勝賀城(香川県)

勝賀城(香川県)
所在地 〒761-8021 香川県高松市鬼無町
公式サイト https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/smph/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/shiseki/katsugajo.html

勝賀城(香川県)完全ガイド – 香西氏の山城から豊臣秀吉の陣城へ

勝賀城とは

勝賀城(かつがじょう)は、香川県高松市鬼無町佐料に所在する中世山城跡です。標高365メートルの勝賀山山頂に築かれたこの城は、讃岐国を代表する豪族・香西氏の詰城として知られ、2023年には国の史跡に指定されました。

瀬戸内海と高松平野を一望できる絶好の立地に築かれた勝賀城は、中世から戦国時代にかけての讃岐の歴史を物語る重要な遺構です。特に天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐の際に大規模な改修が行われ、中世山城から近世的な陣城へと変貌した過程が遺構として残されている点で、城郭史上きわめて貴重な史跡となっています。

勝賀城の歴史

承久の乱と香西氏の成立

勝賀城の歴史は、承久3年(1221年)の承久の乱に遡ります。羽床城主・羽床資高の四男である新居資光の子、資村は承久の乱において鎌倉幕府方として戦功を挙げました。その功により香川郡12郷と阿野郡4郷の郡司に任じられた資村は、苗字を香西と改め、勝賀山に詰城を築城しました。

同時に資村は、勝賀山東麓に平時の居館である佐料城を設けました。これ以降、香西氏は勝賀城を詰城、佐料城を平時の居城とする二城体制で、讃岐西部の支配を確立していきます。この体制は香西氏が滅亡するまで約360年間継続されました。

室町時代の香西氏と細川氏

室町時代に入ると、香西氏は管領細川京兆家の内衆として在京し、幕府の重要な役割を担うようになります。香西氏は「細川四天王」の一人に数えられるほどの有力武将となり、讃岐国内でも大きな勢力を誇りました。

この時期の香西氏は、京都での政治活動と讃岐の領地経営を両立させる必要があり、勝賀城と佐料城の二城体制が重要な意味を持ちました。勝賀城は有事の際の防衛拠点として、また讃岐支配の象徴として維持され続けたのです。

戦国時代と長宗我部元親の侵攻

戦国時代に入ると、讃岐は激しい戦乱の渦に巻き込まれます。天正10年(1582年)、土佐の戦国大名・長宗我部元親が讃岐に侵攻すると、香西氏は抵抗することなく元親の配下となりました。

この時期、勝賀城は長宗我部氏の讃岐支配における重要拠点の一つとして位置づけられました。しかし、この状況は長くは続きませんでした。

天正13年の四国征伐と秀吉による改修

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐が開始されます。秀吉軍は圧倒的な兵力で四国に侵攻し、わずか1ヶ月余りで長宗我部元親を降伏させました。

この四国征伐において、勝賀城は秀吉軍によって接収され、大規模な改修が行われました。秀吉軍は勝賀城を陣城として改修し、讃岐平定の拠点としたのです。この改修により、勝賀城は中世的な山城から、近世城郭の要素を持つ陣城へと変貌しました。

特に注目すべきは、勝賀城南西部に見られる改修の痕跡です。発掘調査により、この部分が天正13年の秀吉による四国攻めの際に改修された陣城であることが明らかになっています。横矢掛かりや虎口の発達した構造は、この時期の改修によるものと考えられています。

廃城とその後

四国征伐後、讃岐は仙石秀久が領有することとなり、勝賀城はその役割を終えて廃城となったと考えられています。その後、香西氏の消息も歴史から消えていきます。

廃城後の勝賀城跡は長らく忘れられた存在でしたが、昭和55年(1980年)に高松市の史跡に指定され、平成28年度(2016年度)から令和2年度(2020年度)にかけて確認調査が実施されました。そして令和5年(2023年)、国の史跡に指定され、香川県では屋島城跡、高松城跡(玉藻城跡)に続く3つ目の国史跡城跡となりました。

勝賀城の構造と縄張り

全体構造

勝賀城は標高364.1メートルの勝賀山山頂部を中心に築かれた山城です。主郭を山頂部に配置し、そこから北へ伸びる尾根と北西側山腹に複数の曲輪を配置する構造となっています。城域は非常に広く、山頂部から山腹にかけて多数の遺構が確認されています。

比高は約320メートルあり、防御性の高い立地となっています。現在は登山道が整備されており、登城口から山頂まで約45分程度で到達できます。

主郭部の特徴

主郭部は近世城郭のような整った縄張りが特徴です。東西に細長い形状をしており、周囲を土塁で囲んでいます。この土塁は高さ2メートル前後あり、防御施設として機能していました。

主郭部には本丸跡、二の丸跡、三の丸跡が東西に連なって配置されています。各曲輪は明確に区画され、それぞれに土塁や虎口が設けられています。特に虎口の構造は複雑で、横矢掛かりを意識した配置となっており、高度な築城技術が用いられていることがわかります。

石垣と土塁

勝賀城の防御施設として、石垣と土塁が重要な役割を果たしています。石垣は主に虎口周辺や曲輪の縁部に築かれており、野面積みの技法が用いられています。これらの石垣の一部は、天正13年の秀吉軍による改修時に築かれたものと考えられています。

土塁は城内各所に残されており、特に主郭部を囲む土塁は保存状態が良好です。土塁の高さや形状から、複数の時期に築かれたことが推定されています。中世段階の土塁と、近世的改修による土塁が混在している点が、勝賀城の特徴といえます。

曲輪の配置

主郭部から北へ伸びる尾根上には、複数の曲輪が階段状に配置されています。これらの曲輪は尾根の地形を巧みに利用して築かれており、相互に連携して防御できる構造となっています。

北西側山腹にも複数の曲輪が確認されており、これらは搦手方面の防御を担っていたと考えられます。曲輪間は切岸で明確に区画され、敵の侵入を困難にする工夫が随所に見られます。

虎口の発達

勝賀城の虎口(出入口)は、非常に発達した構造を持っています。単純な開口部ではなく、横矢掛かりや枡形を意識した複雑な構造となっており、敵の侵入を効果的に防ぐ設計となっています。

特に主郭への虎口は、石垣と土塁を組み合わせた堅固な構造となっており、天正13年の改修時に近世城郭の技術が導入されたことを示しています。この虎口の構造は、中世山城から近世城郭への過渡期の様相を示す重要な遺構です。

南西部の陣城遺構

平成28年度から令和2年度にかけて行われた確認調査により、勝賀城南西部が天正13年の秀吉による四国攻めの際に改修された陣城であることが明らかになりました。

この部分には、短期間で築かれた陣城特有の特徴が見られます。曲輪の配置が規則的で、土塁や虎口が計画的に配置されています。また、石垣の積み方も統一性があり、組織的な工事が行われたことがわかります。

この陣城遺構は、豊臣秀吉の四国統一戦略における勝賀城の重要性を物語るとともに、短期間で大規模な改修を行った秀吉軍の築城技術の高さを示しています。

勝賀城の見所

主郭からの眺望

勝賀城最大の見所は、主郭からの眺望です。標高365メートルの山頂からは、瀬戸内海と高松平野が一望でき、晴れた日には瀬戸大橋や讃岐富士(飯野山)、さらには小豆島まで見渡すことができます。

この眺望は、勝賀城が讃岐西部の支配拠点として優れた立地にあったことを実感させてくれます。香西氏がこの地を本拠に選んだ理由が、この眺望からも理解できるでしょう。

保存状態の良い土塁

勝賀城の土塁は、保存状態が非常に良好です。特に主郭部を囲む土塁は、築城当時の形状をよく留めており、高さや幅から当時の防御力を実感することができます。

土塁の上を歩くこともでき、城兵の視点から城の構造を理解することができます。土塁から見下ろす曲輪の配置や、虎口の位置関係などを観察することで、築城者の意図を読み取ることができるでしょう。

複雑な虎口の構造

勝賀城の虎口は、中世から近世への過渡期の城郭技術を示す重要な遺構です。横矢掛かりを意識した配置や、石垣と土塁を組み合わせた構造は、実際に現地で見ることでその巧妙さを実感できます。

特に主郭への虎口は、敵の侵入経路を限定し、側面から攻撃できる構造となっており、戦国時代の実戦的な築城技術の高さを示しています。

石垣の遺構

勝賀城には、野面積みの石垣が各所に残されています。これらの石垣は、天正13年の改修時に築かれたものが多く、近世城郭への移行期の技術を示す貴重な遺構です。

石垣の規模は小さいものの、積み方や石材の選択に工夫が見られ、当時の石工技術の水準を知ることができます。崩落している部分もありますが、それもまた時の流れを感じさせる要素となっています。

曲輪群の配置

主郭から北へ伸びる尾根上に配置された曲輪群は、地形を巧みに利用した中世山城の典型的な構造を示しています。各曲輪を歩いて回ることで、城全体の防御システムを理解することができます。

曲輪間の切岸や、曲輪内部の平坦面など、細部まで観察することで、当時の城の使われ方を想像することができるでしょう。

整備された登山道

現在、勝賀城跡へは整備された登山道が通じています。登山道沿いには案内板が設置されており、城の歴史や構造について学びながら登城することができます。

登山道は比較的よく整備されていますが、山城であるため相応の体力と装備が必要です。登城の際は、トレッキングシューズなど適切な靴を履き、飲料水を持参することをおすすめします。

地図とアクセス情報

所在地

勝賀城跡は、香川県高松市鬼無町佐料に所在します。勝賀山の山頂部が城跡となっており、登城口は山麓の複数箇所にあります。

公共交通機関でのアクセス

JR高松駅からJR予讃線で約7分、鬼無駅で下車します。鬼無駅から登城口までは徒歩約15分、登城口から山頂の主郭部までは徒歩約45分です。合計で約1時間程度の行程となります。

鬼無駅は普通列車のみ停車する小さな駅ですが、高松駅からのアクセスは良好です。駅から登城口までの道のりは、案内標識に従って進むことができます。

自動車でのアクセス

高松自動車道・高松西ICから約10分です。登城口付近には小規模な駐車スペースがありますが、台数に限りがあるため、混雑時は注意が必要です。

カーナビゲーションで目的地を設定する場合は、「勝賀城跡登城口」または「高松市鬼無町佐料」で検索すると良いでしょう。登城口までの道は、一部細い山道となっているため、運転には注意が必要です。

駐車場情報

登城口付近に数台分の駐車スペースがあります。無料で利用できますが、スペースが限られているため、週末や祝日は混雑する場合があります。

駐車場から登城口までは徒歩数分です。駐車場周辺は住宅地やみかん畑となっているため、近隣住民の迷惑にならないよう配慮が必要です。

登城時の注意事項

勝賀城跡は標高365メートルの山城であり、登城には相応の体力が必要です。以下の点に注意して訪問してください。

  • 服装と装備:トレッキングシューズや運動靴など、歩きやすい靴を着用してください。夏季は帽子や日焼け止め、虫除けスプレーも必要です。
  • 飲料水:山頂には自動販売機や水場がないため、十分な飲料水を持参してください。
  • 所要時間:登城口から山頂まで片道約45分、往復で約1時間30分から2時間を見込んでください。城跡の見学時間を含めると、合計3時間程度の余裕を持つことをおすすめします。
  • 天候:雨天時や雨上がりは登山道が滑りやすくなります。天候が悪い場合は無理をせず、別の日に訪問することをおすすめします。
  • 時期:夏季は気温が高く、熱中症のリスクがあります。春秋の涼しい時期の訪問が快適です。

周辺の観光スポット

佐料城跡

勝賀城の東麓に位置する佐料城跡は、香西氏の平時の居館跡です。現在は宅地化が進んでいますが、一部に土塁などの遺構が残されています。勝賀城とセットで訪問することで、香西氏の二城体制をより深く理解することができます。

屋島

高松市の東部に位置する屋島は、源平合戦の古戦場として有名な史跡です。屋島城跡も国の史跡に指定されており、古代山城の遺構を見ることができます。勝賀城と同じく瀬戸内海を一望できる眺望が魅力です。

高松城跡(玉藻城跡)

高松市中心部に位置する高松城跡は、江戸時代の讃岐高松藩の居城跡です。海に面した水城として知られ、現在は玉藻公園として整備されています。石垣や堀、櫓などの遺構が良好に残されており、国の史跡に指定されています。

讃岐国分寺跡

高松市国分寺町に所在する讃岐国分寺跡は、奈良時代に建立された国分寺の遺跡です。現在も讃岐国分寺が存続しており、境内には国の特別史跡に指定された遺跡が残されています。

勝賀城の文化財指定

勝賀城跡は、昭和55年(1980年)に高松市の史跡に指定されました。その後、平成28年度から令和2年度にかけて実施された確認調査により、城跡の重要性が再評価され、令和5年(2023年)10月20日に国の史跡に指定されました。

国史跡指定の理由として、以下の点が評価されました。

  1. 中世讃岐国の有力豪族・香西氏の本拠として、約360年間にわたり讃岐西部の政治・軍事の中心であったこと
  2. 天正13年の豊臣秀吉による四国征伐の際に改修され、中世山城から近世陣城への変遷過程が遺構として残されていること
  3. 四国統一をめぐる戦乱の舞台となった歴史的重要性
  4. 遺構の保存状態が良好で、学術的価値が高いこと

これにより、香川県では屋島城跡、高松城跡(玉藻城跡)に続く3つ目の国史跡城跡となり、香川県の城郭史を代表する重要な史跡として位置づけられることとなりました。

勝賀城の調査と研究

平成28年度(2016年度)から令和2年度(2020年度)にかけて、高松市教育委員会により勝賀城跡の確認調査が実施されました。この調査では、発掘調査と測量調査が行われ、特に勝賀城南西部を中心とした詳細な調査が実施されました。

調査の結果、以下のことが明らかになりました。

  • 南西部の遺構は、天正13年の秀吉による四国攻めの際に秀吉勢が改修した陣城であること
  • 中世段階の遺構と近世的改修の遺構が重複して存在すること
  • 石垣や土塁、虎口などの遺構が良好に保存されていること
  • 曲輪の配置や構造から、計画的な築城・改修が行われたこと

これらの調査成果は、『勝賀城跡III』などの発掘調査報告書として刊行されており、城郭研究の重要な資料となっています。

勝賀城を訪れる際のポイント

最適な訪問時期

勝賀城跡を訪問する最適な時期は、春(3月から5月)と秋(10月から11月)です。この時期は気温が穏やかで、登山に適した気候となります。特に秋は紅葉も楽しめ、眺望も良好です。

夏季(6月から9月)は気温が高く、熱中症のリスクがあるため、早朝の訪問をおすすめします。冬季(12月から2月)は比較的温暖ですが、北風が強い日もあるため、防寒対策が必要です。

所要時間の目安

  • 登城口から主郭まで:片道約45分
  • 城跡の見学:約30分から1時間
  • 往復の合計:約2時間から3時間

時間に余裕を持って訪問し、ゆっくりと遺構を観察することをおすすめします。

持参すると便利なもの

  • トレッキングポール(登山用ストック)
  • 十分な飲料水(500ml以上)
  • タオルや手ぬぐい
  • 虫除けスプレー(春から秋)
  • 帽子と日焼け止め
  • カメラ(眺望や遺構の撮影用)
  • 双眼鏡(眺望を楽しむため)

見学のコツ

勝賀城跡を効果的に見学するためのコツをいくつか紹介します。

  1. 事前学習:訪問前に城の歴史や構造について学んでおくと、現地での理解が深まります。本記事や参考文献を読んでから訪問することをおすすめします。
  1. 案内板の活用:登山道や城跡には案内板が設置されています。これらをよく読むことで、遺構の意味や重要性を理解できます。
  1. 写真撮影:土塁や虎口、石垣などの遺構は、複数の角度から撮影することで、その構造をより理解できます。
  1. 眺望を楽しむ:主郭からの眺望は、晴れた日に訪問することで最大限に楽しめます。天候を確認してから訪問しましょう。
  1. ゆっくりと観察:急いで見学するのではなく、時間をかけて遺構を観察することで、新たな発見があります。

まとめ

勝賀城は、香川県を代表する中世山城跡であり、承久の乱から四国征伐まで、約360年にわたる讃岐の歴史を物語る重要な史跡です。香西氏の本拠として栄え、豊臣秀吉による四国統一の舞台となったこの城は、中世から近世への移行期の城郭技術を示す貴重な遺構を残しています。

標高365メートルの山頂からの眺望は素晴らしく、瀬戸内海と高松平野を一望できます。保存状態の良い土塁や石垣、複雑な虎口の構造など、見所も豊富です。

2023年に国の史跡に指定されたことで、勝賀城跡の重要性は広く認識されるようになりました。香川県を訪れる際は、ぜひこの歴史ある山城跡を訪問し、讃岐の歴史と文化に触れてみてください。登山の達成感とともに、戦国時代の息吹を感じることができるでしょう。

地図

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