久々利城(岐阜県可児市)

久々利城(岐阜県可児市)
所在地 〒509-0224 岐阜県可児市久々利509
公式サイト https://www.city.kani.lg.jp/15712.htm

久々利城(岐阜県可児市):土岐氏一族の居城から森長可による落城まで、戦国時代を物語る山城遺構

岐阜県可児市に位置する久々利城(くくりじょう)は、美濃国守護・土岐氏の庶流である久々利氏が南北朝時代から戦国時代にかけて居城とした山城です。東濃地域における土岐氏一族の勢力拠点として重要な役割を果たし、現在でも二重堀切や桝形虎口など戦国時代の城郭遺構が良好に残されています。本記事では、久々利城の歴史、築城から落城までの経緯、見どころとなる遺構、そしてアクセス情報まで詳しく解説します。

久々利城の歴史と築城の背景

土岐康貞による築城と久々利氏の成立

久々利城の正確な築城年代は明らかになっていませんが、延元・正平年間(1336年~1370年)に美濃国守護・土岐頼康の弟である土岐康貞によって築かれたとされています。築城時期の上限は14世紀半ばの南北朝時代まで遡ることができ、当時の政治的混乱の中で土岐氏一族が東濃地域の支配を固めるために築いた城と考えられています。

土岐康貞は三河守悪五郎と称し、豪勇の士として知られていました。1352年(正平7年)に南北朝の争乱で戦死したとされ、その子である行春の時代に久々利氏を名乗るようになったと伝えられています。久々利氏は代々「悪五郎」の名を継承し、この通称は久々利氏の当主を示す称号として定着しました。

室町時代における久々利氏の地位

久々利氏は美濃国守護・土岐氏の一族として、また室町幕府の奉公衆としての地位を確立しました。奉公衆とは将軍直属の軍事力として機能した武士団であり、久々利氏は地方の有力国人でありながら中央とも繋がりを持つ特別な立場にありました。この二重の地位が、久々利氏が東濃地域において大きな権力を持つ基盤となったのです。

久々利城は単なる軍事拠点ではなく、久々利氏の本拠地として政治・経済の中心でもありました。城下には久々利氏の家臣団や商工業者が居住し、地域の中心地として発展していたと考えられています。

戦国時代の久々利氏と周辺勢力との関係

戦国時代に入ると、美濃国は斎藤道三による下剋上の舞台となりました。道三が美濃を支配した時代、久々利氏は烏峰城(金山城)主であった道三の養子・斎藤妙春を討つなど、独自の軍事行動を展開しました。これは久々利氏が単なる守護代の配下ではなく、独立した勢力として行動できる力を持っていたことを示しています。

永禄8年(1565年)、織田信長が東美濃に侵攻すると、金山城主として森可成が配置されました。この時、久々利氏は森氏の配下となり、織田政権下での地位を保ちました。しかし、この関係は久々利氏にとって従属的なものであり、後の悲劇の伏線となります。

本能寺の変と久々利城の落城

国人衆の一斉蜂起と森長可の鎮圧

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれると、美濃国の情勢は一変しました。信長の死を知った久々利頼興ら東濃の国人衆は、森氏の支配から脱却しようと一斉に蜂起します。これは織田政権下で抑圧されていた在地勢力が、信長の死を機に独立を回復しようとした動きでした。

金山城主・森長可(森可成の子)は、この国人衆の反乱を徹底的に鎮圧する方針を取りました。森長可は「鬼武蔵」の異名を持つ勇猛な武将として知られ、その苛烈な性格は東濃の国人衆に恐れられていました。

久々利頼興の最期と城の陥落

天正11年(1583年)、森長可は久々利頼興を金山城へ招き、酒宴を催しました。これは表面的には和解の場でしたが、実際には久々利氏を滅ぼすための謀略でした。酒宴の帰路、久々利頼興は森長可の手の者によって殺害されます。当主を失った久々利城は森氏の軍勢に攻められ、陥落しました。

この事件により、南北朝時代から約230年にわたって東濃地域に勢力を誇った久々利氏は滅亡しました。落城後、久々利城は森氏の番城(支城)として機能し、森家家臣の戸田勘左衛門が城代として配置されたと伝えられています。

森長可は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死し、その後は弟の森忠政が金山城主となりましたが、久々利城がいつまで機能していたかは明らかではありません。おそらく江戸時代初期には廃城となり、城としての役割を終えたと考えられています。

久々利城の構造と縄張りの特徴

二つの尾根を利用した複合的な城郭構造

久々利城は東側尾根と西側尾根という二つの尾根をまたいだ独特の構造を持っています。東側尾根には曲輪(くるわ)を階段状に配置した城郭部分が展開し、西側尾根には方形に区画した居館部分が設けられていました。この構造は、軍事機能と居住機能を分離した戦国期の山城の典型例といえます。

城全体の規模は比較的大きく、主郭(本丸)を中心に複数の曲輪が配置されています。各曲輪は切岸(きりぎし)と呼ばれる急峻な人工的崖で区切られており、敵の侵入を困難にする工夫が随所に見られます。特に大規模な切岸は久々利氏の権力の大きさを物語る遺構として注目されています。

築城当初と戦国後期の改修の痕跡

久々利城の遺構を観察すると、築城当初の単調な造りと、戦国時代後半に導入された高度な防御施設が混在していることがわかります。これは城が長期間にわたって使用され、時代に応じて改修が加えられた証拠です。

築城当初は比較的シンプルな曲輪の配置だったと考えられますが、戦国時代後半になると横矢(よこや)掛かりや桝形虎口(ますがたこぐち)、横堀などの高度な防御技術が導入されました。これらは敵の動きを側面から攻撃したり、虎口(出入口)での防御力を高めたりするための工夫で、戦国期の築城技術の発展を示しています。

久々利城の見どころとなる遺構

二重堀切:城の防御の要

久々利城の最大の見どころの一つが、本丸背後に設けられた二重堀切です。堀切とは尾根を断ち切るように掘られた空堀で、敵の侵入を防ぐとともに、城の区画を明確にする役割を持ちます。久々利城の二重堀切は規模が大きく、深さも十分にあるため、当時の防御力の高さを実感できます。

二重堀切は単なる一本の堀ではなく、二本の堀を連続して配置することで防御力を倍増させた工夫です。最初の堀を突破しても次の堀が待ち構えているため、攻撃側にとっては非常に困難な障害となりました。現在でも明瞭に残るこの遺構は、久々利城を訪れる際に必見のポイントです。

三の丸の桝形虎口

三の丸に残る桝形虎口も重要な見どころです。桝形虎口とは、出入口を「桝」の字のように屈曲させた構造で、敵が一直線に侵入できないようにした防御施設です。狭い通路を通らざるを得ない敵を、周囲の曲輪から集中攻撃できる仕組みになっています。

久々利城の桝形虎口は戦国時代後半の改修で導入されたと考えられ、発達した虎口の形態を示しています。この遺構は戦国城郭のモデルケースとして研究者からも注目されており、当時の築城技術の高さを物語っています。

段状の郭群と切岸

東側尾根に展開する段状の郭群も見応えがあります。複数の曲輪が階段状に配置され、それぞれが切岸で明確に区切られています。切岸の高さは場所によって異なりますが、高いところでは数メートルに達し、登攀が非常に困難な急斜面となっています。

これらの郭群は、平時には兵士の駐屯地や物資の貯蔵場所として機能し、戦時には多層的な防御ラインを形成しました。現在でも各曲輪の平坦面がよく残っており、城の規模と構造を理解する上で重要な遺構となっています。

横堀と土塁

城内には横堀(尾根の斜面に沿って掘られた堀)や土塁(土を盛り上げた防壁)も確認できます。横堀は敵の横移動を制限し、攻撃ルートを限定する効果があります。土塁は矢や鉄砲の攻撃から身を守るとともに、敵の視線を遮る役割を果たしました。

これらの遺構は、久々利城が単純な山城ではなく、戦国時代の最新技術を取り入れた高度な城郭であったことを示しています。城跡は現在も手入れが行き届いており、これらの遺構を明瞭に観察することができます。

久々利城跡の現状と保存状態

緑豊かな山城としての魅力

現在の久々利城跡は緑豊かな山林に覆われており、自然と歴史が調和した空間となっています。春には新緑、秋には紅葉が美しく、城郭散策とともに四季折々の自然を楽しむことができます。登城道は整備されており、比較的歩きやすいため、山城初心者でも訪れやすい環境です。

城跡は地元の保存会や行政によって適切に管理されており、主要な遺構には説明板が設置されています。草刈りなどの手入れも定期的に行われているため、遺構の観察がしやすく、城郭ファンから高い評価を受けています。

可児市による文化財としての保護

久々利城跡は可児市の重要な文化財として位置づけられており、保護と活用が進められています。可児市郷土歴史館では久々利城に関する資料が展示されており、城の歴史や構造について詳しく学ぶことができます。また、定期的に城跡見学会やガイドツアーも開催されており、専門家の解説を聞きながら城跡を巡ることも可能です。

近年では、久々利城を含む可児市内の山城群が「美濃金山城跡及び周辺の山城群」として注目を集めており、地域の歴史資源としての価値が再認識されています。

久々利城へのアクセスと訪問ガイド

所在地と基本情報

所在地: 岐阜県可児市久々利

城郭分類: 山城

築城年代: 14世紀半ば(南北朝時代)

築城者: 土岐康貞

主要城主: 久々利氏、森氏

廃城年代: 16世紀末~17世紀初頭(推定)

車でのアクセス

久々利城跡へは車でのアクセスが便利です。東海環状自動車道「可児御嵩IC」から約15分、中央自動車道「多治見IC」からは約25分の距離にあります。

駐車場は久々利地区センター(可児市久々利1644-1)を利用することができます。ここから城跡登山口までは徒歩約5分です。駐車場は無料で利用でき、トイレも完備されています。なお、可児市郷土歴史館にも駐車場とトイレがあり、こちらを拠点にすることも可能です。

公共交通機関でのアクセス

公共交通機関を利用する場合、JR太多線「可児駅」または名鉄広見線「可児駅」が最寄り駅となります。駅からは東鉄バス「久々利」行きに乗車し、「久々利」バス停で下車、徒歩約10分で城跡登山口に到着します。ただし、バスの本数は限られているため、事前に時刻表を確認することをお勧めします。

登城時の注意点

久々利城は山城のため、登城には以下の準備と注意が必要です:

  • 服装: 動きやすい服装と滑りにくい靴(トレッキングシューズ推奨)
  • 所要時間: 登城口から主郭まで約20~30分、城内見学を含めて1.5~2時間程度
  • 持ち物: 飲料水、虫除けスプレー(夏季)、雨具(天候不安定時)
  • 季節: 春~秋が訪問に適していますが、夏季は蚊や蜂に注意
  • 単独行動: できれば複数人での訪問が望ましい

城跡内には急斜面や足場の悪い箇所もあるため、特に雨天後は滑りやすくなります。無理のない範囲で散策し、安全を最優先にしてください。

周辺の関連スポット

可児市郷土歴史館

久々利城を訪れる際には、可児市郷土歴史館(可児市久々利1644-1)への立ち寄りがお勧めです。ここでは久々利城をはじめとする可児市内の城跡に関する資料が展示されており、城の歴史や構造について詳しく学ぶことができます。また、城跡散策の前に訪問することで、より深い理解を持って城跡を見学できます。

美濃金山城跡

久々利城から車で約15分の距離にある美濃金山城跡も必見です。森可成・長可父子の居城として知られ、久々利城の落城に深く関わった城です。国の史跡に指定されており、石垣や虎口などの遺構が良好に残されています。久々利城とセットで訪問することで、戦国時代の東濃地域の歴史をより立体的に理解できます。

明智城跡

明智光秀の出自に関わるとされる明智城跡も、車で約20分の距離にあります。美濃における明智氏の本拠地とされ、光秀の生涯を考える上で重要な史跡です。久々利城、美濃金山城とともに、美濃の戦国史を巡るルートとして人気があります。

まとめ:久々利城の歴史的価値と魅力

久々利城は、南北朝時代から戦国時代にかけて東濃地域に勢力を誇った久々利氏の居城として、地域史において重要な位置を占めています。美濃守護・土岐氏の一族でありながら室町幕府奉公衆でもあった久々利氏の二重の地位は、この城が単なる地方豪族の城ではなく、中央とも繋がりを持つ重要拠点であったことを示しています。

本能寺の変を契機とした国人衆の蜂起と森長可による徹底的な鎮圧、そして久々利頼興の悲劇的な最期は、戦国時代の厳しい権力闘争を象徴する出来事でした。約230年続いた久々利氏の歴史が一夜にして終わりを告げたこの城には、戦国の世の無常さが刻まれています。

城郭遺構としては、二重堀切、桝形虎口、段状の郭群など、戦国時代の築城技術を示す重要な遺構が良好に残されています。築城当初の単調な構造から戦国後期の高度な防御施設への変遷も読み取ることができ、城郭研究の観点からも貴重な史跡といえます。

現在も緑豊かな山城として保存され、適切に管理されている久々利城跡は、歴史愛好家だけでなく、自然散策を楽しみたい方にもお勧めのスポットです。岐阜県可児市を訪れる際には、ぜひこの歴史ある山城に足を運び、戦国時代の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。

地図

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