穆佐城(宮崎県)

穆佐城(宮崎県)
所在地 〒880-2214 宮崎県宮崎市高岡町小山田小山田918
公式サイト http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207163

穆佐城(宮崎県)完全ガイド:日向三高城の歴史と見どころを徹底解説

穆佐城とは

穆佐城(むかさじょう)は、宮崎県宮崎市高岡町小山田に位置する中世の平山城です。穆佐院高城(むかさいんたかじょう)という別名でも知られ、新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)、三俣院高城(宮崎県都城市高城町)と並んで「日向三高城」の一つに数えられる重要な山城です。

標高約60メートルの低丘陵上に築かれたこの城は、東流する大淀川右岸に立地し、佐土原から都城を経て薩摩へ向かう薩摩街道上の要衝を占めていました。全長約600メートルにわたる広大な城域を持ち、大規模な空堀によって4つの曲輪群に分けられた構造が特徴です。

平成14年(2002年)3月には、南九州の山城に見られる大規模な曲輪群や堀切、土塁などがよく残されていることが評価され、国史跡に指定されました。宮崎県内で最も古い時期から存在する中世の山城として、歴史的価値が高く認められています。

穆佐城の基本情報

所在地と立地

所在地:宮崎県宮崎市高岡町小山田
旧国名:日向国
標高:約60メートル
比高:約40メートル
分類・構造:平山城
築城時期:14世紀前半(南北朝時代)

穆佐城は大淀川の右岸に位置し、周辺はみかん畑が広がる丘陵地帯です。東麓には旧穆佐小学校の跡地があり、現在は穆佐城跡ガイダンス施設が設置されています。

通称・別名

  • 穆佐院高城(むかさいんたかじょう)
  • 六笠城(むかさじょう)
  • 高城(たかじょう)

「穆佐院」とは、古代から中世にかけての荘園制度における行政区画の名称で、この地域を指していました。「高城」という名称は、山城として高所に位置することに由来しています。

築城主と歴史的位置づけ

築城主:畠山直顕(はたけやまなおあき)
主な城主:畠山氏、土持氏、伊東氏、島津氏
廃城年:江戸時代初期(一国一城令による)

穆佐城は伊東四十八城の一つとして数えられ、日向国における戦略的要衝として機能しました。特に南北朝時代から戦国時代にかけて、九州における政治・軍事の中心地の一つとして重要な役割を果たしています。

穆佐城の歴史

南北朝時代:畠山氏による築城

穆佐城の歴史は、建武3年(1336年)に遡ります。足利尊氏は一族の畠山直顕を日向国に派遣し、南朝方の制圧を命じました。『日向記』によると、畠山直顕は穆佐城を本拠として南朝方との戦いに従事したとされています。

この時期、日本は南北朝の動乱期にあり、九州でも南朝方と北朝方の激しい争いが続いていました。畠山氏は足利尊氏の命を受けて日向国守護として赴任し、穆佐城を拠点に南朝方勢力の制圧に努めました。穆佐城は、この南北朝の争乱において北朝方の重要な軍事拠点として機能したのです。

畠山氏による支配は、日向国における足利幕府の影響力を確立する上で重要な役割を果たしました。穆佐城の立地は、大淀川の水運と薩摩街道の陸路を押さえる戦略的要衝であり、南九州における軍事・政治の中心地として機能しました。

室町時代:土持氏の時代

畠山氏の後、穆佐城は土持氏の支配下に入りました。土持氏は日向国の有力な在地領主であり、中世を通じて大きな影響力を持っていました。土持氏の時代、穆佐城は日向国における重要な拠点として維持され、周辺地域の支配拠点として機能しました。

土持氏は、日向国の複雑な政治情勢の中で、時には島津氏と結び、時には対立しながら勢力を維持しました。穆佐城は、こうした政治的駆け引きの舞台となり、日向国における土持氏の権力基盤を支える重要な城郭でした。

戦国時代:伊東氏の支配と最盛期

戦国時代に入ると、穆佐城は伊東氏の支配下に入りました。伊東氏は日向国の戦国大名として勢力を拡大し、最盛期には日向国の大部分を支配下に置きました。穆佐城は伊東四十八城の一つとして、伊東氏の領国支配の重要な拠点となりました。

伊東氏の時代、穆佐城は大規模な改修が行われたと考えられています。発掘調査の結果から、主郭には礎石建物や掘立柱建物が建てられ、城主の居館として整備されていたことが明らかになっています。また、大規模な堀切や土塁が構築され、防御機能が強化されました。

伊東氏は16世紀中頃から後半にかけて全盛期を迎えましたが、天正5年(1577年)の木崎原の戦いで島津氏に大敗すると、急速に勢力を失いました。この敗北により、伊東氏は日向国から豊後国(現在の大分県)へ逃れることを余儀なくされました。

島津氏の支配と廃城

伊東氏の没落後、穆佐城は島津氏の支配下に入りました。島津氏第15代当主・島津忠国が穆佐城を支配し、日向国における島津氏の勢力拡大の拠点として機能しました。天正年間(1573年~1592年)には、島津氏による九州統一の過程で重要な役割を果たしました。

しかし、豊臣秀吉の九州平定後、島津氏は薩摩・大隅・日向の一部に領地を削減されました。その後、江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に発令された一国一城令により、穆佐城は廃城となりました。

廃城後、穆佐城は農地や山林として利用されるようになりましたが、城の遺構は比較的良好に保存されました。特に大規模な堀切や土塁、曲輪群などの遺構が現在まで残り、中世山城の姿を今に伝えています。

穆佐城の構造と遺構

城郭の全体構造

穆佐城は、標高約60メートルの丘陵上に築かれた平山城で、全長約600メートルにわたる広大な城域を持っています。城は大規模な空堀(堀切)によって大きく4つの地区(曲輪群)に分けられており、それぞれが独立した防御単位として機能していました。

この構造は、南九州の山城に特徴的な「群郭式」と呼ばれる縄張りで、複数の曲輪群を配置することで、一つの曲輪が攻め落とされても他の曲輪で防御を継続できる設計となっています。各曲輪群は堀切や土塁で区画され、敵の侵入を効果的に防ぐ構造になっています。

主郭(本丸)

穆佐城の中心部である主郭は、城の最高所に位置し、城主の居館や指揮所が置かれていたと考えられています。発掘調査により、主郭には礎石建物や掘立柱建物の跡が確認されており、瓦や陶磁器などの遺物も出土しています。

主郭は周囲を土塁で囲まれており、虎口(出入口)は厳重に防御されていました。また、主郭からは周辺地域を一望でき、軍事的な監視拠点としても機能していたことがわかります。

発掘調査結果をもとに作成された復元イメージCGでは、伊東氏が支配していた当時の主郭の様子が再現されており、穆佐城跡ガイダンス施設で見ることができます。

堀切と土塁

穆佐城の最大の特徴は、大規模な堀切です。堀切は尾根を断ち切るように掘られた空堀で、敵の侵入を防ぐ重要な防御施設です。穆佐城には複数の堀切が設けられており、その規模の大きさは南九州の山城の中でも際立っています。

堀切の深さは最大で10メートル以上に達する箇所もあり、急峻な斜面と相まって強固な防御線を形成していました。また、堀切の両側には土塁が築かれており、堀切を越えようとする敵に対して上方から攻撃できる構造になっています。

土塁は曲輪の周囲にも築かれており、敵の矢や鉄砲から城内を守る役割を果たしていました。穆佐城の土塁は現在も良好に残っており、当時の築城技術の高さを物語っています。

曲輪群の配置

穆佐城の4つの曲輪群は、それぞれ異なる役割を持っていたと考えられています。主郭を中心に、二の曲輪、三の曲輪などが配置され、それぞれが独立した防御単位として機能していました。

各曲輪群には、兵士の駐屯施設や武器・食料の貯蔵施設などが置かれていたと推定されています。また、曲輪間の連絡路は複雑に設計されており、敵が容易に中心部に到達できないような工夫が施されていました。

現存する遺構

現在、穆佐城跡には以下の遺構が良好な状態で残されています:

  • 堀切:大規模な空堀が複数箇所に残存
  • 土塁:曲輪の周囲に築かれた土の防壁
  • 曲輪:平坦に削平された区画
  • 虎口:曲輪への出入口の跡
  • 竪堀:斜面に掘られた縦方向の堀

これらの遺構は、中世山城の典型的な構造を示しており、当時の築城技術や戦術を理解する上で貴重な資料となっています。

穆佐城跡の保存と整備

国史跡指定と保存活動

穆佐城跡は、平成14年(2002年)3月に国史跡に指定されました。この指定は、穆佐城が南九州の中世山城として高い歴史的価値を持ち、遺構の保存状態が良好であることが評価されたものです。

国史跡指定後、宮崎市は穆佐城跡の保存整備事業に取り組んでいます。この事業では、遺構の保存を最優先としながら、来訪者が安全に見学できるよう遊歩道の整備や案内板の設置などが進められています。

穆佐城跡ガイダンス施設

平成27年(2015年)10月17日、穆佐城跡の東麓に「穆佐城跡ガイダンス施設」が開館しました。この施設は、旧穆佐小学校の校庭跡の一角に建設され、穆佐城跡を学習・観光資源として公開活用するための拠点となっています。

施設内では、以下の展示が行われています:

  • 解説パネル:穆佐城の歴史を時代ごとに詳しく解説
  • 出土品展示:発掘調査で出土した陶磁器、瓦、武器などの遺物
  • 復元模型:穆佐城の全体像を示す模型
  • 復元イメージCG:伊東氏時代の主郭を再現した映像
  • VR動画:山城の構造や仕組みをわかりやすく説明する映像コンテンツ

ガイダンス施設は、穆佐城跡を訪れる前に立ち寄ることで、城の歴史や構造についての理解を深めることができる重要な施設です。

発掘調査の成果

宮崎市教育委員会による発掘調査は、穆佐城の歴史を解明する上で重要な成果をもたらしました。主郭からは礎石建物や掘立柱建物の跡が発見され、城主の居館があったことが確認されました。

また、出土した陶磁器の分析から、穆佐城が15世紀から16世紀にかけて使用されていたことが明らかになりました。特に中国製の青磁や白磁、国産の陶器などが出土しており、当時の穆佐城が交易によって繁栄していたことを示しています。

さらに、瓦の出土は、穆佐城に瓦葺きの建物が存在していたことを示しており、九州の中世山城としては珍しい特徴です。これは、穆佐城が単なる軍事拠点ではなく、領主の居館としても機能していたことを物語っています。

穆佐城の見どころ

大規模な堀切

穆佐城を訪れた際に最も印象的なのが、大規模な堀切です。深さ10メートル以上、幅も数メートルに及ぶ堀切は、当時の築城技術の高さを物語っています。堀切の底から見上げる土塁の高さは圧巻で、中世の山城の防御力を実感できます。

堀切は複数箇所に設けられており、それぞれが異なる特徴を持っています。遊歩道を歩きながら、これらの堀切を観察することで、穆佐城の防御システムを理解することができます。

主郭からの眺望

主郭は穆佐城の最高所に位置しており、周辺地域を一望できます。晴れた日には、大淀川の流れや宮崎平野、遠くには日向灘まで見渡すことができます。

この眺望は、軍事的な監視拠点としての穆佐城の重要性を理解する上で重要です。城主はこの場所から周辺の動きを監視し、敵の接近をいち早く察知することができました。

土塁と曲輪の構造

穆佐城の土塁は、現在も良好な状態で残されており、当時の築城技術を間近に観察することができます。土塁の高さや厚み、曲輪との位置関係などを観察することで、中世の城郭建築の特徴を理解できます。

曲輪は平坦に削平されており、その広さから多くの兵士が駐屯できたことがわかります。曲輪間の連絡路や虎口の配置なども観察でき、城の防御システムの巧妙さを実感できます。

VR動画とCG復元

穆佐城跡ガイダンス施設では、VR動画とCG復元映像を視聴できます。これらの映像コンテンツは、現在は失われた建物や城の全体像を視覚的に理解する上で非常に有効です。

特に、伊東氏時代の主郭を再現したCG映像は、当時の城の姿を生き生きと伝えており、歴史への想像力を掻き立てます。VR動画では、山城の構造や仕組みがわかりやすく説明されており、初めて山城を訪れる人にも理解しやすい内容となっています。

アクセスと見学情報

交通アクセス

車でのアクセス

  • 宮崎自動車道・宮崎ICから約15分
  • JR宮崎駅から約30分
  • 駐車場:穆佐城跡ガイダンス施設に駐車スペースあり

公共交通機関でのアクセス

  • JR日豊本線・宮崎駅からバスで約40分、「高岡」下車、徒歩約15分

見学情報

穆佐城跡

  • 見学自由(無料)
  • 見学時間の目安:1時間~1時間30分
  • 遊歩道が整備されているが、山城のため歩きやすい靴での訪問を推奨

穆佐城跡ガイダンス施設

  • 開館時間:9時~17時
  • 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 入館料:無料
  • 住所:宮崎県宮崎市高岡町小山田
  • 問い合わせ:宮崎市教育委員会文化財課

見学の注意点

  • 山城のため、滑りにくい靴と動きやすい服装で訪問してください
  • 夏季は虫よけスプレー、飲料水を持参することをおすすめします
  • 雨天時や雨上がりは足元が滑りやすくなるため注意が必要です
  • 遺構の保護のため、土塁や堀切に立ち入らないようにしてください
  • ガイダンス施設で事前に城の構造を学んでから見学すると、より理解が深まります

周辺の観光スポット

高岡町の歴史的建造物

穆佐城跡のある高岡町には、他にも歴史的な見どころがあります。江戸時代の街道筋の面影を残す町並みや、古い神社仏閣などを巡ることで、この地域の歴史をより深く理解することができます。

宮崎市内の観光地

穆佐城跡から宮崎市中心部へは車で約30分の距離にあり、宮崎神宮、青島、日南海岸などの観光地と組み合わせた観光プランを立てることができます。

穆佐城の歴史的意義

穆佐城は、南北朝時代から江戸時代初期まで、約300年にわたって日向国の歴史の舞台となった重要な城郭です。足利尊氏の命を受けた畠山直顕による築城に始まり、土持氏、伊東氏、島津氏と、九州の有力武将が次々と支配した穆佐城の歴史は、そのまま日向国の中世史を物語っています。

特に、穆佐城が「日向三高城」の一つに数えられることは、この城が単なる地方の城郭ではなく、日向国全体の政治・軍事において中枢的な役割を果たしていたことを示しています。薩摩街道の要衝に位置し、大淀川の水運を押さえる戦略的立地は、九州における南北の勢力を結ぶ重要な拠点でした。

現在、穆佐城跡は国史跡として保護され、中世山城の典型例として学術的にも高い価値が認められています。大規模な堀切、土塁、曲輪群などの遺構が良好に保存されており、当時の築城技術や戦術を現代に伝える貴重な歴史遺産となっています。

宮崎市による保存整備事業とガイダンス施設の開設により、穆佐城跡は地域の重要な文化財として、また観光・学習資源として活用されています。VR動画やCG復元などの最新技術を活用した展示は、訪れる人々に中世の城郭の姿を生き生きと伝え、歴史への理解を深める役割を果たしています。

まとめ

穆佐城は、宮崎県宮崎市に残る貴重な中世山城の遺跡です。南北朝時代の14世紀前半に築城されて以来、日向国の歴史の中心舞台として重要な役割を果たしてきました。

畠山氏、土持氏、伊東氏、島津氏と、九州の有力武将が次々と支配した穆佐城の歴史は、日向国の複雑な政治情勢を反映しています。特に伊東氏の時代には大規模な改修が行われ、伊東四十八城の一つとして繁栄しました。

現在、穆佐城跡は国史跡に指定され、大規模な堀切、土塁、曲輪群などの遺構が良好に保存されています。穆佐城跡ガイダンス施設では、発掘調査の成果や復元イメージCGなどを通じて、穆佐城の歴史と構造を詳しく学ぶことができます。

宮崎県を訪れる際には、ぜひ穆佐城跡に足を運んでみてください。中世の山城の姿を今に伝える遺構と、そこから望む美しい眺望は、歴史ロマンを感じさせてくれることでしょう。日向三高城の一つとして、また伊東四十八城の重要拠点として栄えた穆佐城の歴史に触れることで、九州の中世史への理解が深まるはずです。

地図

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