城山城(播磨国)完全ガイド:古代山城と中世山城が共存する兵庫県最古の山城
城山城(きのやまじょう)は、兵庫県たつの市新宮町に位置する、日本の城郭史において極めて重要な山城です。同一の山上に7世紀後半の古代山城と14世紀の中世山城が重層的に築かれており、日本の築城技術の変遷を物語る貴重な史跡となっています。
城山城の概要
城山城は揖保川右岸に面した標高458メートルの亀山(きのやま)の山頂に位置しています。この城の最大の特徴は、古代と中世という異なる時代の山城が同じ場所に立地している点です。
古代山城としての城山城は、西暦663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで大和朝廷・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れた後、大陸からの侵攻に備えて西日本各地に築城された古代山城の一つです。神籠石系山城に分類され、兵庫県内では最古の古代山城とされています。
中世山城としての城山城は、播磨国の守護大名であった赤松氏が白旗城と共に拠点とした重要な山城で、特に嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱において、赤松満祐が最後を遂げた場所として歴史に名を残しています。
城山城の歴史
古代山城としての築城
城山城の歴史は7世紀後半に遡ります。663年の白村江の戦いにおいて、日本(大和朝廷)は朝鮮半島での影響力を失い、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れる事態となりました。この危機に対応するため、天智天皇は西日本各地に防衛拠点となる山城の築城を命じました。
城山城はこの時期に築かれた古代山城の一つで、瀬戸内海から内陸部へ侵入する敵を迎え撃つ戦略的要地に位置しています。揖保川を見下ろす亀山の地形を活かし、山体全体を要塞化する神籠石系山城の技術で築城されました。
山体に組まれた石塁は現在も複数箇所で確認でき、特に石塁Cは全長41メートル、高さ3メートルの規模を持ち、当山城の石塁としては最大のものです。また、「門の築石」と呼ばれる城門の礎石も出土しており、古代山城としての構造を今に伝えています。
中世における再利用と赤松氏の時代
古代山城として築城された後、城山城は一時期山岳寺院として利用されたと考えられています。その後、南北朝時代に入ると、播磨国の守護大名として勢力を拡大した赤松氏によって中世山城として再整備されることになります。
赤松円心(えんしん)の三男である赤松則祐(のりすけ)が、正平7年・観応3年(1352年)頃から20年以上の歳月をかけて城山城を整備したことが「東寺百合文書」などの史料から確認できます。則祐は白旗城に代わる新たな居城として城山城を選び、古代山城の遺構を活用しながら中世の城郭技術を加えて強固な山城へと改修しました。
則祐は他にも感状山城、長水城などを築城し、播磨における赤松氏の支配体制を確立しました。城山城は赤松氏の詰本城(つめほんじょう)、すなわち有事の際に立て籠もる最終防衛拠点として位置づけられました。
嘉吉の乱と城山城の落城
城山城が歴史の表舞台に登場するのは、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱においてです。当時の赤松氏当主であった赤松満祐(みつすけ)は、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)を暗殺するという前代未聞の事件を起こしました。
義教暗殺後、満祐は播磨に逃れて城山城に籠城しました。室町幕府は山名宗全(持豊)らを総大将とする討伐軍を派遣し、城山城を包囲しました。幕府軍の猛攻を受けた城山城は最終的に落城し、満祐は自害して果てました。この事件により赤松氏の本家は一時断絶することになります。
嘉吉の乱における城山城攻防戦は、中世山城の実戦使用例として重要な歴史的事例となっています。
近代以降の発見と研究
城山城の古代山城としての価値が再発見されたのは比較的最近のことです。1980年代にたつの市教育委員会の義則敏彦氏が、中世山城として知られていた城山城の同じ場所に古代山城の遺構を発見したことで、学術的に大きな注目を集めました。
この発見により、城山城は古代から中世にかけての日本の築城技術の変遷を一つの場所で観察できる貴重な遺跡として認識されるようになりました。現在も継続的な調査研究が行われており、新たな知見が蓄積されています。
城山城の構造と遺構
立地と地形
城山城が築かれた亀山は、揖保川右岸に位置する標高458メートルの山です。「きのやま」という読み方は地元での呼称で、古くからこの地域で親しまれてきた山名です。
山頂からは揖保川流域を一望でき、播磨平野の中央部を見渡すことができます。古代においては瀬戸内海から内陸部への侵入ルートを監視する戦略的要地であり、中世においては播磨国を支配する拠点として最適な位置にありました。
急峻な山容は自然の防御力を提供し、攻城側にとっては容易に攻め落とせない難攻不落の要塞となっていました。
古代山城の遺構
城山城の古代山城遺構は、神籠石系山城の特徴を色濃く残しています。神籠石系山城とは、山の斜面や尾根に沿って石塁を巡らせる築城方式で、朝鮮半島の影響を受けた技術とされています。
石塁
現在確認されている石塁は複数箇所に分かれており、石塁a、b、c、dと呼ばれています。中でも石塁Cは最大規模で、全長41メートル、高さ3メートルに及びます。石塁は自然石を積み上げた構造で、当時の高度な土木技術を示しています。
石塁は山の等高線に沿って配置され、敵の侵入を防ぐとともに、城内の区画を形成する役割を果たしていました。
城門の礎石
「門の築石」と呼ばれる城門の礎石が出土しており、古代山城には複数の出入口が設けられていたことが分かります。これらの城門は防御上の要所に配置され、有事の際には閉鎖して敵の侵入を阻止する仕組みになっていました。
礎石の配置から、城門の規模や構造を推定する研究が進められています。
中世山城の遺構
赤松則祐によって整備された中世山城としての城山城は、古代山城の遺構を活用しながらも、中世の築城技術を加えた複合的な構造となっています。
曲輪(くるわ)
山頂部には複数の曲輪(平坦地)が造成されており、主郭(本丸)を中心に段階的に配置されています。これらの曲輪は居住空間や防衛拠点として機能し、有事の際には多数の兵を収容できる構造になっていました。
堀切と土塁
中世山城特有の防御施設として、尾根を断ち切る堀切(ほりきり)や土を盛り上げた土塁が確認されています。これらは古代山城にはない中世的な防御技術で、赤松氏による改修の痕跡と考えられます。
井戸跡
長期の籠城に備えて、城内には複数の井戸が掘られていたと推定されています。山城における水の確保は死活問題であり、城山城でも水源の確保に細心の注意が払われていました。
城郭構造の特徴
城山城の城郭構造は、古代山城と中世山城の二重構造という点で非常に特徴的です。
古代山城としては、山体全体を石塁で囲む「包囲式」の構造を採用しています。これは朝鮮式山城の影響を受けた技術で、広大な山域を城郭化することで、多数の人員や物資を収容できる利点がありました。
中世山城としては、山頂部に主郭を置き、周囲に複数の曲輪を配置する「連郭式」の構造が採用されています。尾根筋には堀切を設けて敵の侵入を阻み、要所には櫓(やぐら)を建てて監視と防御を行う、典型的な中世山城の形態を示しています。
この二つの時代の築城技術が重層的に存在することで、城山城は日本の城郭史における技術変遷の生きた教材となっています。
赤松氏と城山城
赤松氏の興隆
赤松氏は播磨国を本拠とする武家で、南北朝時代から室町時代にかけて大きな勢力を誇りました。赤松円心(法名、俗名は則村)は足利尊氏に従って活躍し、播磨・備前・美作の守護に任じられました。
円心の三男である赤松則祐は、父の遺志を継いで赤松氏の勢力拡大に努めました。則祐は白旗城を本拠としていましたが、より堅固な城を求めて城山城の整備に着手しました。
白旗城との関係
白旗城は赤松円心が築いた城で、赤松氏の本拠地として機能していました。しかし、則祐は白旗城に代わる新たな居城として城山城を選択しました。
城山城が選ばれた理由としては、以下の点が考えられます:
- より高い標高:標高458メートルという高さは、白旗城(標高約440メートル)を上回り、より広範囲を監視できる
- 古代山城の遺構活用:既存の石塁などを活用することで、築城期間と労力を削減できる
- 戦略的位置:揖保川流域を押さえる要地に位置し、播磨国の中央部を支配するのに適している
白旗城と城山城は、赤松氏の「両城体制」として機能し、平時は白旗城を、有事には城山城を使用する運用が想定されていたと考えられます。
赤松満祐と嘉吉の乱
赤松満祐は赤松氏の第6代当主で、室町幕府の有力守護大名の一人でした。しかし、将軍足利義教との関係が悪化し、嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐は自邸に義教を招いて暗殺するという前代未聞の事件を起こしました。
この事件は「嘉吉の乱」と呼ばれ、室町幕府を揺るがす大事件となりました。義教暗殺後、満祐は播磨に逃れ、城山城に籠城して幕府軍を迎え撃つ構えを見せました。
幕府は山名宗全(持豊)、細川持常らを総大将とする大軍を派遣し、城山城を包囲しました。数万の幕府軍に対し、城山城の守備兵は数千と劣勢でしたが、険しい山城の地形を活かして抵抗しました。
しかし、圧倒的な兵力差と長期包囲により、城山城は9月10日に落城しました。満祐は自害し、赤松氏本家は一時断絶することになりました。ただし、後に赤松氏は再興され、戦国時代まで播磨の有力大名として存続します。
周辺の歴史的環境
城山城が位置するたつの市新宮町周辺は、古代から中世にかけて重要な歴史的舞台となってきました。
揖保川流域の歴史
揖保川は播磨国を南北に貫く主要河川で、古代から交通路として重要な役割を果たしてきました。城山城はこの揖保川を見下ろす位置にあり、水運を監視・統制する機能を持っていました。
周辺の城郭
城山城の周辺には、赤松氏が築いた複数の城郭が点在しています:
- 白旗城:赤松円心が築いた赤松氏の本城
- 感状山城:赤松則祐が築いた山城
- 長水城:赤松氏の支城の一つ
これらの城郭は相互に連携し、播磨国における赤松氏の支配ネットワークを形成していました。
古代山城のネットワーク
城山城のような古代山城は、西日本各地に築かれました。瀬戸内海沿岸部には:
- 屋嶋城(讃岐国、現在の香川県)
- 鬼ノ城(備中国、現在の岡山県)
- 大野城(筑前国、現在の福岡県)
などが築かれ、大陸からの侵攻に備える防衛ラインを形成していました。城山城もこのネットワークの一翼を担っていたと考えられます。
城山城の現状と保存
現地の状況
現在の城山城跡は、山林に覆われていますが、石塁や曲輪などの遺構は比較的良好な状態で残っています。登山道が整備されており、歴史愛好家や登山者が訪れることができます。
山頂までの登山には約1時間程度を要し、険しい山道を登る必要があります。しかし、山頂からの眺望は素晴らしく、揖保川流域や播磨平野を一望できます。
文化財としての指定
城山城は歴史的価値が高く評価されており、たつの市の史跡に指定されています。また、兵庫県や国レベルでの文化財指定に向けた調査研究も継続的に行われています。
保存と活用の取り組み
たつの市教育委員会を中心に、城山城の保存と活用に向けた取り組みが進められています:
- 発掘調査:継続的な発掘調査により、遺構の詳細が明らかにされつつあります
- 案内板の設置:登山道や主要遺構には案内板が設置され、訪問者への情報提供が行われています
- 普及啓発活動:講演会やシンポジウムの開催、パンフレットの作成などにより、城山城の価値を広く伝える活動が行われています
城山城へのアクセスと見学
アクセス方法
公共交通機関
- JR姫新線「播磨新宮駅」から徒歩約30分で登山口へ
- 登山口から山頂まで徒歩約1時間
自動車
- 中国自動車道「山崎IC」から約20分
- 登山口付近に駐車スペースあり(台数限定)
見学のポイント
城山城を訪れる際には、以下のポイントに注目すると、より深く城の歴史を理解できます:
- 石塁C:最大規模の石塁で、古代山城の築城技術を間近に観察できます
- 門の礎石:古代山城の城門跡で、当時の構造を想像できます
- 主郭(山頂部):中世山城の中心部で、眺望も素晴らしい
- 堀切:中世の防御施設で、尾根を断ち切った大規模な遺構です
見学時の注意事項
- 山城のため、登山に適した服装と靴が必要です
- 飲料水や行動食を持参してください
- 夏季は虫除け対策、冬季は防寒対策が必要です
- 遺構を傷つけないよう注意してください
- 天候不良時は登山を避けてください
城山城の学術的価値
古代山城研究における意義
城山城は、日本の古代山城研究において重要な位置を占めています。神籠石系山城の構造を良好に残しており、7世紀後半の築城技術を研究する上で貴重な資料となっています。
特に、石塁の構造や配置、城門の形態などは、朝鮮半島の山城との比較研究において重要なデータを提供しています。白村江の戦い後の日本が、どのように大陸の脅威に対応しようとしたのか、その実態を示す具体的な証拠として、城山城は学術的に高く評価されています。
中世城郭研究における意義
中世山城としての城山城は、南北朝時代から室町時代にかけての播磨国における赤松氏の勢力を示す重要な遺跡です。嘉吉の乱という歴史的事件の舞台となったことで、文献史料と考古学的証拠を照合できる貴重な事例となっています。
また、古代山城の遺構を活用して中世山城を構築するという事例は、日本の城郭史において特異な例であり、築城技術の継承と変容を研究する上で重要な意味を持っています。
今後の研究課題
城山城に関しては、まだ解明されていない点も多く、今後の研究が期待されています:
- 古代山城の全容:石塁の全体像や城内の施設配置など、未調査部分が多く残されています
- 中世山城の詳細構造:赤松氏による改修の具体的内容や、嘉吉の乱時の防御施設の実態
- 中間期の利用形態:古代山城廃絶から中世山城築城までの間、どのように利用されていたのか
- 周辺城郭との関係:白旗城など周辺の赤松氏城郭とのネットワークの実態
これらの課題に対し、継続的な発掘調査と文献研究により、新たな知見が蓄積されることが期待されています。
まとめ
城山城は、兵庫県たつの市の亀山に位置する、古代山城と中世山城が重層的に築かれた貴重な史跡です。7世紀後半に白村江の戦い後の防衛拠点として築かれ、14世紀には赤松氏によって中世山城として再整備されました。
標高458メートルの山頂からは播磨平野を一望でき、古代においては大陸からの侵攻に備える戦略的要地、中世においては播磨国を支配する赤松氏の詰本城として機能しました。嘉吉の乱において赤松満祐が最後を遂げた場所として、歴史に名を残しています。
石塁や城門の礎石などの古代山城遺構と、曲輪や堀切などの中世山城遺構が良好に残されており、日本の城郭史における技術変遷を一つの場所で観察できる点で、学術的にも極めて価値の高い遺跡です。
現在も継続的な調査研究が行われており、今後さらなる発見が期待されています。歴史愛好家にとっては、古代から中世にかけての日本の歴史を体感できる貴重な場所として、訪れる価値のある山城と言えるでしょう。
