津城

所在地 〒514-0033 三重県津市丸之内5−1
公式サイト https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011243/index.html

津城の歴史と見どころを徹底解説 | 藤堂高虎が築いた続日本100名城

三重県津市の中心部に位置する津城は、現在「お城公園」として市民に親しまれている歴史的な城跡です。続日本100名城にも認定されたこの城は、織田信長の弟である織田信包が創築し、築城の名手として知られる藤堂高虎が大改修を施した平城として知られています。本記事では、津城の歴史、建築的特徴、見どころ、そして現在の姿まで詳しく解説します。

津城の概要と立地

津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する平城です。北は安濃川、南は岩田川に挟まれた地形を活かし、これらの河川を天然の大外堀として利用していました。低湿地に築かれた城でありながら、防御には極めて堅固な構造を持っていたのが特徴です。

現在は県指定史跡として保護されており、本丸と西之丸、内堀の一部が残存しています。お城公園として美しく整備され、市民の憩いの場として親しまれています。

続日本100名城への認定

津城は2017年に続日本100名城(第152番)に認定されました。この認定により、津城の歴史的価値が改めて評価され、全国の城郭ファンから注目を集めるようになりました。スタンプは高山神社社務所や津市観光協会で入手できます。

津城の歴史 – 創築から廃城まで

織田信包による創築(安濃津城時代)

津城の歴史は、元亀2年(1571年)に遡ります。織田信長の実弟である織田信包が、伊勢上野城主であったときに、安濃津の地に「安濃津城」として築城を開始しました。天正8年(1580年)には五層の天守を建てて完成させ、信包は伊勢国内で22万石を領する大名となりました。

信包は信長の弟という立場を活かし、伊勢地域における織田家の勢力拡大に貢献しました。安濃津城は当初から水運の要所に位置し、伊勢湾に面した重要な拠点として機能していました。

富田氏・富田氏時代の変遷

天正13年(1585年)、織田信包が下野国烏山へ移封されると、信長の次男である織田信雄の家臣・富田知信が5万石で入城しました。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦において、西軍の毛利秀元・長束正家らの大軍に攻められ、安濃津城は落城し焼失してしまいます。

この戦いは「安濃津城の戦い」として知られ、東軍に属していた富田信高(知信の子)は城を守り切れず、城は灰燼に帰しました。この戦いにより、織田信包が築いた五層天守を持つ壮麗な城は失われることとなりました。

藤堂高虎による大改修と津藩の成立

慶長13年(1608年)、伊予国今治から藤堂高虎が22万石で入封し、津藩が成立しました。高虎は築城の名手として知られ、加藤清正と並び称される存在でした。徳川家康の要求に応えて伏見城、江戸城、二条城、篠山城など、天下普請の築城に深く関わった経験を持つ高虎にとって、津城は自身の居城であり、その卓越した築城術のすべてを注ぎ込んだ城となりました。

高虎は焼失した安濃津城を大規模に改修し、近代城郭として整備しました。ただし、天守は再建せず、三重櫓を天守の代用としました。これは幕府への配慮とも、実用性を重視した高虎の判断とも言われています。

慶長16年(1611年)には、高虎は伊賀国・伊勢国内で32万石余を領する大名となり、津城は津藩の藩庁として幕末まで機能し続けました。

江戸時代の津城と城下町の発展

藤堂氏は明治維新まで津城を居城とし、津の城下町は大いに発展しました。津城を中心に整備された城下町は、東海道と伊勢街道が交わる交通の要所として、また伊勢湾の海運拠点として繁栄しました。

本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れた構造は、低湿地でありながら防御に優れた設計でした。城下町には武家屋敷、町人町が整然と配置され、現在の津市の基礎となる都市構造が形成されました。

明治維新後の津城

明治維新後、津城は廃城となり、多くの建造物が取り壊されました。明治4年(1871年)の廃藩置県により津藩は廃止され、城郭としての機能を失いました。城内の建物は次々と解体され、石垣と堀の一部を残すのみとなりました。

戦後、城跡は公園として整備され、現在のお城公園となりました。平成17年(2005年)3月には三重県指定史跡に指定され、歴史的価値が公式に認められています。

歴代城主一覧

津城の歴代城主を時系列で整理すると以下の通りです。

安濃津城時代

  • 織田信包(1571-1585年):22万石、織田信長の実弟
  • 富田知信(1585-1600年):5万石、織田信雄の家臣
  • 富田信高(知信の子、関ヶ原の戦いで落城)

津城時代(藤堂氏)

  • 藤堂高虎(1608-1630年):初代津藩主、22万石(後に32万石余)
  • 藤堂高次(1630-1669年):2代藩主
  • 藤堂高久(1669-1703年):3代藩主
  • 藤堂高睦(1703-1728年):4代藩主
  • 藤堂高敏(1728-1732年):5代藩主
  • 藤堂高朗(1732-1735年):6代藩主
  • 藤堂高治(1735-1771年):7代藩主
  • 藤堂高悠(1771-1794年):8代藩主
  • 藤堂高嶷(1794-1806年):9代藩主
  • 藤堂高兌(1806-1835年):10代藩主
  • 藤堂高猷(1835-1871年):11代藩主、最後の藩主

藤堂氏は11代にわたり津城を居城とし、明治維新まで津藩を治めました。

津城の建築的特徴と藤堂高虎の築城術

高虎の特徴的な石垣技術

津城の最大の見どころは、藤堂高虎の築城技術が凝縮された石垣です。高虎の石垣には独特の特徴があり、津城でもそれを確認できます。

犬走り(いぬばしり)と呼ばれる石垣下の平坦な通路は、高虎の城に特徴的な構造です。石垣の下部に設けられたこの空間は、防御機能を高めるとともに、石垣の安定性を増す役割を果たしていました。津城の石垣でもこの犬走りを見ることができ、高虎の築城術を体感できます。

石垣は高石垣として築かれており、敵の侵入を困難にする設計となっています。石の積み方も精緻で、長年の風雨に耐えて現在まで残っています。

天守を持たない平城

津城の特徴の一つは、天守を持たない平城であることです。織田信包が築いた安濃津城には五層の天守がありましたが、関ヶ原の戦いで焼失した後、藤堂高虎は天守を再建しませんでした。

代わりに三重櫓を天守の代用としました。これは幕府への配慮、建設コストの削減、実用性の重視など、複数の理由が考えられます。高虎は実戦経験豊富な武将であり、見栄えよりも実用性を重視した可能性があります。

現在本丸にある三重櫓は、昭和33年(1958年)に外観模擬で再建されたもので、歴史的建造物ではありませんが、津城のシンボルとして親しまれています。

水堀と河川を活用した防御システム

津城は北に安濃川、南に岩田川という二つの河川に挟まれた立地を巧みに活用しています。これらの河川は天然の大外堀として機能し、城への接近を困難にしていました。

さらに城の周囲には人工的な内堀が巡らされ、二重三重の水堀による防御システムが構築されていました。低湿地という地形的な弱点を逆手に取り、水を活用した堅固な防御を実現したのです。

現在でも内堀の一部が残されており、往時の規模を偲ぶことができます。

津城の見どころとお城公園の魅力

本丸跡と石垣

現在の津城跡で最も見応えがあるのは、本丸跡とその周囲を囲む石垣です。藤堂高虎の築城技術が凝縮された石垣は、数百年の時を経てもなお堅牢さを保っています。

苔むした石垣は歴史の重みを感じさせ、特に春には桜とのコントラストが格別の美しさを見せます。石垣をじっくり観察すると、高虎特有の犬走りや、精緻な石の積み方を確認できます。

本丸内には藤堂高虎公の銅像が建てられており、津城と津藩の発展に尽くした高虎の功績を称えています。

高山神社

本丸内には高山神社が鎮座しています。この神社は藤堂高虎を祭神として祀る神社で、明治12年(1879年)に創建されました。高虎の法名「高山公」にちなんで高山神社と名付けられています。

高山神社は続日本100名城のスタンプ設置場所の一つとなっており、城郭ファンの訪問スポットとなっています。社務所では御朱印もいただけます。

日本庭園と西洋庭園

お城公園として整備された津城跡には、二つの対照的な庭園があります。

日本庭園は繊細で伝統的な造りで、池や石組み、植栽が調和した美しい空間です。静かな散策を楽しみながら、日本の伝統美を堪能できます。

一方、西洋庭園は近代的な設計で、幾何学的な配置や洋風の植栽が特徴です。二つの異なる様式の庭園を一度に楽しめるのは、津城公園の大きな魅力です。

四季折々の風景

津城跡(お城公園)は四季折々の美しい風景が楽しめるスポットとしても知られています。

には約200本の桜が咲き誇り、苔むした石垣と桜のコントラストが格別の美しさを見せます。お花見スポットとして地元の人々に親しまれています。

初夏にはアジサイが色鮮やかに咲き、梅雨の時期ならではの風情を楽しめます。

には紅葉が庭園を彩り、石垣や堀とのコントラストが美しい景観を作り出します。

は静謐な雰囲気の中、石垣や堀の歴史的な姿をじっくりと観察できる季節です。

模擬三重櫓

本丸に建つ三重櫓は、昭和33年(1958年)に外観模擬で再建されたものです。歴史的建造物ではありませんが、津城のシンボルとして親しまれ、遠くからでも目立つランドマークとなっています。

櫓の姿は津城の往時の姿を偲ばせ、写真撮影のスポットとしても人気があります。

堀端の散策路

内堀の周囲には整備された散策路があり、堀を眺めながらの静かな散歩を楽しめます。堀に映る石垣や櫓の姿、水面に浮かぶ水鳥など、のんびりとした時間を過ごせます。

堀端のベンチに座って休憩しながら、歴史に思いを馳せるのも津城訪問の楽しみ方の一つです。

津城とセンターパレスの復元模型

津市の商業施設「センターパレス」には、津城の精巧な復元模型が展示されています。この模型は往時の津城の姿を再現しており、現在は失われた建造物の配置や城郭全体の構造を理解するのに役立ちます。

模型を見ることで、本丸、西之丸、出丸の配置、堀のシステム、城下町の構造などを立体的に把握できます。津城跡を訪れる前後にセンターパレスの模型を見学すると、より深く津城を理解できるでしょう。

津城へのアクセスと周辺情報

アクセス方法

電車でのアクセス

  • JR紀勢本線・近鉄名古屋線「津駅」から徒歩約15分
  • 津駅西口から三重交通バス「津新町駅」行きに乗車、「三重会館前」下車すぐ

車でのアクセス

  • 伊勢自動車道「津IC」から約10分
  • 駐車場:お城公園周辺に有料駐車場あり

開園時間と入場料

お城公園は常時開放されており、入場無料です。高山神社の参拝時間は日中が推奨されます。

周辺の観光スポット

津城周辺には他にも見どころがあります。

  • 津観音:日本三観音の一つとされる古刹
  • 四天王寺:藤堂高虎が建立した寺院
  • 津市まん中広場:市民交流の場
  • 三重県立美術館:近代美術のコレクションが充実

津城を起点に、津市の歴史と文化を巡る観光が楽しめます。

津城と津市の歴史的関係

現在の津市は、津城によって栄えた城下町がもとになっています。藤堂高虎が津城を整備し、城下町を計画的に配置したことで、津は伊勢国の政治・経済・文化の中心地として発展しました。

城下町時代の町割りは現在の津市中心部の基礎となっており、道路の配置や地名などに往時の面影を残しています。津城は単なる軍事施設ではなく、都市形成の核として機能したのです。

明治維新後、津城は廃城となりましたが、城跡は市民の憩いの場として整備され、津市のシンボルであり続けています。お城公園として親しまれる津城跡は、津市民のアイデンティティの一部となっているのです。

津城の文化財としての価値

津城跡は平成17年(2005年)3月に三重県指定史跡に指定されました。これは津城の歴史的・文化的価値が公式に認められたことを意味します。

さらに2017年には続日本100名城(第152番)に認定され、全国的にも重要な城郭として評価されています。

藤堂高虎という築城の名手が自らの居城として技術の粋を尽くした城であること、織田信包による創築から明治維新まで伊勢国の中心として機能し続けたこと、現在も石垣や堀などの遺構が良好に保存されていることなどが、文化財としての価値を高めています。

津城を訪れる際のポイント

津城跡を訪れる際は、以下のポイントを押さえるとより充実した見学ができます。

  1. 石垣をじっくり観察する:藤堂高虎の築城技術が凝縮された石垣は必見です。犬走りや石の積み方に注目しましょう。
  1. 高山神社を参拝する:藤堂高虎を祀る神社で、続日本100名城のスタンプも設置されています。
  1. 堀端を散策する:内堀の周囲を歩きながら、水堀を活用した防御システムを体感しましょう。
  1. 四季の風景を楽しむ:特に春の桜、秋の紅葉の時期は格別の美しさです。
  1. センターパレスの模型を見学する:往時の津城の全体像を理解するのに役立ちます。
  1. 周辺の歴史スポットも巡る:津観音や四天王寺など、津城と関連の深い史跡を訪れると、より深く津の歴史を理解できます。

まとめ

津城は織田信包による創築、藤堂高虎による大改修を経て、津藩の藩庁として明治維新まで機能した歴史的な城郭です。築城の名手・高虎の技術が凝縮された石垣、水堀を活用した防御システム、天守を持たない実用的な設計など、多くの見どころがあります。

現在はお城公園として美しく整備され、石垣や堀などの遺構とともに、日本庭園・西洋庭園、四季折々の風景が楽しめる市民の憩いの場となっています。続日本100名城に認定され、三重県指定史跡としても保護されている津城は、津市のシンボルであり、歴史と文化を伝える貴重な遺産です。

津を訪れた際は、ぜひお城公園を散策し、藤堂高虎の築城術と津の歴史に触れてみてください。静かな堀端を歩きながら、往時の城郭の姿に思いを馳せる時間は、きっと心に残る体験となるでしょう。

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