では複数の堀切が確認されており、特に城の背後(尾根続き)の部分には大規模な堀切が設けられています。これは最も攻撃を受けやすい方向からの敵を阻止するための施設でした。

堀切の深さは現在でも数メートルに及ぶ箇所があり、当時の防御力の高さを物語っています。また、堀切から掘り出した土は土塁として積み上げられ、二重の防御線を形成していました。

これらの遺構は500年近い歳月を経た現在でも明瞭に確認でき、中世山城の構造を理解する上で貴重な資料となっています。

竪堀と横堀

堀切以外にも、久下城には竪堀(たてぼり)や横堀の痕跡が残されています。竪堀は斜面に沿って縦方向に掘られた堀で、敵が斜面を登ってくるのを妨げる役割を果たしました。

横堀は等高線に沿って横方向に掘られた堀で、曲輪の周囲を巡らせることで防御力を高める施設です。これらの堀は相互に連携して城全体の防御システムを構成していました。

中世山城の技術が集約された久下城の遺構は、城郭研究者や歴史愛好家にとって興味深い対象となっています。

久下氏の菩提寺・長慶院

山麓に残る菩提寺

久下城の山麓には、久下氏の菩提寺である長慶院(ちょうけいいん)が現在も残されています。長慶院は久下氏が代々信仰し、一族の墓所としても使用された寺院です。

長慶院には久下氏に関連する史料や墓石が残されており、久下氏の歴史を知る上で重要な場所となっています。城跡とともに訪れることで、久下氏の信仰生活や文化的側面を知ることができます。

寺院の境内は静かで落ち着いた雰囲気に包まれており、かつての国人領主一族の栄枯盛衰を偲ぶことができる空間です。

久下氏の供養と記憶の継承

長慶院では現在も久下氏の供養が続けられており、地域の歴史として久下氏の記憶が継承されています。地元の人々にとって、久下氏と久下城は郷土の誇りある歴史の一部なのです。

久下城を訪れる際には、ぜひ長慶院にも足を運び、久下氏の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

久下城へのアクセスと見学情報

所在地と交通アクセス

所在地: 兵庫県丹波市春日町

公共交通機関でのアクセス:

  • JR福知山線「黒井駅」または「石生駅」から車で約15分
  • 路線バスは本数が限られるため、タクシーの利用が便利です

自動車でのアクセス:

  • 舞鶴若狭自動車道「春日IC」から約10分
  • 駐車場は城跡近くに数台分のスペースがあります

登城の注意点

久下城は本格的な山城であり、登城には以下の準備と注意が必要です。

服装と装備:

  • 動きやすい服装と登山靴またはトレッキングシューズ
  • 夏季は虫除けスプレー、冬季は防寒具
  • 飲料水と軽食
  • 地図やスマートフォンのGPSアプリ

登城時間: 登り約30〜40分、下り約20〜30分(個人差があります)

ベストシーズン: 春(4〜5月)と秋(10〜11月)が気候的に最適です。夏季は暑さと虫に注意が必要で、冬季は積雪の可能性があります。

安全上の注意:

  • 単独での登城は避け、できれば複数人で訪れましょう
  • 天候不良時は登城を控えてください
  • 遺構を傷つけないよう注意して見学しましょう
  • 携帯電話の電波状況を事前に確認しておきましょう

周辺の城郭との関連

黒井城との関係

久下城を語る上で欠かせないのが、黒井城(兵庫県丹波市)との関係です。黒井城は赤井氏(荻野氏)の本拠地であり、戦国時代には久下氏が従属していた城でした。

黒井城は「丹波の赤鬼」荻野直正の居城として有名で、明智光秀の丹波攻略において最大の難敵となった城です。久下城と黒井城は地理的にも近く、両城を訪れることで丹波国の戦国史をより深く理解できます。

黒井城も現在は国の史跡に指定されており、石垣などの遺構が良好に残されています。久下城とセットで訪れることをお勧めします。

八上城と丹波の城郭ネットワーク

丹波国のもう一つの重要拠点が八上城(兵庫県丹波篠山市)です。八上城は波多野氏の居城で、黒井城と並んで明智光秀の丹波攻略において激戦地となりました。

久下城、黒井城、八上城は丹波国における主要な城郭として、相互に影響し合いながら中世から戦国時代の歴史を彩りました。これらの城を巡ることで、丹波国の複雑な政治・軍事状況を体感できるでしょう。

久下城の歴史的意義

久下城は、単なる一地方の山城ではなく、日本中世史において重要な意義を持つ城郭です。

第一に、武士の移住と土着化の事例として貴重です。武蔵国から丹波国へと移住した久下氏が、新天地で勢力を築き、守護代にまで上り詰めた過程は、鎌倉時代の武士社会の動態を示しています。

第二に、室町幕府の地方支配構造を理解する上で重要です。守護代として機能した久下氏の活動は、室町幕府がいかに地方を統治していたかを示す好例です。

第三に、戦国時代の権力構造の変化を物語っています。明応の政変による失脚から赤井氏への従属、そして明智光秀による滅亡という過程は、戦国時代の下剋上と権力の流動性を象徴しています。

第四に、中世山城の構造研究において価値があります。良好に残された遺構は、中世城郭技術の発展を知る上で重要な資料となっています。

まとめ|久下城を訪れる価値

久下城(玉巻城)は、武蔵国から移住した久下氏が400年にわたって居城とし、丹波守護代として栄華を極めながらも、戦国の動乱の中で滅びていった歴史を持つ城です。

現在も山中に残る堀切や曲輪などの遺構は、中世山城の姿を今に伝える貴重な史跡です。姫路城や竹田城のような華やかさはありませんが、地方の国人領主が築いた実戦的な山城として、中世史ファンや城郭愛好家にとって訪れる価値の高い城跡といえるでしょう。

山麓の長慶院とともに訪れることで、久下氏の歴史をより深く理解することができます。丹波市を訪れる際には、ぜひ久下城跡に足を運び、中世丹波の歴史に触れてみてください。

兵庫県には久下城以外にも多くの歴史的な城郭が残されています。黒井城、八上城などの周辺の城とともに巡ることで、丹波国の複雑で興味深い戦国史を体感できるはずです。

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